前篇
「黒」い物語です。心の闇を覗きたい方だけ、ご覧下さい。
ぶ~ん、か?
ぷーん、か?
何とも表現し難い曖昧な虫の羽音が、真夜中の、暗い寝室の何処かから聞こえた。
耳に届くか?
届かないか?
そんな微かな音なのに、なんでこう耳障りなのだろう。
電子蚊取りのスイッチは入っている筈なのに、一晩中、僕を悩ませ続ける。
蚊取りの薬液が切れているのかも……
なら、新しいの買って来なきゃ。
それにしても暑い。
今年の夏は、確か去年ほど気温が上がらない予想だった筈……
テレビのワイドショーで、禿げた天気予報士が自信無さげに解説してたっけ。
どうなってんだ?
何時終わるの、コレ?
異常気象に継ぐ異常気象の嵐。
昨今の「ヒト」の心と御同様、地球って星のイカレにイカレた有り様に、いつの間にか慣れちゃったけど……
電気代は高くなる一方。エアコンをフル稼働してたら、財布がすぐ干上がってしまう。
動画で見た何処かのダム、河底みたいにカラッカラに。
かと言って、エコ・モードへ設定したエアコンじゃ、文字通り焼け石に水。
ろくに眠れないよ、畜生!
折角、都会から逃げて来たのに、これじゃストレス減少どころじゃない。
ぶ~ん、か?
ぷーん、か?
曖昧な虫の羽音が、寝室の何処かから、相も変わらず聞こえ続ける。
そのせいかな?
やっと少し眠れたかと思えば、また嫌な夢を見た。
人が虫になる夢だ。
トンボだか、カゲロウだか、目が大きくて、長い尻尾がプラプラ揺れるグロテスクな羽虫になる夢……
昔、好きだったカフカの小説を久しぶりに読んだせいかな?
もう、思い出したくも無いけれど。
それから先はまんじりともせず、鬱陶しい朝を迎える。
田舎特有の透明な陽光がカーテンの隙間から寝室へ射し込み、閉じた僕の目蓋を照らして、中途半端な微睡みの世界から強引に引き戻す。
疲れとストレスを解消できないまま、仕方なく目を開くと、僕は異界にいた。
ぶ~ん、か?
ぷーん、か?
曖昧な虫の羽音が一層大きくなり、就寝前と同じ部屋なのに、間取りや壁紙の色合いが違って見える。
家具や窓枠の形も、目に映る何もかもが歪んでいる。
こみ上げる強烈な違和感。
眠っている間に本来いるべき場所から見知らぬ世界へ強制移動させられた、そんな風に思えてならない。
寝ぼけた頭で戸惑う内、寝床の隣から汗臭い体臭が漂ってきた。
「あなた、起きたの? 昨日の晩は飲み過ぎちゃったね」
その声は妻のものだ。
でも、違う。
「何よ、黙りこくって。あ、二日酔い?」
「うん、まぁ……」
「お父さん、調子にのって随分とあなたに飲ませたものね」
あぁ、やっぱり違う。
僕を見る大きな瞳の形状と言い、絡みつく白い腕……二本の触手の手触りと言い、まるっきり虫そのもの。
結婚して間もない愛する妻だなんて、いや、ヒトとすら思えない。
まだ僕は悪夢に、カフカの世界の中にいるのか?
変わってしまったのは僕じゃない。取り巻く世界の方だけれど。
「お父さん、嬉しかったのよ。三十年続けた漁師を辞め、自慢の船も売る気だったのに、東京から来た娘婿が継いでくれる事になったんだもん」
醜悪な白い『虫』が妻の声で言い、僕の首筋へ歪な唇を這わせてくる。
「ふふっ、ようこそ、あなた。人生をやり直す第二の故郷へ」
僕は思わず身を引き、不快感もろとも、燻ぶる本音を吐き出した。
「お前の故郷だろ」
「え?」
「僕のじゃない」
「えぇっ!?」
妻に似た『虫』を突き飛ばし、ベッドから起き上がる。
驚きと憤りが滲む彼女の顔へ背を向け、僕は台所の黄色いビニール袋を引っ掴んで、玄関から外へ出た。
読んで頂き、ありがとうございます。
今回は短いお話、次回、完結します。




