寝坊する
私たちは三四人のグループで連れ立って帰ろうとしていた。薄暗い会場をあとにして、絨毯の敷かれた螺旋階段を登っていった。私の横を歩んでいたのは若い女性だった。会場にいた時のグループにはいなかった女性だったので、どこかで入れ替わったのだろうと思った。美人ではなかったけれど、私好みのショートカットにした可愛らしい感じだった。私はほとんどキスをするように顔を近づけて話しかけた。
「忘れ物をしたから取りに行ってくる」
「わかった。そのへんで待ってるね」
階段を下りて戻っていくと、入口近くの丸テーブルの上に私のものらしきキャップと折りたたみ傘が置いてあったので、手に取って確かめてみた。両方とも確かに私のもののように見えたので持ち去ろうとすると、ふたりの男が近寄ってきて、それぞれにそれが自分の落し物だと主張するのだった。そしてよく見てみると、傘は確かに私のものだった。男の一人もそれを認めて立ち去ってくれた。ところがキャップの方は、よく見るとエンブレムの形が違っていた。
「これはおれのだ」
そうすると私のはどこだろう。探してみたが見当たらなかったので諦めかけていると、奥の方から何人かの少年たちが走って出てきた。それを追いかけるように別のやや年嵩と見える少年が数名ゆっくりと近づいてきた。
「おい、早く階段を登って逃げよう」
「だめだ。上で待ち伏せされている」
先に現れた少年たちの一人が、助けを請うような目で私を見上げた。
「このまままっすぐ走っていくと出られるよ」
私は階段の下から通り抜けとなっているコンクリートのトンネルのような枠組みを指し示した。
「行き止まりのはずです」
「いや、こないだ工事があって、行けるようになったよ」
説明しても信用しないので、私は模範を示すように、その通路を走っていった。少年たちは、しばらく躊躇していたけれど、やがて決意したように走り出し、私を追い越して逃げていった。通路は確かに外に通じていた。私は走るのをやめて、彼女がどこで待っているだろうかと考えた。階段を上がってすぐのところで待っているのだとしたら、すっぽかすことになってしまう。電話をかけるべきかとも思ったけれど、私の携帯は壊れていて使えなかった。どこかで道を外れて引き返さなければいけないかなと考えていたら、横の方から女性の声が聞こえた。声の大きさからして、だいぶ遠くからのようだったが、左を向き直って見ると、そこから数十メートルのコンクリートの階段が下に続いていて、その真下が普通の道路で、そこの歩道から彼女が私に呼びかけているのだった。
「違う道を来るなら、教えてくれなきゃ」
彼女はそう叫んでいた。
私は階段を駆け降りて、彼女と肩を並べて駅の方に歩き出した。気が付くと数歩遅れてついてくる地味な装いの女性がいた。
「友だちなの」
それなら一緒に歩けばいいのにとも思ったけれど、人見知りなのか、うわめ遣いに私たちの方を見るばかりだった。駅のすぐ近くまで来て、ふと思いついたように私は言った。
「飯でも食っていこうか」
しかし彼女はあまり乗り気ではなさそうだった。
「何を食べたい」
重ねて聞くと、はぐらかすような答えが返ってきた。
「この近くには美味しい海鮮のお店があるわ。少しお高いけれど、そこに行ってみたらどうかしら」
まるでひとごとのようだった。つまりは私一人で行けと暗に示しているようだった。お金がないのだなと思った。私もそれほど持ち合わせがなかったので、その話はそれきりにして、電車に乗って帰った。
翌朝、目が覚めると、雨音と猫の声がしたので、そのせいで起きたのだなと思った。そういえば台風が近づいているのだった。布団から上がると、子猫が数匹、木枠の窓の下の土壁の脇に転がっているのが見えた。二十畳程の大広間だった。子猫のいる窓の方に行って、シーツのような生地のカーテンを開いたら、空は曇っていて、それほど強くない雨がしとしと降り続いていた。窓の外ははば一メートルほどのコンクリートのベランダになっていて、そこにも子猫たちがいた。
「大量にいるぞ」
私が言うと、近くにいた弟が返事をした。
「雨宿りに来たんだろう」
母親らしき茶トラの猫がいた。彼女がこの数十もの子猫たちをここに運んできたのだろう。
ふと心配になって振り向くと、もともとうちにいる猫たちは、ちゃんと室内にいた。キジトラのぴん、長毛種のちょび、そしてパンダ柄のタマ。そして、あっと思った。
「ダメじゃないか。窓を開けっぱなしにして」
「ごめんごめん」
弟は笑って答えた。
私は窓を閉めて回った。ベランダにいる猫たちは締め出す格好になったけれど、入れろと鳴くなら入れてやればいいと思った。
「ここは開けておいてもいいかな」
弟が問いかけるので、見に行くと、そこだけドア式にあくようになっていて、開いても嵌め殺しの網戸があったので、猫たちが出る心配はなさそうだった。
「ここだけはいいよ」
更にあっと思った。曇ってはいるけれど、それでも陽は既に登っているようだった。壁にかかった丸い時計を見ると、八時を回っていた。
「完全に遅刻だ」
私は押し入れの扉を開けた。そこには私の出勤用の衣類が一式置かれていた。私はそこに置いた覚えはなかったので、母がやってくれたのだろうと思った。私は着替えをし、ネクタイを片手に持って階段を下りていった。すると同僚の一人が木の階段を反対に登ってくるのと出くわした。
「やばいやばい。寝過ごしたよ」
「じゃあなんでうちに来てるんだよ。寄らないで仕事に行けよ」
「諦めた」
そうか。確かにそうだと思った。私も既に出勤する気をなくしていた。そのまま二階の広間に戻って、布団を片付け、テーブルを取り出した。そこで同僚と雑談をしていると、いつのまにか多くの人びとが広間に集まってきて、それぞれにテーブルを取り出してグループを作っていった。私たちのいたテーブルにも、英会話の先生がやってきて、レッスンが始まった。
「ああ、これがいいな。いつもここでレッスンしてくれたらいいのに」
「今日だけ特別よ」
いつものネイティヴの先生がほとんど訛りのない日本語でたしなめた。まあとにかく、きょうのところはこれでいいのだ。そのときピンポンと呼び鈴がなった。私のすぐ近くの柱に返信用のインターフォンがあったので、立ち上がって返事をした。
「なんですか」
「きょうはおやすみですか」
なんとなくだけれど、昨日キャップを取り合った男のような気がした。
「え、なんのことですか」
「きょうは塾はないのかと、息子が聞いてるんですよ」
ああ、そうかと思った。どこかで見たことがあると思ったら、彼はうちに通っている生徒の父親だったのだ。
「やってますよ。どうぞ入ってください」
木枠のガラス戸の外を見ると、雨は止んでいて、晴れ間も覗いていた。
「そろそろ出かけるわ」
私が言うと、近くの席にいた禿げた中年のおじさんが尋ねた。
「どこへ行くんだ」
「ウチでもやってるけど、別の塾に勤めてるんだ」
そう言って私は出かけた。
しかし歩いている途中で、メガネが顔から地面に落ちてしまった。拾い上げてみると片方のツルを止めていたネジが取れていた。そのまま拾って修理できるかどうか考えた。昔はメガネ用の小さなドライバを持っていたけれど、最近は持っていなかった。ふと見ると横に自動車の修理工場があったけれど、ここにもないだろうなと思った。メガネ屋に持っていかなくてはなるまい。小さな部品を無くさないように大事に持って行こうとした。ネジは新しい物と交換するからいらないかもしれないと考えた。
前作では登場人物の性別を隠すような表現をしていたけれど、今回はその制限を取り払ってみた。それでも語り手の「私」の性別だけは明らかにしない。ただし、今回のように相手役が女性ならば、男性だと読み取られるのが普通だろう。本当はそうとは限らないのだけれど。