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仄暗い短編集  作者: 鈴生
5/5

取捨

 死は誰にでも等しく降りかかる不幸だ。

 だからこそ、私にとって、死はこれ以上ないほど恐ろしかった。


 小さい頃に、私の両親は病没した。細かいことはあまり覚えていない。病没だったというのも育ててくれた祖父母から聞いただけの話だ。

 祖父母も、私が社会人になって数年した頃に立て続けにこの世から旅立った。愛してくれた暖かな両手が、だんだんと皺だらけになっていって、枯れ木のように温度を失っていくそのさまは、私にこれ以上ないほどの恐怖を植えつけた。

 目を細めて笑ってくれた彼らの瞳の輝きが、日を経るごとに濁っていくのは見ていられなかった。生きる芯を強く持って生きていたその意志が弱っていく様子は、どうしようもなく哀れだった。ついには孫の私のことすらわからなくなり、私を母と間違えるようになってからは、もう見舞いに行く気力も失った。私が祖父母にとっての私である必要は、どこにもないような気がしたのだ。

 峠かもしれないという連絡を受けてからは、気が向かなかったが病院に泊まり込んだ。だから彼らが二度と目を覚まさなくなる瞬間を、克明に見つめていた。


 広い家に一人で住むようになってから、なんとなく自分の将来について考えることが増えた。生活には困っていない。交際したいと思うようなパートナーにも出会っていない。誰かと人生を共にしたいとも思わなかった。

 ひたすらに、自分の命がどれだけ続くかについてだけ、考え続けていた。

 長生きしたかったわけではない。この世に執着があるわけでもない。

 私が恐れたのは、自分の生が絶たれるということだけだった。


 その日は仕事も長期休みで、やることも全て終わらせてしまって、だらだらとスマホを眺めていただけだった。興味もない動画や漫画を流し見しては、画面をスワイプする。特に面白いものもない。買いたいものもない。食べたいものもない。やりたいこともない。目標もない。でも生きることには執着したい。だから寝転がったままスマホを弄り続けているのだ。

 長期休みのついでに、何かアルバイトでもしようかと思った。今時単発のバイトなんていくらでもある。家に居続けても構わなかったし、生活にも一切困っていなかったけれど、なんとなく外の空気を吸った方がいいような気がした。職場で聞こえた笑い混じりの陰口が耳に蘇る。

『あの人、カビ臭くない?』

『カビの香りの柔軟剤でも使ってんじゃないの?何考えてんのかわかんないし喋んないし暗いし!』

『わかるー!あの人に聞きに行くの嫌なんだよねー』

『遺産の一軒家に一人暮らしらしいし、引きこもりやってる方が向いてそうだよねー』

 陰口の内容はどうでもよかったが、他者とのコミュニケーションが嫌いなのは事実だった。世界に興味はないけれど、仮にも社会人なのだから人との関りは増やした方がいいのかもしれない。そう思っての行動だった。


 スマホのアプリをダウンロードして、キーワードをフリック入力する。休みの日にわざわざ働くのだ。割りのいい仕事がいい。そう思って検索をすると、治験のようなバイトがあった。健康食品のテスターを集めているようだった。それにしては妙に報酬額が高い。目を眇めながら画面の説明を読み込む。少なくとも怪しそうなところはない。食品の提供をしているのも名前を聞いたことのある企業だ。

 応募条件を満たしていたので、なんとなく応募することにした。テスターとして勤めるのは半日にも満たない。まだ休みは5日以上あるのだ。他の軽作業系のバイトにも応募をして、画面を伏せた。夕飯でも食べようか。

 食事中はスマホを使わない決まりだ。祖父母が存命だった頃からそういう習慣だったというだけだが、未だにそれが抜けなかった。手を合わせて挨拶をする。時折外で風が吹き荒れる音だけが静かに響く居間で、昼食に作り置きをしたおかずを口に運ぶ。

 きちんと出汁を取ってから作った煮物は、香り高くて美味しかった。祖母に教わったレシピだ。そこらの外食で味わえるようなものではない。その自負があった。祖父からの付き合いで買い続けている白米も、噛むたびに甘味が広がる上質なものだ。

 その付き合いのある農家は、私を実の孫のように可愛がってくれていて、時折日持ちする野菜もおまけに付けてくれたりした。今回は大根だったので、切り干し大根にして保存することにした。小鉢には味見のために作った少量の切り干し大根の煮物が盛り付けられている。油揚げの風味と、大根に染み込んだ出汁の味が口の中に広がる。

 緑茶を一口飲んでから、焼き魚を口に運ぶ。鯖のみりん干しだ。脂と味醂の甘味で、白米がいくらでも食べられそうだった。

 箸を青いビードロの箸置きに置いてから、手を合わせる。小さく、ご馳走様でした、と言ってから皿を片づける。片付けをしながら、たまには日本酒を飲んでもいいかもしれないと思った。祖父が好きだったのだ。

 仏壇には祖父が好きな銘柄が供えられている。私も御伴することがあったので、その銘柄が一番飲み慣れていた。棚から同じラベルの瓶を取り出して、御猪口と徳利をテーブルに並べる。つまみはどうしようかと悩んで、先日スーパーで見かけて買った烏賊の塩辛があったのを思い出す。小皿に少しだけ取り出して、楊枝を添えて並べる。祖父の晩酌をしていたときの光景と全く同じで焦点が一瞬ぶれた。

 深呼吸を一つ挟む。祖父も祖母ももういない。時々それを忘れそうになる。


 晩酌のときくらいはスマホを弄ってもいいだろう。風の音は聞き飽きた。何か音楽を聞くくらいでもいいだろう。クラシックでもいいかもしれない。少し天気の荒れた夜を彷彿とさせるような曲を検索していると、アプリの通知が来た。応募したあの怪しいアルバイトの応募を、どういうわけか通過したようだった。詳細はメールで連絡する、というメッセージが来ていたのでそれを待つことにして、私は音楽と酒に没頭することにした。

 提示された日付は、応募した日から2日後だった。随分慌ただしいスケジュールだ。それほど人手が足りないのか、それともネギを背負ったカモを逃さないためなのか。詐欺なら逃げればいいだけだ。上手くいくかなんて分かりはしないが、そうするしかないだろう。


 朝早くに起きて身支度をして、時間を確認してから玄関の引き戸の鍵を閉める。行ってきます、という言葉は飲み込んだ。

 集合場所は都心部の隅に佇む大きなビルだった。予定時刻より少し早く着いたので、近くの喫茶店でコーヒーを飲むことにした。あまり甘いものは好まない。ブラックのコーヒーを啜りながら、もう一度あのアルバイトの説明文を読み直す。健康食品の詳細は書かれていない。何に効く、どんなものなのかもわからない。メールを読み返しても、数種類の食品を食べて半日程度で解放される程度のことしか書いていなかった。

 溜め息を吐いてコーヒーを一口飲む。美味くもなければ不味くもない。値段相応だろう。スマホを弄りながら時間を潰し、予定時刻に間に合うように荷物をまとめる。店内が暖かかったので上着を腕に掛けたまま店を出ると、外は少し肌寒かった。ビルは本当にすぐそこだが、着ておいた方が無駄に風邪をひかなくて済む。アルバイト先で空調が効いているとも限らない。何よりきちんと屋内に通されるかどうかも怪しい。いつでも動けるようにしておくべきだ。

 薄手の駱駝色のコートに腕を通しながら思考に耽る。健康食品のテスターが事実だとしたら、一体どんな効果のあるものを口にすることになるのだろう。今時流行りの痩せ薬のようなものかもしれない。祖母の遺品の、細身で上品な腕時計に視線を落としてから、慌てて足早に歩き出す。時間の進みが思ったよりも早い。考えごとをしすぎていた。


 ビルのエントランスには、屈強なガードマンが立っていた。内心不安が過る。私は場所を間違えていないだろうか。スマホの画面に目を落として、建物の名前を見上げる。間違っていない。このまま入っていいのだろうか。エントランスの前で右往左往する私を、迷惑そうな顔で通行人が通り過ぎていく。時間だけが過ぎていく。ここで迷っていても仕方がない。詐欺なら詐欺で引っかかった私が悪い。腹を括って建物に足を踏み入れようとすると、重たそうな木製の扉が内側から開いて、中から痩せ気味で品の良さそうな女性が出てきた。

 私よりも一回りほど年上だろうか。首元にはスカーフが巻かれ、髪は丁寧に結い上げてあった。その艶やかな黒髪には、幾筋か白く光るものが見えた。背筋は真っ直ぐに伸びていて、幾何学模様のスーツを嫌味もなく見事に着こなしている。その女性がこちらを見て、少し首を傾げる。外見の強かな印象とは裏腹に、その仕草にはどことなくあどけなさがあった。

「貴女は…アルバイトの(よもぎ)さんですか?」

 問いかけに頷きで答える。他にどうすればいいか分からなかった。

「予定時刻通りですね。中へどうぞ。」

 そう言って彼女は私に手を差し出した。その意図は汲み取れなかったが、なんとなくその手を取ることにした。


 彼女の手に触れてから、急いで手を引っ込める。

 彼女の青白くて、血管が透けて見えるような痩せた手は、まるで蝋人形のようだった。

 その様子を見た彼女は、気分を悪くする様子もなく困ったように笑った。

「ごめんなさいね、冷え性なもので…手袋をするべきでしたね。」

「い、え…とんでもない、です…」

 普段ならなんてことなく言える言葉も、今は喉につっかかってしまったように上手く喋れなかった。


 ビルの中に入ってすぐに、大きなエレベーターに案内された。()()()は地下にあるのだと彼女は言った。エレベーターの広い箱の中で、耳が痛くなるような沈黙が落ちる。どこに視線を向けていればいいのかわからず、私は自分の足元ばかり見ていた。

 壁面のボタンにはB3の文字が点灯していた。エレベーターは滑らかに駆動している。箱の中の照明は青白い光を放っており、それでいて明るさがかなり絞られていて、あまり周りがよく見えない。それのせいなのだろうか、妙に時間が引き伸ばされているような感覚があった。地下と言ってもそれほど深い場所ではないはずなのに。辿り着くまでにそんなに時間はかかるまい。

 何も言わない私に、女性が声を掛けた。

「蓬さん、貴女は…死ぬのが怖いですか?」

 脈絡のない質問に、一瞬戸惑った。顔を上げて女性の表情を伺おうとしても、照明の陰になった彼女の顔はよく分からない。

 口をはくはくと動かしてから、ようやく声が出た。

「……怖い、です」

 女性はその答えを聞いて、この場にいっそ不釣り合いなほどの満面の笑みを浮かべた。それがこの場から異様に浮いていて、さながら幽鬼のように見えた。二の腕が粟立つのがわかった。この場から逃げ出したい。今すぐにでも。そう思っても、逃げることは叶わない。エレベーターは未だに扉を開ける様子はなかった。

「貴女を選んで、本当によかった。」

 満足げに独り言ちた女性の声が聞こえると同時に、軽やかな機械音がして箱が止まった。扉が逃げ出したくて堪らない私を焦らすようにゆっくりと開いて、到着した階の異質さをじわじわと箱の中に運んできた。


 地下三階は、真っ青だった。壁面が青いというのではない。水槽だ。階全てを覆うほどの、巨大な水槽が、目の前に鎮座していた。ちかちかと切れかかった蛍光灯が、エレベーターの下り口を照らしていた。ここの階の照明もかなり絞られている。まるで自分が深海にいるかのように錯覚するほどに、全てが青く、暗かった。

 女性に促されるままに、私は大きな水槽の前に立った。中には何もいない。底は見えない。きっとまた下の方に続いているのだ。薄ら寒くなって上の方を見上げると、何かが煌めいたのが見えた。魚だろうか。こんなに大きな水槽に入れているということは、魚ではなく鮫か何かだろうか。それにしても、女性のあの意味深長な質問と、この水槽と、テスターと、何の関係があるのだろう。

 水槽の中で、きらりと、また何かが煌めいた。すこしだけ影が落ちる。かなり大きい。

「…貴女には、彼を食べてもらうの。」

「…はい?」

 いつの間にか隣に立っていた女性の言葉の意味が分からず、聞き返す。口元に手を当てて、彼女は楽し気に笑った。言葉の途中で、笑いが堪えきれずに零れ落ちる。

「彼よ。彼。ふふ、()()の、彼。」

 眉間に皺が寄る。人魚だなんて。あり得ない。彼女は何を言っているのだろう。

 水槽に両手をついて必死に上を覗き込む。あの煌めきがなんなのか知りたかった。

 私の肩に手を掛けて、女性は至極楽し気に話しかけてきた。

「彼はね、私たちが蘇らせた本物の人魚よ。昔の伝承によくいたでしょう?人魚って。それをなんとか探し出して、実在していたことも突き止めて、現代に蘇らせたのよ。色んな最新技術を使ってね。」

 彼女の手を跳ねのけるようにして、身体ごと彼女に向き直る。後ろには影が迫ってきているのは分かっていたが、今はそれどころではない。この女性は正気ではない。誰が見たってそうだ。人魚なんて、存在しない。彼女が言っているのは、奇形の魚か、それとも悍ましい人体実験の末の産物だ。口を開こうとしたところで、彼女に制される。

「貴女が食べる健康食品は、彼よ。彼の心臓のテスターになってもらうのです。」

 私が口を挟む前に、彼女の言葉が続く。

「人魚の心臓は不老不死の妙薬と言われています。私で、それは実証されております。」

 そう言って、彼女の手が、首に巻かれたスカーフに伸びる。

「私だけだと偶然の可能性もあるので、貴女にテスターになって欲しかったのです。」

 彼女の首には、惨いほどの縄の跡があった。

「死をこの上なく恐れる貴女にとって、人魚の心臓は至上の薬のはずです。怪我は即座に治癒され、病気にもならなくなる。老いることもなくなる。そして、永久に死ぬことはない。」

 私の足は、もう言うことを聞かなかった。ふらついて、背中が水槽に当たった。影がすぐ後ろに伸びて来ていて、恐る恐る振り返る。


 そこには、麗しく美しい青年の顔があった。肩口ほどまである色の濃い金色の髪が、波打って揺れていた。その瞳は水槽の水の青よりも、綺麗に澄み切った蒼色だった。真っ直ぐ通った鼻梁に、しっかりとした眉毛、そして精悍な顔立ち。唇は薄く、そこから時折泡が立ち上る。目尻は柔らかく垂れていて、優しい人物であることを思わせた。

 私は、彼のその穏やかな両目と視線が合った。

 今まで出会ってきた中で、彼が最も美しい存在だと、心から思った。

 彼の下半身は、鱗で覆われていた。その鱗の色はどこか緑がかっていて、絞られた照明の光を目聡く拾っては不思議な色に反射させていた。

 美しい、ひと、だ。

 両手を水槽に当てて、鼻先が触れるほどに水槽に顔を近づける。人魚もこちらに興味を示したのか、水槽の壁越しに私の手と彼の手を重ねた。そのまま、彼も不思議そうな顔をしてこちらに顔を寄せてきた。

 見れば見るほど、私の全てを捧げたくなるような美貌だった。このまま水槽の中に入ってしまいたい。溺れてしまってもいい。彼に近づきたい。

 水槽の中の彼に話しかけようとしたときに、女性に腕を掴まれる。抵抗して水槽の前に居座ろうとするが、どこから出てきているのか分からない強い力で引き摺られる。

「蓬さん、こちらへ」

 そう言って彼女は水槽から少し離れたところにある円卓の中の一つの椅子を引いてくれた。なんとなくそこに腰かける。円卓の上には一人前のカトラリーしか用意されていない。どれも最低限だ。ナイフとフォークとスプーンよりも、箸で食べたいのだけれど、それは叶わないのだろうか。

 席に座ってまんじりともせずに待っていると、クローシュを乗せたカートを押した中年男性がやって来た。明らかにシェフだろう。なんだか生臭いけれど。

 その彼がもったいぶるようにして、私のテーブルクロスの上に謎の皿を乗せた。クローシュを持ち上げると、そこからは言いようのない生臭さが鼻を突いた。一瞬息が止まる。私の後ろに立っている女性が、私を急かす。

 食べ物なのかすら分からない物体と、私はナイフとフォークで格闘することになった。フォークを差した感覚は、生の鶏肉を刺した時のようだ。ナイフは固いレバーを切るときのような感覚だ。一口大に切り分けて、なんとか口に運ぶ。息を止めて、口に放り込んで、一口だけ噛んでみる。

 後悔した。今にも吐き出したくなるような酷い味と、血なまぐささが口と鼻腔に広がる。飲み込むことも苦痛だったが、こんなところで吐き出してはいけないという意地だけで、飲み込んだ。残りはまだかなりある。これを全部飲み込むのか。小さく切り出せは噛まずに飲み込めるだろうか。考えるのも嫌になり、片っ端から小さくして飲み込む作戦に出た。飲み物が提供されていないのが地獄を加速させた。最後の一切れを飲み込んで息を吐くと、自分の息からも血なまぐさい匂いがした。気分は最悪だった。


 円卓から席を立ち、女性に案内されてエレベーターに戻る。その際に、あの水槽が気になった。私は本当に彼を食べたのだろうか。

 女性は私の様子を止めることもなく、自由にさせてくれた。それに甘んじて、水槽に近づいていく。上の方に煌めくものが見えた。しかし、水が濁っているのかその煌めきが少し見え辛かった。煌めきはゆっくりと下りてきた。濁りも伴って。徐々に濁りが広がっていく。鱗が見えた。緑がかった色だった。じゃあ、つまり、私は、本当に。

 鱗の先にあったのは、胸の真ん中から夥しい量の血を流す、あの彼だった。その顔は苦悶に歪んでいた。身体の一切を動かす様子はない。

 咄嗟に口元を押さえた。視界を水槽から外して、扉が開いて待っていたエレベーターの中に逃げ込む。

 一息ついて、一緒に乗っていた女性を見る。彼女の手には、あの円卓に乗っていたナイフが握られていた。彼女が右足を踏み出す。目を見開くことしか、私はできなかった。

 どすり、と腹部に重たい衝撃を感じた。そして、そこから焼けるような痛みを感じて蹲って倒れ込む。痛い、いたい、痛い。渾身の力で女性の顔を見上げるが、彼女の表情は私の顔を伺っているせいで、妙に読み取れてしまった。

 満足げな笑みであった。

 そこで、私の意識は途切れた。


 目が覚めたとき、私はエレベーターの中で横たわっていた。妙な寒さを感じる。身体を掻き抱きながら立ち上がると、壁にもたれ掛かっていた女性が声を掛けてきた。

「ほら、死なないでしょう?」


 そこからのことは覚えていない。気付いたら家に帰ってきていた。夕飯の支度をしなければ。面倒だ。昨日の残りの煮物と、漬物と白米と味噌汁くらいで十分だ。

 レンジで炊いてあった白米を温めながら、小皿に自家製のぬか漬けを用意する。味噌汁くらいは作ろうかとも思ったが、インスタントの吸い物にした。今日は色々ありすぎた。夕飯くらいは手抜きでいいだろう。煮物も皿に持って温めるだけだ。普段のようなご飯を食べれば、あれは全て悪い夢だったと忘れられるはずだ。

 青いビードロの箸置きを用意して、そこに黒い木製の箸を並べる。手を合わせて挨拶をして、吸い物を口にする。

 味が、しない。

 お湯を入れすぎてしまったのかもしれない。そう思うことにした。

 漬物を口に運ぶ。

 食感だけが伝わる。

 白米を食べる。

 粘りのある何かを食べている。

 煮物を、箸で取り上げる。

 香りも、味も、何もかも、なかった。

 恐ろしくなって箸も放り出して自分の両手を握る。


 両手は、あの蝋人形のように、芯まで冷え切っていた。


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