Zuhaus まだ見ぬ故郷
Zuhaus=故郷
ぱし、と音がしそうな勢いで彼女は目を見開いた。
冷凍睡眠からの目覚めに寝起きが悪いということはあり得ない。装置は予定の時間に合わせて彼女の身体を解凍し、心身を覚醒に備えさせてくれる。
全身を覆う透明なケース、その蓋が上がると同時に彼女は腹筋を使って跳ね起きる。久しぶりに自らの意思で肺いっぱいに空気を吸い込むと、辺りを見回す。両隣も、さらにその隣も。彼女と同年輩の若者たちが次々と目覚めて挨拶を交わしていた。
そんな彼らの間を縫って医療スタッフが歩む。いかに万全を期しても、人間の身体は冬眠をするようにはできていない。念には念を入れて、慎重なフォロー体制が採られている。
「おはよう、気分はどうだ?」
気遣うような微笑みに、子供たちの表情は一様に明るく無邪気だった。
「最高!」
「お腹空いた」
「まだ到着しないの?」
彼女も仲間に混じって笑い、はやし立てる。若者たちのありあまる元気を見てとったスタッフは今度は翳りのない笑みを浮かべると、注目を集めるために手を叩いた。
「大変結構。
さて、ビッグニュースだから傾聴しなさい。目的地は、視認できるところまで近づいている! 静かに!」
一層沸き立った子供たちを一喝すると、スタッフは大きく腕を広げて演説でもするかのように語りかけた。
「幸運な子供たち。生きて新しい故郷の地を踏む最初の世代。誇りと自覚を持ちなさい。いつまでも馬鹿みたいに騒いでるんじゃない。
いいか、目的地を本当に私たちの故郷にできるかどうかは君たちにもかかっている!」
これにざわめきはすこし収まり、代わりにどこからともなく拍手が起きた。子供じみた無秩序な興奮ではなく、彼女たちの目も表情も、使命感に高揚して真剣味を帯びた。
スタッフは満足げに頷くと続ける。
「分かったようだな。よろしい。それでは働いてもらおう。何せやることはいくらでもある。子供の手も必要なくらいだ、一刻も早く一人前になってくれ!
仕事を割り当てるミーティングは故郷の時間で二時間後だ。時計を必ず合わせるように。それまでは自由時間だ。シャワーを浴びるなり食事なり好きに過ごしなさい。もちろん農場に行くのも良いだろう。
――それでは二時間後に」
スタッフが立ち去ると、彼女たちは一斉に腕につけた端末を操作した。時間を故郷のものに合わせたのだ。
彼女たちの遥かな祖先は遥かな昔に地球という惑星を旅立った。この船の中を支配する時間も重力も度量衡も、当初は地球で使われていたもの、地球を基準にしたものが採用されていた。だがしょせん、彼女たちにしてみれば遠い遠い異国の地だ。
彼女たちにとって故郷といえば、まだ見ぬ目的地のこと。まだ誰も足を踏み入れたことのない未開の惑星のことだ。彼女たちの父母や祖父母やその前の世代にとっては幻のような存在が、今はもう手に届く場所にある。今こそ船内の者たちは古い地球の暦を捨てて、新しい故郷の時間で生き始めるのだ。
「ご飯食べようよ。お腹空いちゃった」
彼女に話しかけてくるのは同い年の――目覚めている時間でも眠っている時間でも――友人だった。彼女の胃も空腹を訴えている。冷凍睡眠中は身体機能が文字通りに凍結されてるとはいえ、長い眠りには胃を空にして臨むのだ。覚醒した今、身体は栄養を求めている。
しかし彼女は首を振った。
「私はまず農場に行く」
すると友人も神妙な顔つきになった。
「……そうだね。私も行く」
「農場」は船の中でもかなりの面積を占める。栄養補給だけならこれだけの施設は必要ないが、土と緑というのは人間の精神の安定に大きく寄与するのだ。それに、この場は船の人間にとって墓場でもある。効率的な資源の再利用として。あるいは仲間を暗い宇宙に流すのが忍びなくて。永遠の眠りについた人々は果樹や野菜の苗床として残された者を見守り続けるのだ。
「やっぱり、たくさんいなくなっちゃったね」
農場の奧に設置された端末には、ここに眠る人々の名が記録されている。指先でパネルを操りながら、彼女たちは一つ一つ名前を確認していく。端末は複数設置されていて、同じ目的でやってきた同級生たちがそれぞれに群がっていた。
真新しく耕された一角を、彼女は悲しく眺める。
つい最近誰かが埋葬された証だ。彼女たちの目覚めがもう少し早ければ、あるいはその人がもう少し頑張ってくれていれば。生きてすれ違うこともあっただろうに。
「おじいちゃん、おばあちゃん……」
そして彼女は見つけてしまう。予想はしていたけれど、見たくはなかった名前。愛しく懐かしい名前を。
彼女はディスプレイ上の文字列をそっと撫でる。
彼女が祖父母と認識しているその人たちは、遺伝的には彼女の両親にあたる人たちだ。冷凍睡眠の設備に限りがあるため、若者たちは優先して眠り、肉体の最盛期を過ぎた人々は起き続けて船を維持する。そのサイクルのため、家族の過ごす時間の流れも同じものではなくなってしまった。彼女の記憶にあるその人たちの最後の姿も、地球の時間なら数十年を隔てた老人と老婆のものだった。
「覚悟は、してたんだけどなー」
前回眠りについた時点で、生きて再会できる望みはごく薄かった。だから、そのつもりで最後の家族の団欒を過ごしたのだけど。でも、無機質な文字に別離を突きつけられるのはやはり辛い。
「私たちがいるよ」
彼女の肩を力強く掴む手があった。友人の真摯な瞳に、彼女は感傷から我に返った。そうだ、友人は前回目覚めた時に今の彼女の気持ちを、近しい肉親との死別を経験している。
「そう、だね……」
友人の指先を握り返せば、その温もりに胸が熱くなった。流れる血の温かさが思い出させてくれる。船の乗員は全て一つの家族、新しい故郷に根付くための同志なのだと。彼女は決して一人ではないと。
「私たちが、頑張らなくちゃ」
口に出せば、決意も新たに深まった。
新しい故郷の開発が順調に行けば、農場の土をそのまま移すことができる。愛しい人たちが眠る土壌と共に生きることができるのだ。
彼女たちが失敗して、挫折して。この船を墓標に朽ちていくなど、ここに眠る人々は絶対に望まない。
「そう。そうだよ。だから、行こう?」
地球とかいう惑星は既に旅立った過去に過ぎない。彼女たちが生きるべきは、この船の中ですらない。まだ未開の故郷、誰も知らない未知の惑星。
「私たちの故郷は、私たちが創る」
――だからもう少し待っていて。
彼女は跪くと土を一すくい手に取り、またこぼした。指の間をくすぐる湿った柔らかい感触をいとおしむ。そして最後の一粒が手から離れると同時に立ち上がる。
「じゃ、ご飯食べようか」
「そうだね」
彼女たちは顔を見合わせて笑うと、歩き出した。
そして農場を出る前に振り返り、まばゆい緑を視界におさめる。人口の光の下、木々は生い茂り枝には果実がたわわに実る。
その合間に、彼女は愛する人たちの懐かしい姿を見た気がした。彼女たちを励ますように、見守るように微笑む姿を。
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