第一話:孤独死のトラウマと「即処刑」のフラグ
(……痛い。胸が、苦しい……)
佐藤和夫(58歳)の最後の記憶は、エアコンの故障したアパートの自室で、ドロドロに溶けたアイスクリームのカップを握りしめたまま胸を押さえつけて倒れた瞬間だった。
大手メーカーの総務部次長。上からは「コンプライアンス遵守」と「予算削減」の無理難題を突きつけられ、下からは「労働環境の改善」と「ハラスメント対策」の突き上げを食らう、永遠の板挟み人生。妻とは熟年離婚し、娘からはLINEの返信すら来ない。
猛暑の休日、誰にも気づかれずに心筋梗塞で倒れ、冷たくなっていく自分の意識の中で、和夫は死ぬほど後悔していた。
(こんな……こんな最期、嫌だ……! もっと……もっと穏やかな老後を過ごしたかった……! 定年退職して、園芸でもしながら、ポカポカした日当たりの良い縁側で茶をすすりたかった……!)
その強烈な無念と、「生」への凄まじい執着が、和夫の意識を闇の底から引きずり上げた。
「殿! お目を覚ましてください、信茂様!」
耳元で、怒号のような大声が響く。
和夫が薄目を開けると、そこは和室だった。いや、和室というにはあまりにも殺風景で、土と汗と油の匂いが充満する、薄暗い部屋だ。
目の前には、髭面の厳めしい男が、涙目になりながら自分の肩を揺すっていた。
「……え? あ、小林……さん? 営業の……?」
「何を寝ぼけておられるのですか! 某は小林宮内助にございます! 信茂様、勝頼様がお呼びにございますぞ! 新府城の火の手を上げる刻限、もはや猶予はございません!」
小林宮内助? 新府城? 勝頼?
その瞬間、佐藤和夫の58年間のサラリーマン人生の記憶と、この肉体の持ち主の記憶が、激しい頭痛とともに怒涛の勢いで合流した。
(あ……あぐっ……!?)
脳裏に浮かび上がる、戦国の世の記憶。
ここは天正十年(1582年)三月。
武田家当主・武田勝頼の臣、郡内領主――小山田左衛門尉信茂(おやまだ さえもんのじょう のぶしげ)。
「な……!?」
和夫――いや、信茂は喉の奥から声にならない悲鳴を上げた。
歴女の部下が会社で熱弁していた、あの戦国史の知識が頭の中で電撃のように弾けたのだ。
(小山田信茂……!? 嘘だろ……!? 武田信玄の「武田二十四将」の一人にして、武田家最後の土壇場で勝頼を裏切った男……! 武田を滅ぼした最大の戦犯として歴史に名を刻み、その挙句――)
信茂は血の気が引くのを感じた。
(降伏しに行った織田信忠(信長の長男)から『主家を裏切った不忠者』と罵られ、一族ごと『即処刑』された男じゃないかーーーッ!?)
「ひっ……!?」
あまりの衝撃に、信茂は腰を抜かしかけた。
死にたくない。サラリーマン時代、過労死寸前で倒れ、誰にも看取られず孤独死したあの絶望。それがようやく終わったと思ったら、次は「戦国時代で最も有名な裏切り者として打ち首」という最悪の確定未来が待っているだと!?
(冗談じゃない! 冗談じゃないぞ!! なんで俺がそんな目にあわなきゃならないんだ! 俺の目標は『穏やかな老後』だぞ! 畳の上で茶をすすって死ぬことなんだよ!!)
「信茂様!? お顔色が真っ白でございますぞ! どこかお悪いのですか!?」
心配そうに覗き込んでくる小林宮内助の顔を、信茂は必死で見つめ返した。
(落ち着け……落ち着け佐藤和夫! お前は30年間、数々の社内政治、不祥事の揉み消し、下請けとのタフな交渉をくぐり抜けてきた総務部次長だ! この状況を『リスク管理(危機管理)』の観点から再構築するんだ!)
信茂は荒い息を整えながら、頭の中で高速で電算機を叩いた。
状況整理だ。
現在、織田信長・徳川家康の連合軍によって、武田家は壊滅寸前。
織田の圧倒的な軍勢を前に、新築したばかりの新府城に籠城することは不可能。
そこで勝頼は、城を捨てて逃げることを決断した。
史実のルートはこうだ。
・勝頼を「自分の領地である岩殿城(郡内)へお越しください」と誘う。
・勝頼が新府城に火を放ち、郡内へ向かって逃走を開始する。
・笹子峠で小山田軍が勝頼を裏切り、通行を拒否(出入禁止)。
・行き場を失った勝頼は天目山で自害(武田家滅亡)。
・信茂は「手柄」を持って織田信忠に降伏しに行く。
→織田信忠「主君を売るような奴は信用できん」➔ 即処刑。
(……愚者!! 愚者すぎるぞ史実の小山田信茂!!)
信茂は心の中で叫んだ。
(なんなんだこの中途半端なリスクヘッジは! 裏切るなら最初から誘うな! 誘っておいて土壇場で『やっぱりダメです』とか、取引先だったら出入禁止どころか業界追放レベルの大ポカだぞ! そりゃ信長や信忠みたいな厳しいトップからしたら『一番関わりたくないリスク要因』として即処刑されるに決まってるだろ!!)
「信茂様! 勝頼様がお待ちにございます! 岩殿城へのお立ち退きの準備、ただちにご指示を!」
宮内助が焦燥しきった声で促す。
「待て……待て宮内助。落ち着け」
信茂は震える手で自分の額を押さえた。
「い、いや、落ち着けましょうか!? 織田軍は目と鼻の先まで迫っておりますぞ!」
「だからこそ落ち着くのだ!」
信茂は立ち上がった。前世で培った「修羅場の時の無駄に堂々とした態度」が、長年の習い性として自然と出た。
(死のフラグはどこにある? 一番の命取りは『勝頼様を誘っておいて裏切る』という「最悪な第一印象」を織田家に与えることだ。ならばどうする? 答えは一つ……『最初からお断りする』だ!)
「宮内助。勝頼様のもとへ参る」
「は、ははっ!」
信茂は自分の着物の裾を強く握りしめた。生存をかけた、命がけの社内折衝(交渉)が今、始まる。
新府城の本陣は、地獄絵図のような混乱に包まれていた。
家臣たちは荷物をまとめ、兵たちは逃げ惑い、いたるところで怒号が飛び交っている。
その中心に、武田家当主・武田勝頼がいた。
偉大な父・武田信玄の影に怯え、家臣たちの不満を抑えつけられず、成果を焦り続けて追いつめられた二代目社長。その顔には色濃い疲労と絶望が滲んでいた。
「おお、左衛門尉(信茂)! 来たか!」
勝頼は信茂の顔を見るなり、すがるような目を向けた。
「見たとおりだ。この城での籠城は不可能。穴山梅雪めも裏切り、もはや頼れるのはおぬしだけだ! おぬしの領地、郡内の岩殿城へ逃れ、そこで織田を迎え撃ちたい。準備はできているな!?」
勝頼の言葉に、周囲の側近たちが一斉に信茂を見る。
史実の信茂なら、ここで「はっ! 岩殿城へお越しくだされば、我が小山田の精鋭が命に代えてもお守りいたします!」と大見栄を切っていたはずだ。
(……言えるかぁぁぁッ!! そんな口約束、できるわけがないだろ!!)
信茂の脳内でリスクアラートがけたたましく鳴り響く。
岩殿城は確かに険しい要害だ。だが、今の武田軍の士気、補給線、そして織田軍の圧迫を考えれば、郡内に勝頼を引き込んだところで共倒れになるのは目に見えている。しかも、郡内の領民や自分の臣下たちが「織田家と戦うなんて嫌だ」と反発するのは必至。その結果、史実のように土壇場で勝頼を拒絶することになるのだ。
最初から無理な仕事を引き受けて、後から「できませんでした」と言うのが一番信用を失う。
社内政治の鉄則だ。できない仕事は、受注する前に完璧なロジックと丁寧な態度で断るのが最高のリスク管理!信茂は深々と平伏した。深々と、だが絶対に目は逸らさずに。
「……勝頼様。大変申し上げにくいことでございますが……岩殿城での籠城、断固としてお止めいただきたく存じます」
一瞬、本陣の喧騒がピタリと止まった。勝頼が目を見開く。
「……な、何と言った……? 今、何と言ったのだ、左衛門尉!?」
「岩殿城での籠城は、お取りやめくださいませと申し上げました」
「な……なんだとっ!?」
勝頼の顔が赤く沸騰した。刀の柄に手をかける。
「貴様……! この期に及んで余を見捨てる気か!? 穴山に続き、おぬしまで余を裏切るというのか!!」
周囲の側近たちが一斉に刀を抜きかけた。ピリピリとした殺気が信茂の首筋を撫でる。
(ひいいいっ! 殺される! 斬られる!)と心の中で叫びながらも、信茂は前世でクレーム対応を千回以上こなしたプロの顔(無表情)を崩さなかった。
ここで慌てたら負けだ。感情的にならず、データとロジックで相手を納得させる。それが中間管理職の交渉術だ。
「お静まりください! 勝頼様! 某が武田家への忠義を捨てたとお思いか! 逆でございます! 勝頼様の御命と、武田の家名を残すために申し上げているのです!」
「何……?」
勝頼の手が止まる。信茂は畳に頭をこすりつけながら、一気に言葉を畳みかけた。
「冷静にお考えください! 今、岩殿城へお入りになられましても、織田・徳川の追撃を振り切ることは不可能です! なぜか! 郡内の兵力は、度重なる戦で荒廃し、糧食も底を突いております! 今、勝頼様の軍勢をお迎えすれば、共倒れになることは明白! 我ら小山田が飢えて倒れれば、誰が勝頼様をお守りできましょうか!」
「そ、それは……」
信茂は言葉を切り、ガバッと顔を上げた。前世のプレゼンで培った「力強い目力」を勝頼に叩きつける。
「裏切りなどではありません! 『準備不足の事業(逃走)は失敗する』という冷徹な事実を申し上げているのです! 我が領地へおいでになるのは、火の車の中に飛び込むも同然にございます!」
「ぐ……っ」
勝頼が絶句した。
偉大な父・信玄の時代から、武田家の家臣たちは「イエスマン」か「理想論を語る精神論者」ばかりだった。「冷徹な現実的リスク」を数値を出して提示されたことなど、勝頼の人生で一度もなかったのだ。
「で、では……余はどうすればよいのだ!?」
勝頼の声が震えていた。怒りではなく、圧倒的な困惑と不安。
信茂は心の中で「よし、話を聞く姿勢になった」とガッツポーズをした。ここからが「代替案の提示」だ。断るだけで代替案を出さないヤツは無能と言われる。
「勝頼様。木曾も落ち、穴山も寝返った今、新府城を捨てること自体は正解にございます。しかし、行くべきは郡内ではございません。真田昌幸の居城・岩櫃城でございます!」
「真田の……岩櫃!?」
(そう、史実でも真田昌幸は『岩櫃に来てください! 絶対にお守りします!』と熱烈にオファーを出していたんだ! 真田のオファーに乗るのが一番生存率が高いんだよ勝頼様!)
「真田昌幸は知略に長け、岩櫃の要害は岩殿の比ではありません。また、上杉家との連携も取りやすい地にございます! 某は……某は郡内に残り、織田軍の注意をこちらに惹きつける囮となりましょう! 勝頼様はその隙に、真田を頼って北へお逃げくだされ!」
信茂は涙を流さんばかりの演技で叫んだ。
(まあ、俺は囮になるフリをして速攻で織田に降伏の書類を送るんだけどね! でもこう言っておけば、勝頼様に対して『自分を捨てて逃げた裏切り者』じゃなくて『身を挺して逃がしてくれた忠臣』という名目が立つ! 少なくとも勝頼様を騙して途中で見捨てるという最悪の罪悪感と史実のフラグは回避できる!)
勝頼は目を見開いたまま、信茂を見つめていた。
「左衛門尉……おぬし、余のために……囮になると……?」
「ははっ! 武田の家名を繋ぐためであれば、この信茂、どこまでも悪名を背負う覚悟にございます!」
(うわー、自分で言ってて鳥肌が立つようなクサいセリフ! でも戦国武将にはこれくらいドラマチックな方が刺さるんだよ!)
勝頼の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「許せ……左衛門尉! 余は……おぬしを疑った! 穴山や木曾と同列に扱おうとした余を許してくれ!」
勝頼は信茂の手を強く握りしめた。
「おぬしの言葉、胸に刻んだ! 余は……真田を頼り、岩櫃へ向かう! 生きて……生きて再び会おうぞ、左衛門尉!」
「ははっ……! どうか、お達者で……!」
(よっしゃぁぁぁぁぁ!! 交渉成立!!!)
信茂は心の中で絶叫した。
これで「勝頼を郡内に誘導して見捨てる」という史実の最悪な選択肢は完全に消滅した。勝頼は真田昌幸のもとへ向かい、史実以上の生存確率を手に入れた。そして自分は「勝頼を追放した裏切り者」ではなく、「勝頼に岩櫃行きを勧めて別れた領主」という立場を確立したのだ。
勝頼の一行が、涙ながらに新府城を去っていった。
火の手が上がる新府城を背に、信茂は自分の軍勢(約一千)を率いて、本拠地である郡内・岩殿城へと帰還した。
「信茂様……本当にこれでよかったのですか?」
側近の小林宮内助が、複雑な表情で尋ねてくる。
「勝頼様を真田のもとへ逃がし、我らは郡内に孤立いたしました。織田の大軍が押し寄せてくれば、我らなどひとたまりもございませんぞ……」
「宮内助。お前はバカか?」
信茂は馬上でフッと鼻で笑った。前世の「嫌味な上司」のモードだ。
「え?」
「いいか、よく聞け。武田家はもう終わりだ。滅亡確定だ。滅亡する家に最後まで付き合って心中するのは『忠臣』ではなくただの『無能』だ」
「め、滅亡……?」
「勝頼様には、勝頼様の道(真田ルート)を用意して差し上げた。これで我らの義理は百点満点で果たした。ここからの我々の仕事は一つ……いかにして我が小山田家を、織田家に高値で売り込むかだ!」
信茂は鞍の上で胸を張った。
「宮内助! すぐに城に戻り、以下の作業を開始せよ!」
「は、ははっ! 何をいたしますので!?」
信茂は懐から、あらかじめ前世の知識を総動員して書き溜めておいたメモ(木簡)を取り出した。
「第一に! 『郡内全域の詳細な領地台帳(検地帳)』の作成! 村ごとの石高、年貢の徴収実績、特産品(甲斐絹など)を完璧に整理しろ!」
「は……はあ?」
「第二に! 『郡内の主要道路および隠れ道の詳細な地図』と『補給場(兵糧・水)の目録』の作成!」
「は、はい!?」
「第三に! 我が小山田家の配下にある武士・領民の『技能別人員名簿』だ! 戦ができる者、大工仕事ができる者、書類が書ける者、英語……じゃなくて他国の言葉が喋れる者をすべて目録化しろ!」
宮内助は目を白黒させた。
「な、なぜそのようなものを……? 戦の準備ではないのですか!?」
「アホか! 戦なんかして勝てるわけがないだろ! これはな……『最高の中途採用向け職務経歴書』だ!!」
信茂はニヤリと笑った。
「ぽ、ぽーとふぉりお……?でござるか???」
ついてこれないか・・・仕方ないな
史実の信茂がなぜ処刑されたか。
それは「裏切り者」だったからだけではない。降伏した際に「手柄」として差し出したのが「勝頼を追い払いました」という陰湿な裏切りだけであり、織田家にとって「こいつを生かしておくメリット(実務上の利点)」が何一つなかったからだ。
織田信長という男は、合理主義の塊だ。
使えない奴、不忠な奴は殺すが、「圧倒的に役に立つ奴」「即戦力になる奴」には、過去の経緯を問わず破格の待遇を与える。
(織田家が甲斐を統治する際、一番困るのは何か? 地理がわからないことと、領民の把握ができていないことだ! そこに『完璧に整理された領地データ』と『トラブルなくスムーズに引き継ぎできるマニュアル』を添えて降伏してみろ!)
「織田の先鋒……織田信忠(信長の嫡男)の軍が甲斐に入ったら、すぐにこの資料一式を持たせて使者を送る。降伏の使者ではない。『新事業のコンサルタント』としてのプレゼンターだ!」
信茂の目が怪しく光った。
「死なない……! 俺は絶対に死なないぞ! 織田信長だろうが信忠だろうが、俺の『圧倒的な仕事できる感』で見返して、絶対に終身雇用(家臣化)を勝ち取ってみせる!!」
自らの命と、穏やかな老後をかけた、戦国サバイバル中間管理職の第1章。
信茂は馬を走らせながら、脳内で完璧な「降伏プレゼン資料」の構成を練り直すのだった。




