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仄暗い短編集  作者: 鈴生
6/6

追跡

 息が苦しい。

 足が縺れる。

 踏み出したはずの右足が、平坦なはずの地面にのめり込むようにして絡め取られる。

 それを跨ぐようにして大きく踏み込んだ左足に、うまく力が入らなくなって膝をつく。

 それでも、立ち止まってはいけない。

 地を這ってでも、四つん這いになっても、進むことをやめてはならない。


 ざらつく地面に肘をついて、腕の力だけで身体を引きずっていく。両足はもう役に立たない。立ち上がることもできないほどに、鉛のように重たくなって、私の言うことを何も聞かなくなっていた。

 どうしてここまでしなければいけないのだろう。

 そんなの、分かりきっている。

 何かに追われているからだ。

 何かを追っているからだ。

 それが何かなんて分からない。

 分かったところでどうしょうもない。

 今はただ、見えもしないどこかに向かって足を動かさなければ。


 後ろから、昔懐かしい友人の声が聞こえた気がした。もうとうに顔なんて忘れてしまった子供時代の頃の友人の声だ。

 何を言っているのかはわからない。

 きっと私を引き止めるための言葉を発しているのだろう。

 それでも歩みを止めてはならない。

 腕を動かすことすらままならなくなってしまっても、それでも、地面に爪を立てて前へ這っていく。

 走りたかったはずなのに。

 走らなければいけないのに。

 どうして身体は言うことを聞かないのだろう。

 もっと早く走れるはずなのに。

 もっと早く動けるはずなのに。

 頼むから動いてくれ。

 そうでなくては逃げ切れない。

 お願いだから進んでくれ。

 そうでなくては追いつかれてしまう。


 指にすら力が入らなくなる。辛うじて指先に力が込められる程度だ。

 身体は地面と同化してしまったかのように一切動かなかった。

 思考ばかりが先行する。

 視線だけが前に向く。

 目の前は真っ暗だ。

 目を凝らせばどことなく薄明かりが灯っているような気がした。

 まだ、前に行けば、きっと、なんとかなる。

 なんとかなる、はずなのに。

 もう、ここになんていたくないのに。

 前に行かなければ、いけないのに。

 誰かに引っ張られているわけでもないのに、目の前のあの薄明かりの灯る空間が遠のいていく。

 どれだけ地面に爪を立てても、歯を食いしばってその波に耐えようとしても、身体はずるずると後ろへ追いやられていく。

 いやだ。

 いやだ。

 いやだ。

 もっと、前へ。

 あの、明かりの灯る空間へ。

 前へいかなければいけないのに。

 後ろになんて行きたくないのに。

 いやだ。

 私を連れて行かないでくれ。

 いやだ。

 いやだ。

 手を伸ばそうとしても、腕は持ち上がらない。

 視線を上げようとしても、どうしても瞼が重くて持ち上がらない。

 身体が、一切言うことを聞かなくなっていた。

 意識が、自分の意志に従うことなく、得も言えぬ何かに抗えずに沈んでいく。

 もっと。

 前に。


 目覚めたのは、ベッドの上だった。しばらく横になったままぼんやりとしていた。頭がうまく働かない。うつらうつらしながら、外から聞こえる草刈りの音に耳を澄ます。部屋の中はぼんやりと明るかった。窓の外からうっすらと青臭い匂いが漂ってきていた。雑草を刈ったとき特有の香りだ。

 枕に顔を押し付けたまま、とろりとした眠気に身を任せる。ここは、どこだっけ。今は、いつだっけ。まあいいか。眠気には勝てっこない。また眠ってしまえばいい。薄く開けていた目を完全に閉じる。また夢の世界に戻ることにした。


 ピピピピピ、というアラームの音で、今度こそ目が覚める。スマホの時刻を確認して跳ね起きる。しまった。寝坊だ。授業に間に合うだろうか。課題をやろうと思って途中で眠気に勝てなくなり、布団に入ってしまったのがいけなかった。やってしまった。今日の授業で発表するはずなのに最後まで完成していない。急いで窓を開ける。ここは一人暮らしをしている自宅だ。草刈りの匂いが鼻先を掠めて、ふと懐かしい気持ちになった。実家にいた頃によく嗅いだ匂いだった。

 そんな感傷に浸っている時間の余裕はない。走って学校へ行かねば。なんとか授業開始時刻に間に合って、そしてついでに他の友人たちに課題について聞いておけばまだ挽回できるだろう。提出するようなものではない。あくまで授業中に質問されるようなものだ。やっていなかったのが悔やまれる。昨夜の自分を恨みたくなる。

 そんなことは言っていられない。最低限の身支度を整えて鞄を引っ掴んで家から飛び出す。

 こんなに慌てるのは、いつぶりだろうかと、走っていく途中で思った。


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