後篇
ダメだ。ダメだ。これが悪夢なら、早く目覚めなきゃ!
ぶ~ん、か?
ぷーん、か?
まとわりつく羽音を追い払う為、左の拳で頭をガンガン殴りつけながら、路地を歩き出す。
と、間も無く、海へ続く丘の向う側から潮の香りとさざ波の音色が流れてきた。
東京で、健康食品を売る零細企業の営業員をしてた頃、憧れた大自然の息吹きだ。
でも、やはり違和感がある。この国の端から端まで、今や何処へ行こうとも異常気象の連打がディフォルト。
なのに、こんな穏やかな気候の田舎が生き残っている、だなんて……
嘘っぽい。
何処か偽物めいている。
カラス除けのネットが張られたゴミ収集所へ袋を置いた時、近所に住まう妻の父親が、やはりゴミ袋を下げて現れた。
「おう、昨日は良い飲みっぷりだったな、婿殿」
引退間近い漁師の割りに日焼けした健康そうな顔立ちで、この近所の地主でもあるから中々の貫禄が漂う。
でも、こいつも偽物。嘘っぽい。
微妙な違和感を漂わす『虫』の一味だと、僕には判る。
ぶ~ん、か?
ぷーん、か?
耐え難い羽音が耳の深奥で高まっていく中、この異郷で一人、僕だけが『真実』を見抜いている。
「お前さんの体調について少し心配だったが、わしの取り越し苦労らしい」
「心配? 僕の何が、です?」
「あ~、ホラ、東京で勤めてた会社が酷い所で、ろくに夜も眠れず神経が変になった、とか」
そうだっけ?
はっきりした記憶が無い。
「妻から、聞いたんですか?」
「ああ、逃げ出して正解だよ。最近、都会は大変らしいね」
僕は曖昧に頷いた。
ごく些細な事で爆発的にキレる人の事件が頻発し、巷を騒がす様になったのは何時からだろう?
嘗てない規模で起きた集団ヒステリーの連鎖……一応、そんな風に分析されている。でも、真の原因は如何なる心理学、精神病理学でも解明できていない。
事態は加速する一方だ。
理由の無い殺人が大量発生し、集団狂気による暴動まで起きている。
異常気象の頻発によるストレス、社会の急速な貧困化、高まる未来への絶望感により、人心が深く病んだ証と、ワイドショーで禿げたコメンテーターが言っていた。
そう言えば、レミングとかいう、哺乳綱齧歯目のネズミに似た動物の話を聞いた記憶がある。
増えすぎて周囲の環境に危険を及ぼし始めると、群れを成して崖から飛び降り、数を減らすそうだ。
今の「ヒト目ヒト科ヒト属」も又、そんな感じなのだろうか?
義父の顔をした『虫』が嘆かわし気に言う。
「最近はさ、普通に暮らしてても、心の奥に深い傷が隠れてて、前触れもなく狂う事件が多いそうだな」
「僕が、そうなるとでも?」
「いやいや、ここみたいに、そこそこ長閑な故郷で暮らしておれば、気持ちも荒れず、穏やかなまま……」
ぶ~ん、か?
ぷーん、か?
うるせぇよ。たかが『虫』の癖に!
やたら馴れ馴れしい言葉が鼻につき、不快感もろとも僕は本音を吐き出した。
「お前の故郷だろ」
「え?」
「僕のじゃない」
「えぇっ!?」
妻と似た驚き方をする義父の間抜け面を見た瞬間、僕の中で何かが壊れた。
自制心? モラル?
そんな綺麗事じゃない。
ぼくは只、胸の中で渦巻く、酷くねばついた塊を吐き出したかっただけなんだ。
うわ~っ!!!
喚いて、吠えて、その勢いのまま義父の首へ収集所のネットを巻き付け、力任せに絞め上げた。
日焼けした『虫』が羽音を響かせ、汚い前歯を剥き出して、もがく。そこに何人もの、『虫』の顔が重なって見えた。
例えば、取引先で僕を土下座させた奴のひん曲がった唇。
例えば、些細な失態を責め、何もかも僕のせいにする東京の上司。
例えば、SNSでそんな僕の陰口を叩き、嘲笑う同僚達。
その他、様々な有象無象が、僕の視界で際限無く揺らめき続ける。
死ね。
皆、死ね。
義父の形をした『虫』が動かなくなると、僕は散らばった黄色いゴミ袋を整え、ネットを掛けなおして家へ戻っていく。
廊下から居間へ入ると、妻の形の『虫』はテレビを見ていた。
「怖いね……この人達、何でこんな事してるんだろ?」
緊急速報で過去最多の暴徒が東京の街を埋め尽し、防衛出動した自衛隊と激突、多数の死傷者が出た様子が流れている。
禿げたメインキャスターが、青白い顔で声を震わせている。
既に戒厳令が出たそうだ。
老若男女、様々な暴徒達は笑っていた。笑いながら殺し、笑いながら死んでいく。
うん、気持ちはわかるよ。
変わってしまったのは僕らじゃない。取り巻く世界の方だけれど。
「きっと、さ……偽の世界から逃げ出す為、見えない壁を引き裂く為に目の前の何かを壊さなきゃ、と感じたんだよ」
「あなた、何を言ってるの?」
ぶ~ん、か?
ぷーん、か?
羽音と共に、とぼけた返事をする『虫』の声を消し去る為、僕はテーブルの果物ナイフを掴んだ。
もうすぐ夏も終わる。
そうさ、僕も帰るんだ。ここじゃない何処か、心安らぐ真の故郷へ。
読んで頂き、ありがとうございます。
真っ黒なお話、時々、自分の中から湧き出て、書かずにいられなくなります。
何と言うか、環境の問題、戦争、そして弱者を鞭打つ社会の在り方、その全ての「お先真っ暗」感が強すぎて……
次もホラーになりそうだけれど、希望を探す物語も描かなきゃ、と焦ってます。




