これがお前の理想郷だよ、人間(一)
まるで足のついた鏡餅だ。
醜い肉塊。
バランスの悪い上体をなんとか支えようとして、足元はずっとバタバタしている。短い腕はなにかを求めるように宙をかいている。肉に埋もれて胴と一体化した頭部からは、あーとかうーとかいう声しか出てこない。
コミュニケーションを取るのは不可能と考えていいだろう。
映画やゲームで見たゾンビのようにも見えるが……。しかしそいつは腐敗していない。ただの膨張した肉だ。
ある種、生命への冒涜と思えなくもない。しかし、本当にそうだろうか。それは俺の価値観でしかない。あるいはこいつが、みずから望んでこの身体を獲得した可能性だってあるのだから。
俺は両手で銃のグリップを握り、照準を覗き込んだ。溝を切っただけの原始的な照準だ。それを肉塊の頭部というか、もはや三角形となったシルエットの上部に合わせる。
「あーっ! あーっ!」
そいつは血走った眼球でこちらを凝視している。
口元がよだれまみれだ。
トリガーを引くと、火薬が爆ぜてパァンとやかましい音を立てて、弾丸がスピンしながら飛んでゆく。いや、視認することはできないが。おそらくはそのはずだ。結果、弾丸は肉塊の頭部を割れた柘榴のように変え、コンビニの商品棚のどこかにめり込んだ。
怪物は血液をまき散らしながら膝から崩れ落ち、床を赤く染めた。
もはや声もない。
「ふぅー」
趣味でやっているわけじゃない。
あくまで正当防衛だ。
そう思うことにしている。
*
なぜ世界がこうなったのか、俺には分からない。
予想は立てられるが。おそらく意味がない。どうせまともな理由ではないからだ。
俺はコンビニで商品を手に入れ、家に帰った。
家、というか、雑居ビルの間にある小さなラブホテルだ。そこしか開いていなかった。いや、もとは開いていなかったが、フロントでキーが手に入った。
この街に、俺以外の人間はいない。
人間の代わりに、例の肉塊だけが徘徊している。
おそらく滅んだのだ。
そうとしか思えない。
カップ麺をあけて湯を注ぐ。
世界は滅んだはずなのに、なぜか電気だけは来ている。意味は分からない。意味など考えるだけムダに違いない。
だから俺は、街に出てメシを手に入れ、肉塊を射殺し、また家に戻るだけの生活をしている。
愛読書はエロ本だ。
ただ、店の品ぞろえが変わらないから、ほとんど飽きている。
*
世界がこうなる前、俺は東京で働いていた。
残業代も出ないのに、暗くなるまで帰れなくて。
薄汚れた空に浮かぶ月を見ては溜め息をつく毎日だった。
シャワーを浴びるためだけに家に帰って、イライラして眠れないのに、朝だけは俺の都合とは無関係に来てしまう。いつしか太陽は忌まわしいものでしかなくなっていた。
その日も、俺は月を見ていた。
月を見るのは、もう最期にしようと思っていた。
すると誰かが声をかけてきた。
お節介なヤツもいたもんだ、と、思った。
が、そいつの姿は見えなかった。
「お前の願いを叶えてやろう」
声だけがした。
願い?
自分でもハッキリとは認識していないそれを、そいつは知っているとでも言うのだろうか?
金か、女か、力か、そのいずれかを提供してくれるのか?
あるいはそれらすべてを?
だが、俺に力があったとして……。世界を幸福にはしないだろうという予感があった。そういう精神状態ではなかった。
だとしたら、死、か?
それが俺の願いだと?
生きていればいいことはある……と主張する人もいるだろう。だが、事実とは思えなかった。少なくとも自分がその対象に含まれているとは思えなかった。つまりは他人事だ。自分はこのまま消耗しながら老いていくという不安しかなかった。
ネットで弱い人間を探して攻撃を始めるのは時間の問題だった。現実が好転しない以上、幻想でもいいから好転した気分を味わいたかった。俺は底辺じゃない。底辺というのは、もっと生産性のないヤツを言うのだ。そう主張したかった。俺もいずれ彼らのようになるのだとしても。状況を俯瞰する余裕などなかった。
「お前の願いを叶えてやろう」
また声がした。
「願い、とは?」
俺は聞き返した。
相手が人間でないことは、なんとなく理解できた。
景色が歪んで見えていた。
*
声は、俺の問いに答えなかった。
気が付くと、俺は謎の銃を握ったまま公園のベンチに座っていた。
太陽がのぼり始めていた。
朝は嫌いだ。心臓がドキドキする。めまいがする。吐き気がする。
いつもなら、朝のルーティンを始めて、会社へ向かっていたところだ。なにかひとつでも例外が発生すると台無しになるルーティンだ。例外というのは、靴下が見つからないとか、ネクタイが見つからないとか、スマホにどうでもいい通知が来たとか、そういうのだ。それだけで、俺のルーティンはガタガタになる。自分が、かくももろい計画で生きていることを思い知らされる。例外の発生に恐怖して、いつもピリピリしている。
銃にも驚いた。
俺はガンマニアじゃないから、扱いもよく分からない。分かるのは、トリガーを引いたら弾が出るということだけ。安全装置というものがついているのはなにかの漫画で見た。銃口を覗き込んじゃいけないことも知っている。あとは、トリガーを指にかけたまま銃を扱ったり、他人に銃口を向けたりすると、ネットで炎上することも。
構え方だってウィーバー・スタンスとアイソセレス・スタンスしか知らない。仮にそれを知っていたとして、訓練したわけでもないから、使いこなせるとは思えない。
断片的な知識しかない。
そのとき俺は、警察に見つからないよう、銃をスーツの内ポケットに突っ込んだ。
安全装置のようなものはついていないようだった。型番も分からない。ただ、ずいぶんとピカピカしていた。オモチャみたいに。重量感だけがあった。
公園から出ようとしたところで、肉塊に遭遇した。
最初、俺はそいつをなにかのコスプレかと思った。だが、周囲がただの住宅街なのに、しかもイベントなどやっている様子もないのに、妙だなとは思った。
そいつはうーうー言っていた。
目が合ってしまった。
コスプレなどではなく、怪物だということを理解した。
俺は逃げ出していた。銃で撃つという選択肢は頭になかった。どこか安全な場所に逃げ込んでから、警察に連絡しようと考えた。
だが、走っていると、ほかにも徘徊している肉塊と遭遇した。
幸い、そいつの移動はのろかった。
俺はとにかく逃げた。警察に連絡しようとした。だが、できなかった。そう。何度繰り返しても、つながらなかった。試しに救急にもかけたが同じ。それどころか、どこにもつながらなかった。大嫌いな会社にさえ連絡したのに。
酸欠になりながら、途中で雑居ビルに逃げ込んだ。
といってもエレベーター前で呼吸を繰り返すことしかできなかったが。
ドクドクという自分の心臓の音を聞いているうち、俺は信じられないものを目にした。肉塊だ。誰もいないと思っていたから、脇からのそのそ現れたそいつの存在に気付くのが遅れた。退路を断たれていた。
うーうー言いながら近づいてきた。
俺はそのとき……もはや他に選択肢がないと判断した。
震える手で銃をつかんで、取り落としそうになりながら突き出した。銃口はそいつの胴体に触れていたと思う。トリガーを引くと、ゴポォと鈍い音がした。肉塊はうーとうなりながら後退して、足をもつれさせて転倒した。そのとき頭を打ったのか、肉塊は動かなくなった。
だが、俺はトリガーを引いて弾丸を撃ち込んだ。
二発、三発、四発、五発……。
肉塊は次第にえぐれていった。小さな弾丸が着弾したとは思えないほど腹が裂けた。閉所に音が反響して頭がどうにかなりそうだった。
だが、撃っているうち、残弾が気になり始めた。
全部で何発あるのか分からない。
確認しようにも、マガジンの外し方が分からない。
俺は呼吸を繰り返しながら、肉塊が動かないことを祈り続けた。もう一発撃っておこうか、かなり迷った。
大きな音を立ててしまったので、移動しなければという気持ちになった。
だが、体が動かなかった。
まず、荒い呼吸をコントロールできていない。目がチカチカする。頭も朦朧としている。シャツが汗びっしょりで気持ち悪い。目の前の死体をまたぎたくない。
エレベーターで上へ行こうかという考えも頭をよぎったが、そうはしなかった。そこは袋小路だ。
外に出るべきだ。
その行動は早ければ早いほどいい。
あいつらが集まる前に。
なのに、俺はいつまでもそこにいた。
人は追いつめられると、なんにもできなくなってしまうということを思い知らされた。いや、「人は」などというと主語が大きいと怒られるか。では「俺は」と言い換えてもいい。少なくとも俺は、その状況を華麗にやり過ごせるような人間ではなかった。
*
どれくらいビルに隠れていたのかは覚えていない。
外に出たとき、特に肉塊は集まっていなかった。まばらに歩行しているだけ。
車道は無人の車で埋め尽くされていた。
いや、中に肉塊が閉じ込められているケースもあったが。そいつはドアの開け方も分からないまま、座席でうーうー言っていた。
俺は上着を捨て、銃を隠しもせず、街を移動し始めた。
なるべく肉塊に近づかないように。
歩道は使わず、自動車の上を移動することにした。
歩道を使うと戦闘を避けられないし、かといって土地勘のない場所で路地裏に入るのも危険という判断だった。
車上を移動していると、肉塊の注意をもろに引いてしまうことになるが、追いつかれることはなかった。ヤツらは足が遅いだけでなく、肥大した胴体のせいで自動車にのぼることができなかった。手を伸ばしても届かない。もし気絶するなら自動車の上にするべきだろう。
その代わり、凄まじい体重で横からゆすられるから、車をひっくり返される可能性はある。
*
かくして俺は、まだ死ぬことなく命をつないでいた。
生活はハードではない。
銃の弾丸は、なぜか無限にあることが分かった。肉塊も動きがのろいからよほどナメていない限り殺されることがない。
食料はどこにでもある。
緊張が薄れてくると、急激に虚しくなってきた。
この世界には、俺しかいない。
誰も話題を提供してくれない。
ここは俺だけの世界。漫画もゲームも独り占めできている。楽園になるかもしれないと考えたこともあった。しかし、事実は違った。
他人が必要なのだ。仲良くしてくれなくてもいい。ただ、俺の知らない話を聞かせてくれる他人が、どこかに一人はいて欲しかった。
いまのところ俺は、生きること以外、なにもしていない。
そして生きるだけ生きて、いずれ死ぬのだと思う。
それは……いったいなんなのだろうか……?
(続く)




