祝祷
その蝶は、檻である私が、この地に下ろされた少しあとにやってきた。
その頃の私はまだ、作り物の銀の膜も光を冷ややかに反射していた。
質素で実用的にと付けられた、僅かな装飾品はまだ格子の外側をぐるりと囲んでいた。
その蝶は、何を思ったのか、私の中でよく羽を休めるようになった。
蝶は言っていた。
「他の草木や花と違って、風に煽られないからここが良いんだ。」
しかし、他の蝶は檻の外の草花にとまっている。
あまりにも外にとまりたがらない蝶に、私は問うた。
「どうしてここがいいんだい。」
蝶は答えた。
「ここが好きなんだ。」
私の納得のいく答えではなかったが、私はひとこと、
「そうか。」
と答えた。
檻の中で蝶はいつも、眩いほど美しかった。
鉄格子の隙間から零れる陽の光に照らされて、羽ばたくときに煌めく鱗粉は、光の粒子のようであった。
私がとうに失った、銀のメッキが陽の光に鈍く照らされた時よりも、それはもっとずっと眩かった。
どうにかして、この蝶の絢爛さを周りのものにも知ってもらいたいものだと思った。
その蝶の美しい羽は、檻のなかでは不自由なように見えて仕方がなかった。
もし、蝶が檻の中で自由自在に飛ぼうとしたら、この檻はあの光を集めたような羽を傷つけてしまう。
そんなことがあっては、この蝶はもう二度と自由に飛ぶことはできなくなってしまう。
この蝶の自由を奪うことが、私は何よりも恐ろしかった。
蝶は檻が何かを傷つけやしないかと何か心配されるたび、こう答えた。
「あなたが好きだからここにいるんだ。あなたになら傷つけられても構わないさ。」
私は釈然としなかった。
「そう、か。」
その一言だけ、絞りだすように答えた。
時折、蝶は檻に請うことがあった。
それはいつも、私には到底理解できそうにない願いだった。
「僕を閉じ込めてくれないかい。その重い扉を閉め切って、あなたに閉じ込められたいんだ。」
私はいつも、断りの言葉を連ねた。
「残念だけれど、扉は錆びついてしまって動かないんだ。それに、鍵もないのに、閉じ込めることはできないよ。」
それは決して嘘ではなかったけれど、真っ白な真実でもなかった。
うわべの銀が剥がれ落ちて、扉は最初の頃よりもずっと動かしにくくなっていた。
この地に下された時から、鍵は持ち合わせていなかった。
それに、蝶の力でその扉を動かすことは決してできないと分かっていた。
ただ、それだけのことだった。
幾度かそんなやり取りを重ねたうちに、私の扉の蝶番がいよいよ錆に冒されて落ちてしまった。
扉は物言わぬ部品に成り果てた。
これで蝶の願いを取り下げることはしなくて済むのだと、私はぼんやりと思った。
しかし蝶は扉が壊れただけでは諦めなかったようだった。
どうにか私が檻としての形を取り戻すことはできないかと、その美しい羽が羽ばたきすぎて傷むのではないかと思うほど、絶え間なく腐食した蝶番と外れた扉の間を忙しなく飛び交っていた。
いくら蝶が奮闘したとて、あの小さな体ではどうにもできまい。
わたしはほんの少し微睡みながら、その様子を何を言うでもなくただ眺めていた。
檻の扉の崩壊を見に来たのは、物好きな蝶だけではなかった。
蝶が檻を気に入る以前、何度か言葉を交わしたことのあるものたちが顔を覗かせた。
弾む歌声を持つ小鳥たち、甘い香りを漂わせる淡い色の花を咲かせる木の枝先、蜜集めに勤しむ蜜蜂、考えの読めない青みがかった水鳥、そして変わり者のあの蝶によく似た、優美な蝶。
懐かしい顔ぶれだった。
特に、優美な蝶は昔、羽を少し傷めてしまってふらふらとしていたときに、気がかりに思った私が中で匿ってやったのだった。
ああ、だから、私はあの風変わりな蝶を受け入れてしまいそうになったのかもしれない。
壊れてしまった扉と、うとうととしている私を、彼らは一瞥しては気がかりそうに蝶を見つめていた。
私は訪れたものたちの行動の逐一は見ていなかったので、詳しくは知る由もないが、どうやら優美な蝶と、私の風変わりで美しい蝶はよく話すようになったらしい。
喜ばしいことだと、どこか遠いことのように思った。
その日も、優美な蝶はやってきたようだった。
暖かな微睡みから抜け出せきれないまま、私は優美な蝶と、私の蝶とのやり取りを聞いていた。
優美な蝶は、私の朽ちていく様をよく観察していたようだった。
落ちた扉の端にとまって、やるせなさそうな声で話し出した。
「この檻はね、本当はもっと丁寧に扱われなければいけないのよ。そうでなければ、本来の美しさも、その機能も発揮できないのに、檻そのものがここがいいと言ったのよ。」
ああ、その通りだと私は思った。
きっと前までいたところなら、扉が朽ちて落ちるなんて失態は演じなかっただろう。
とうに剥げ落ちた銀の塗り物も、ずっと冷ややかな光を反射させ続けていたはずだ。
それでも、私はここにいたいと願った。
たとえこの身が朽ち果てようとも、私はここにいたかった。
かの蝶はそこで言葉を切って、ひらひらと扉だったもののまわりを飛んだ。
そしてまた、元いた場所から少しずれたところにゆっくりととまって、沈んだ声のままで続けた。
「私たち、あの頃ずっと言っていたわ。あなたは戻った方がいいわ、あなたの美しさが見る影もなくなってしまったわ、もうどんどん傷んでいってしまうわって。でも檻は、錆びても大丈夫、檻の形を保っていれば役目は果たせているじゃないか、それに檻でなくなってしまったとしても、金属は有用だから大丈夫といって聞かなかったの。」
ああ、よく覚えているよ。
扉が壊れて以降、訪れたものはみな、あのときそう言っていた。
忘れられるわけがない。
なかでもそうだ、あなたが、この優美な蝶が、切に訴えていたのを覚えている。
でも、私は意志を曲げなかった。
その意志は誇りとして、今も朽ちてゆかんとするこの私の形をかろうじて保っている。
ああ、この選択には、一片の、悔いもない。
このところ、私はずっと眠たかった。
優美な蝶がやってきて、私の蝶と話すのが日常のようになってきたころ、もう私は柔らかで暖かな微睡みから抜け出すことの方が困難になりつつあった。
それでも、蝶たちの話がとぎれとぎれに風に紛れて聞こえてくるのを、うつらうつらとしながら聞いたりしていた。
とうとう、ある日、優美な蝶がはっきりと私の蝶に話しているのが聞こえてきた。
「もうずっと、この檻を見た鳥や花や草や木が言ってるのよ。この檻はもう限界だって。もうじき錆びた鉄格子が耐え切れなくなって、見るも無残に潰れてしまうって。」
ああ、やはりかと、私は鮮明に思った。
どれだけ私が、自分の形を保ち続けていると思い込んでも、それはどこまでも私の思い込みに過ぎないのだと。
私は、あとどれだけもつだろうか。
そうやって心地の良い泥濘のような眠気のなかで、自分の在り方についてぼんやりと思考を巡らせた。
うまくまとまらない考えが蕩けるように睡魔に吸い寄せられていくのを感じながら、優美な蝶の声が聞こえたような気がした。
「私は、この檻が好きなのに。自分の芯を曲げないところが、一等好きなのに。どうして、私は、この檻のことを直せないの。」
それはどこか悲痛な叫びのようだったけれど、私の眠りを覚ますにはあまりにも鈍かった。
私が微睡みから抜け出せなくなってきたころ、私の蝶はあまり私の中にまで入ってこようとしなくなっていた。
何か物憂げな声で、優美な蝶と話しているのが聞こえることもあった。
思いつめたような様子でとっくに落ちた扉に止まっていることもあった。
そして、優美な蝶と私の周りをひらひらと軽やかに飛び回っては、近くの草木で羽を休めているようだった。
きっと、優美な蝶の話を聞いて、私の中にまで入ってくることは危険だと判断したのだろう。
きっと、身の丈に合わない環境で意固地になって居続ける愚かな私の近くにいては、自分もまきこまれて潰れてしまうと思ったのだろう。
とても正しい判断だと、そう思った。
やっと気づいたのかと、そう思った。
私から扉が落ちた後、質素な装飾品も少しずつ崩れ落ち始めていた。
もう、自分がそう永くは持たないことは分かっていた。
まもなくして、蝶は私に話があると言ってきた。
私は、あまり長いこと話を聞けるほど、起きていることができなくなっていたので、手短にしてほしいとだけ伝えた。
蝶は言った。
「どうしても、ぼくはあなたを直したい。優美な蝶が、いい部品がある場所を見つけたから、彼女と部品を探しに行く。すぐに戻ってくるよ。必ずだ。あなたの扉も、装飾も、なにもかも、元に戻したい。これがぼくの押しつけでも構わない。どうか、壊れないで、諦めないで、ぼくが戻ってくるのを待っていておくれ。絶対に、すぐに、帰ってくるから。愛しているよ。誰よりも。なによりも。」
私は、一言だけ答えた。
「そうか。」
もう、ぼんやりとしていて、蝶の言葉の後半は、きちんと聞き取れやしなかった。
ただ、あの優美な蝶と、私から離れてどこかへ行くことは分かった。
優しい嘘を吐いてくれたことも、なんとなく聞き取れた。
あなたと、あの優美な蝶、どこから見たって、とても美しい番だ。
ああ、お似合いだと、心から思った。
ああ、私の、私を愛してくれた蝶が、行ってしまう。
私から、離れて、あの優美な蝶と共に去ってしまう。
うまく回らない頭の片隅で、ほんの少しだけ、ささくれだつような痛みを感じたけれど、どうしようもないほどの眠気に、それは押し流されてしまった。
私の蝶と、あの優美な蝶が共に飛び立った日の夜は、嵐だった。
普段であれば、私の蝶のことを思って、吹き付ける強い風にも、叩きつけるような雨にも、必死に堪えていたけれど、あの蝶はもういない。
あの優美な蝶と共に生きることを選んで、ここを去ってしまった。
ここに、私が守らなければいけないものは、もういない。
ここで、私が守り続けなければいけないものは、もうない。
吹き荒れる風が、いつもと様子の違う私を見て、珍しく声を掛けてきた。
「おう、今日はあのひらひらしたのはいねえのかい。」
私は、無言でそれに返した。
面白くなかったのか、風は雨を呼んで、私に質問させた。
雨は、おずおずと聞いてきた。
「あの、このままだと、あなた壊れちゃいますよ。いいんですか。」
いつも草木や花をお構いなしに吹き飛ばして散らしている風と雨の、普段とは違う様子に、私はなんだかどうしてもおかしくなって、今までになかったくらいにけらけらと笑い声をあげてしまった。
「いいの。いいの。私はもう、おしまいなんだから。」
本当に様子のおかしくなってしまった私を見て、風と雨は困惑していた。
だから、私はこう続けた。
「私は、もう十分生きたから。お願いだから、終わらせてよ。」
もう、自分の矜持だけでは、私は自分の身体を支えるのは限界だった。
一番の支えだった、私の、あの誰よりも、何よりも愛おしくて美しい蝶も、もういない。
だから、もういいと、そう思ったのだった。
風と雨は、顔を見合わせて、苦々しい顔で頷くと、言った。
「おめえの好きにすりゃいいぜ。」
「わたくしたちは今まで通りに今夜も暴れますから。」
私には、それで満足だった。
「そうか。」
その夜、長いこと錆びついていた檻が、とうとう自重を支えきれずに、下から崩れ落ちた。
やっと、休めるのだ。
私にもう、未練はない。
ああ、私の蝶は美しかった。
きっとこれからも、あの美しさは連綿と受け継がれるのだろう。
どうか、あの蝶たちに最上の幸があらんことを。
檻が崩壊して、錆びついて赤茶けた鉄格子に少しずつ蔦が這い始めたころ、一羽の蝶がひらひらとその近くにやってきた。
その羽の模様は、かの檻を愛したあの蝶とよく似ていた。
羽ばたくたびに、その羽に纏う鱗粉は、木々の木漏れ日を受けて、きらきらと光の粒子のように煌めいた。
蝶は、何度も、何度も、赤茶けた鉄格子にとまっては飛び上がり、とまっては飛び上がることを繰り返していた。
爽やかな風が吹き抜ける、それはそれはのどかな昼下がりのことだった。




