第2章 恋愛至上主義社会
この話と、以前に書いた同じ世界線の別の話を書いたときに一番最初に考えたのは何故かポケモンの世界観でした。
あれって子どもは10歳になるとファーストポケモンをもらって旅に出るじゃないですか。だけど現実世界では当然、いくらポケモンと一緒でも10歳の子が親元を離れて旅にとか出られない。絶対犯罪に巻き込まれるし、悪意のある大人もいるし(ポケモンでも悪のロケット団とかはいるけど…。対戦で何とかなるから。負けるとちゃんとあり金の半分くれるし。治安いいな)。
もちろんゲームとかアニメの話なのでそこはご都合と言えばそれまで。でも仮に、そういう習慣が当たり前に存在する世界があるとしたら。成立させる条件て何だろう?
…と考えた末に出てきたのがこの話の世界観です。いまの世の中で成立するとは思いませんが、本当に窮乏してくると多少はこういう傾向はあるのかなと…。だって、あまりにも無法だと滅亡しちゃいそうですからね。この世から人間が。
その背の高い男の子はカスカベ・リツと名乗った。出会ってからそこそこ時間が経ったタイミングなので、だいぶ遅まきな自己紹介だが。二子玉川の広場での移動販売を終え、次の現場へと今は二人してトラックで移動中。
「カスカベは春の日の部、リツは律儀の律。呼び方は普通に律でいいよ。よろしく」
どう見ても未成年の身で、すいすいと慣れた様子でハンドルを操る。まあ、百年前は法律で運転免許取れる年齢が決まってたらしいけど現代はそんなのないし。
そもそも法律とか取り締まる警察とかも存在しない。…少なくとも東京以外の場所では。てか、東京でもないはず。ないよね?
「あ、はい。よろしくです。…えーと、わたしは隠岐円花っていいます。隠岐の島に円の花」
「おきまどか。…『おきまどはせるしらぎくのはな』?」
唐突に呟くように口ずさむ。正直びっくりして、それまで話してた内容が頭から一瞬飛んだ。
「それ。…よく知ってるね。百人一首の」
「お。あんたも知ってるんだ。じゃあもしかして、何となくあの一首を思い浮かべたのは偶然じゃないのかな」
わたしは話が通じたのが少し嬉しくなって、ぶんぶんと首を上下させて頷いた。
「苗字が隠岐だったから。母親があの和歌が好きで、そこから取ったんだって。おきまど、からの最後の白菊の花からとって。それで隠岐円花」
うちの集落にたまたま、一枚一枚ラミネートされた百人一首かるたを持ってる家があって。子どもたちは代々みんなそれで遊ぶのが伝統だったの、と当時の思い出を脳裏に浮かべながら説明を付け足す。
「だから、集落の人たちは大人も子どももみんな百人一首自然と全部暗記してたよ。旅で出会う人たちはそんなのなかったって言ってたから、うちが特殊だったんだなぁって」
「ラミネートした百年前のかるたがある家、そうそうないだろ。俺は学校で習ったから覚えてたけど。てか、地方って学校ないの?まさか」
信じられないような口調で独りごち、そうかぁ。もしかして学校ないから旅にとか出られるんだな、子どもが。と合点した様子。いや、今どき学校とかあるんだ。逆にすごいよ東京。
「え、じゃあ漫画みたいにランドセル背負って小学校行って、制服着て中学高校行くの?大学受験とかもあり?」
それじゃ完全に百年前のラブコメできるじゃん!青春かよ、東京人。てかまじで洒落抜きに前文明の社会がそのまま冷凍保存されてる感じなんじゃ…。
律は前方に注意を向けたまま、慎重に交差点を曲がりつつ(信号はない。まあ電気がないせいなのかもしれないが、そこまで交通量がないしみんなスピードも出してないから大丈夫そう)苦笑してみせた。
「さすがに制服はないよ。俺も漫画は読むからイメージはわかるけど、あんな感じでは全然ない。制服なんて贅沢だろ、学校に通ってる間しか着ないのに。勿体ないよわざわざ作るの」
「そりゃ。そうだよね」
そこは激しく同意。昔の人はどれだけ服持ってたんだろ、学校に行くときだけ着る服があったなんて。しかもその学校だけのデザインだから、本当に三年間とかしか着れないんだよね。…すご。
しかしよかった、その辺の感覚は外から来たわたしたちと同じらしい。え、服なんて店に行けばいくらでもあるだろ?シチュエーションに合わせて取っ替え引っ替えだよ、とか平然と言われたらどうしようかと思った。
「高校とか大学もないよ。地域に小学校と中学があって、地元の子がそこに通って勉強するだけ。昔の校舎が残ってるから、それを活用してるのがほとんどだよ。もちろん受験もない。例外的にすごく飛び抜けて勉強のできるやつは選抜されてさらに上の教育受けるらしいけど」
俺はそこまでじゃないから、普通に中学までかな。とあっけらかんと言う口振りからは現役で今でも中学生なのか、それとももう卒業して学業を終えたという意味なのか判然としない。
「上の教育?何習うんだろ」
「さあ。けど多分、技術畑の分野なんじゃないの。都市機能を維持するための仕事はいくらでもあるけど、どう考えても俺らが中学まで習った内容だけじゃ対応できないもんな」
だから、理数系のセンスが飛び抜けてあると見込まれると否も応もなくそっちに放り込まれちゃう。と説明する律は、全然頭悪そうじゃないけど。
むしろこのくらいの年齢を考慮すると結構切れる方だと思うので、彼が選抜されなかったのは①頭脳の特性が文系全振りだから。か②『勉強できる・できないの足切りライン』がわたしの想像を超えて遥かに高いか、だ。
「そうかぁ…。この状態の街を維持するのにはきちんとした理系の知識のある人材が必要なんだね。田舎じゃそこまでは考えてないから、普通に集落の中で勉強得意な大人が寺子屋みたいな感じで子どもに教えてくれたのが唯一、学校っぽい機会かな。それ以上勉強したい子は自力で本読んで知識得るしかなかった。隣の村の図書館とかまでてくてく通って片っ端から読んだよ」
しみじみと回想するわたしに、それは大変だったね。と如才なく相槌を打ってからふと呟く律。
「そりゃ、学校ないと充分な教育普及させるの難しいよね。でも考えてみれば仕方ないのかもな。人があちこちに散らばって住んでるとそれぞれの集団の中じゃ子どもの数が圧倒的に少ないだろうし。一箇所に年の近い子ども集めてまとめて教えるとなると、人数足りないと非効率だもんな。だけど、だからってあえて親元から手放して旅に出す必要あるの、小さな子を?」
「いやそこまで小さい子ってわけじゃないよ…。さすがに自分のことは自分で出来るようになってから、だけど」
これまで通過してきた村や集落で見た範囲では、大抵十五、六歳くらいからかな。多分この律くらいの年齢、どんぴしゃだ。
もちろん集落によって慣習も微妙に違うので、昔の成人年齢ってことで十八くらいを目安にしてるとこもあった。自分ちの集落にやって来た旅の子と出会うことで刺激を受け、特にそういう慣習がない村から自発的に仲間と一緒に連れ立って出てきたっていう子に会ったこともあるし。法律で一律に決まってるわけじゃないからまじで土地と人によりさまざま。
だけど共通してるのは、生殖可能年齢になってから旅立つっていうその一点。それはそうだ、子どもを旅に出す一番の目的はそれだから。つまり、所帯を持って子どもを産み育てること。
そのためにわざわざ共同体の外に出すわけだから、そんなにちっちゃい子を旅立たせてもしょうがない。だから十二、三とか十四歳…も見たことないな。多分十五歳でぎり、結婚相手を探しに行くためだからね。
ただ、それはわたしに限っては当てはまらない。いや完全にそのためじゃないとも断言しがたいが…。とにかく、一番の目的は婿探しではない。だったらわざわざ東京なんか目的地に選ぶわけない。
そこでふと、わたしと共に地元の集落を出立した他の二人の仲間の顔が次々と脳裏をよぎった。…ちっ、まじあいつら。こんな大事なお役目を放り出して途中棄権するとは。まあ、言ってもしょうがないけど。
わたし一人でも何とかなると気を取り直してここまで来た。…けど。東京がそこまで危ない土地だったとは。正直想定してなかったよ…。
現地の人と話してるとだんだん不安になってきた。
次の目的地に着いて車を停め、店を開く。この日この時間にここで移動販売をすると告知されていたのか既に数人のお客さんがそこでトラックの到着を待っていた。それ以上疑問点を明らかにする暇もなく、商品を並べて対価にお金を受け取る。
「お疲れ。次の場所で最後だよ。うちの近くだから、終わったら家に連れてく」
到着したのは昔の鉄道の駅前のロータリーだった。用賀という駅らしい。
当然電車も走っていないし色褪せて古びてしまっているが、駅舎は言うほどぼろぼろではない。今でもしっかりメンテナンスされてるんだろう。
駅の周りの建物のほとんどは今でも店や住宅として使われている様子。これまで見てきた他の県の駅はどれも崩れてて廃墟って感じで、いかにも用無しで打ち捨てられてるってとこが多かったんだけどなぁと考えながら野菜を売るうちに、答えがわかった。
間を置いて五月雨式に、ぽつりぽつりとバスが到着しては人を立て吐き出して吸い込んでいく。そうか、今でもここはバスの乗り降りポイントとして現役の要所なんだ。
「あんなにバスで出かける人たちがいるんだね。遠くまで行くのかな。…栄えてる場所だねぇ、律くんの住んでるとこ。本当に都会なんだ…」
田舎者丸出しで思わず礼賛すると、わたしの隣で玉ねぎを袋に詰めていた彼はどうかな。と首を傾げた。
「ここなんて東京の一番端っこだもん、都内の中では田舎の方じゃないか?他の場所あんまり見たことないからよく知らないけど」
「え、そうなんだ。せっかくバスあるのに、乗って遠くまで行ったりしないの?」
意外。こんなに近くに発着所があったら、わたしなら気軽にいろいろ見て回っちゃうかも、子どものときから。
「さあ…、特に理由はないけど。別に遠くに用事とかなかったし。学校あったし…」
その口振りからするとつい最近卒業したのかな。学校あった、と過去形で言った。
それにしても気のない返答だ。考えもしなかった、という雰囲気で東京には本当に旅の習慣ないんだな…と考えさせられる。
けど、何でなんだろう?
同じ現代の日本なのに。川ひとつ隔てた向こうとこっちで文化がそこまで違うなんて、おそらくは何かしら理由があるはずだ。
さっき軽トラのおじさんから受け取ったばかりの新鮮な食材は全て、瞬く間に売り切れた。…と思ったら、荷台の隅に寄せた段ボール箱がいくつか。
「これは持ち帰りの自家用に取っておいた分。お疲れさま、販売手伝ってもらって悪かったね。そしたら俺んち行こうか」
東京の外からやって来た旅の女の子なんて生まれて初めてだけど、こんな小さな子を泊めるの断るほどうちの両親も鬼じゃないだろ。と楽観的な口調で付け加え、再びトラックに乗り込みエンジンをかける。
「…あの。もしかして、さ」
今から訊こうとしてる問いに返ってくるはずの回答の内容が怖い。わたしは周りに他の東京の人の耳がない状況になったところで(もしかして失礼に聞こえる話かもしれないから)、恐るおそる律に問いかけてみた。
「東京って。実はすごい治安悪い修羅の土地なの?子どもが一人で歩いてると攫われるとか。最悪殺されるとか…」
結界で護られてるくらいだから、むしろ外よりも平和で暮らしやすい場所なんだろうなって油断してた。
けどもしかして反対だったのか。外側の他の地域の方が犯罪もなく穏やかで、あの結界の内側こそががちのアポカリプス、終末世界なのかも。まあこうして走る車の中から街並みを見てても、さっきから野菜を買いに来てたにこにこと温厚な住人たちも。全然そんな風には見えないけど。
でも。きっと百年前の衰退する以前のぴかぴかの文明的な都市だって、殺人犯や性犯罪者や小児虐待者が普通にどこにいてもおかしくない場所には見えてなかっただろうと思うし…。
遠慮がちに小声で尋ねたつもりだったが、彼は大声でいきなり詰問でもされたみたいにぎょっとなって反射的な動きで一瞬こっちを振り向いた。よほど想定外の質問だったらしい。
「え、殺人⁈まさか、百年以上前の大昔じゃあるまいし。さすがにそれは聞いたことないよ。てか、何のために殺すの?他人を」
それはこっちの方が聞きたいよ。
「さあ?わたしもこれまでの人生でそんなの聞いたことも見たこともないから。けど、昔のミステリ小説とかだといろんな動機があったな。遺産狙いとか。恋愛のもつれとか…」
あと、動機のない通り魔殺人とか猟奇的な快楽殺人とかも。何が快楽なのかさっぱりわからん。昔の人、血の気が余ってて暇すぎる。
律もそこはわたしと全く同じ感想みたいで、呆れ果てた。とばかりにやれやれと首を振った。気を取り直した様子でゆっくりとトラックを発進させる。
「別に身内で争うような遺産とかないし。恋愛って言われても今どき、なぁ…。てかわざわざ体力使ってまでして人殺すのなんてだるくない?そんなエネルギーあったらもっと実りある他のことした方がいいでしょ」
「それはまあ。完全に同意するけど」
なるほど。この件に関しては東京も外の地方もマインドはさほど変わらないと見える。
わたしたちは過去の日本に関する豊富な書物や資料のおかげで、当時は犯罪が日常的にあって殺される人も後を絶たなかった。ってのがただのファンタジーじゃなくて歴史的事実だったって知ってる。ほぼそれだけがメインテーマのミステリやサスペンス小説や漫画がいっぱい存在してたくらいだし。
けどそれはただの知識としてで、現代ではそんな面倒なことにリソースを割く人の事例は少なくともわたしは聞いたことも見たこともない。失われた過去の人類の謎の習性、みたいな扱い。
多分だけど。…とここで頭の中を整理して、今の日本が平和で犯罪が滅多に見られない珍しいものになった理由についての仮説を立ててみる。
現代のわたしたちが昔の人たちよりも別に賢くて民度が高いとかいうわけじゃなく。日本が限界まで先細って余裕がなくなったことで、自然とみんな省エネにならざるを得なかったんじゃないかな。
たかだか百年くらいの間の変化だから、これは進化とも言えない事象なんだろう。短期間で一斉に人心が変わって、猛スピードで環境に最適化した結果なんじゃないかと思う。
そこまでドラスティックに変わらないと人類の滅亡の危機だった。いや外国が今頃どうなってるかは知らないけど、少なくともこの日本列島に於いては。
人間の性能や身体のつくりが遺伝子レベルで変容するには百年は短すぎる。だからこれは、人類という種を確実に残すために緊急避難的に集合的無意識が全体に一斉に働いたって事実の表れなのかもしれない。
とにかく、電気ガス水道も通信も電車もパスも動かなくなって頼れる公的な存在もいなくなり、全て自分たちのことを自力で何とかするしかなくなったのが明らかになった時点で。日本に在住してる人間同士は一切争うのをやめた。
そんなことをしてる余裕はない。とにかく食糧を手に入れて住むところを見つけ、各自が身の安全を確保して。生き延びなきゃ。
そうなると資源もエネルギー源もない、インフラもほぼ全て壊滅した世界で確実に利用価値があるのは人間の力と知恵だけだ。自分たちが頼れる唯一のものをお互いに損壊するなんて、そんな馬鹿な話はない。
当時の状況を目の当たりにしたわけじゃないが、現代の皆のメンタリティから推察するにおそらくそんな風に一気に世界観の大転換が起きたんだろう。現代では他の人間に無駄に敵意を向けたり攻撃する人はわたしの知ってる限りほぼいない。
大体そもそも、百年前の人たちがやたらとお互いギスギスしたり苛々して攻撃的だったのは。今のわたしたちの想像を絶するくらいに人口密度がみちみちに高すぎたのも一因なんじゃなかろうか、って気もするんだよね。
当然現代だって、他人と距離を取りたい人間はいる。わたしだって四六時中誰かといないと寂しくて死ぬとは思ってないし。ここまで後半一人旅になってからも心細くないことはなかったが、実は自分のペースで自由に行動できてそれはそれで悪くなかった。
昔の人たちがどれだけ社会や人間関係に縛られていたのか想像はつかない。会社だの学校だの、どうしても離れられないしがらみがきっとあったんだろう。
でも、現代のわたしたちにそんなのはない。他人との関係が煩わしければすっと移動して山奥に住めばいいだけだ。人里から離れた場所にいくらでも前文明のときから打ち捨てられてる家や建物があるし(こんな山の奥にまで!と愕然となることもある。昔の日本人、どれだけこの列島に溢れてたんだろう…)。
そういうところをちゃっちゃと直して勝手に住めばいい。どうせ現代ではどこに住んでも電気も水道もガスもないんだから、せいぜい湧水か渓流が近くにある場所って条件が優先なくらいだ。
山にあるもの(木の実や山菜、川魚。猟や罠の仕掛け方を覚えれば動物の肉も手に入る)で不満がないなら自給自足でもいいし。ときどき人里に下りてきて必要なものを調達してもああ、そういう暮らし方をしてる人なんだな。と考えるだけで誰も何も言わない。現にわたしの生まれた集落の奥にも何軒かそういう家があったし、誰にも迷惑もかけていなかった。
だからあまり人間関係の息苦しさとかしがらみの面倒さとかにみんな気を取られてはいなかったように思う。けど、都会では。もしかしたら人口の少ない地方と同じように簡単にはいかない部分もあるのかもしれないな。
よくわかんないけど狭い場所にぎゅうぎゅうに人が詰め込まれてるストレスとか。そういうのがあると昔の人たちみたいに同族に対して無駄に攻撃的になるのかもしれない、ただの想像だけど。
「殺人はないにしろ、子どもが一人でふらふらしてると危険なんでしょ。…もしかして律くんがバスで遠くに出かけないのも。それが理由?」
東京では親は危険だから子どもを手放さないのかも。それどころか日帰りやちょっとした遠出も怖がるくらい治安が悪いとは…。それは計算外だった。わたし、このまま旅を続けて大丈夫だろうか?
不安を隠せないわたしに、律は何故かちょっと不思議そうな顔をした。
「え?いや、俺は関係ないよ。男だもん。別に今の時代、一人で出歩いて怖いことなんてない。遠出しないのはただ単に必要なかったからだよ。だってわざわざバスに乗ってまでしてどこ行っても、どうせ大してここと違わないでしょ。同じ東京の中なんだし」
また出た。何なのその区別は。
「何で?男なら平気で女なら怖いってどういう意味なの。別に、どっちでも子どもは子どもじゃん。特に女の方が転んで怪我しやすいとかもないと思うし。食べる量なんて、むしろ男の子の方が多いような気がするし…」
食べ物が足りなくて行き倒れるだろうと考えてるなら、特に女だから住民の皆さんに手助けしてもらえないってこともなかったと思うんだよね、ここまで。それとも東京の人たち、一般通過女子に特別に厳しいとかなの?
しきりに首を捻って考え込んでると、しばし黙り込んでた律がおもむろに口を開いた。
「それはさ。…ほら、あれだよ。もちろん俺ら普通の都民は全然問題ないよ?けどさ、世の中は広いから。中には女の子に変なことする変態がいないとも限らないだろ。ごくごく稀に…」
「…変なこと?」
男はされないけど、女だけ被害に遭う犯罪(厳密にはそういうわけじゃないらしいけど、少なくともこの律はそう思い込んでる可能性)。そう言われて一番に想起されることと言えば。
「…え、もしかして。ちょっと信じられない話なんだけど。えーとあの、何だっけ。いわゆる、れ。…れー、…うーん」
大昔に読んでる小説に出てきたことあるぞ。別の言い方もあるよな。普段全く使わない言葉だからまじで忘れちゃう…、ごう、何だったか。そう、強姦ってやつ?
わたしが口にしかけた言葉に刺激を受けたのか、まっすぐにフロントグラスの方に目線を向けたままの律の耳が真っ赤に染まった。
「それを言うなら『レイプ』だろ…。いやさすがに、そんな前世紀の遺物みたいな犯罪は聞かないよ今どき。よくわかんないけどあんなの滅茶苦茶大変じゃないか?嫌がって暴れる女の子を押さえつけて無理やり、なんて。…そこまでしてしたいかって、普通あんなこと」
「そりゃそうだよね。子ども作らなきゃいけない局面でもないのに、何が悲しくてそこまで」
よかった。そこまでは東京の人でもわたしたち地方民と同じなんだ。正直ちょっと怖くなっちゃったよ。
てっきり百年前の世界と同じ価値観、同じ感覚の人たちが集う魔境なのかと。けどさすがに、女性が夜道を歩けないとか窓を開けて寝ると男が侵入してくるとか、そんな獣みたいな人間はもう東京にも存在してないらしい。…だけど、じゃあ今さら何が心配されてるんだ?逆に。
「『ごーかん』とかないんなら、別に危ないことなくない?女も男も同じでしょ、怪我したり病気になる確率なんて」
やめとけばいいのに、わたしも雑談がてらさらに突っ込んでみる。すると律は真顔のまま、ますます耳を真っ赤にしてぼそぼそと呟いた。
「いや…、でも今でも助平なやつとかはいるから。女の子は狙われると思うよ…。身寄りのない子がその辺ふらふらしてたら。声かけられてうっかりついていくと…」
えええぇ。
なんかやばそう。強姦以外にも女の子をターゲットにした大昔の犯罪って、何かあったっけ?
あんまり危機感がないからもとより興味も関心もない。わたしは頭をぐるぐると巡らせて何とか適合するワードを探した。
「え、何されちゃうの。触られちゃったりとか。…何て言うんだっけそういうの。あ、思い出した。『ちかん』?」
普段は全く使わない語彙からいろいろ引っ張り出さなきゃいけなくて骨が折れる。人生で一番たくさん性犯罪にまつわる単語捻り出したよ、今日は。
「てか、ちょっと想定外なんだけど。東京の人たちってもしかして、今でも性欲とかあんの?結婚相手とか恋人とか。特別な関係にない異性に変な気持ち抱く先祖返りみたいな人たちが、現代のこの世の中に未だ存在してるってこと?」
まずそこから意外っちゃ意外だ。無視できない重要なポイントなので、わたしは根本的な前提から確認していくことにした。
これまでの人生で相手誰彼構わず劣情を抱く人間に、わたしは会ったことがない。男女問わず、地元の集落だけに限らずここまでの行程のどの地点でも、だ。
だから当然のように、東京の人たちも現代の日本人としてわたしたち地方の人間と同じだと無意識に油断していた。けど、あんな結界でわざわざきっちり分けられてる中の人たちの心が。外のわたしたちと全く同じであるわけがない。
さすがに暴力で女性を襲うほど原始的なとこまで遡ってはいないって話だが。しかしだとするとどのレベルまでは邪なことされる可能性があるんだろ。子どもが出来ちゃうような行為まではいかなくても。…下手したら、その前の段階くらい?
わたしが示唆した内容に何かを思い浮かべてしまったのか。律は耳だけじゃなく頬や目の周りまで万遍なく染めて、運転中なので顔を俯けることもできす。蚊の鳴くようなか細い声で切れ切れに訂正した。
「そんな、恋人でも奥さんでもない女性に。…触るなんて…。そこまで野蛮なことはいくら変態なやつらでもしないと思う。けど女の子、好きな連中は好きだからさ。自分の彼女ってわけでなくても」
そういう、ただ可愛い女の子に囲まれていたいっていう不届きな助平オヤジたちが存在するらしいんだよ。で、そんなやつらの相手なんて誰もしたがらないから。ぼんやりしてる女の子をその辺から攫ってきて無理やり働かせてるんだぞって。…うちの親とか学校の先生たちに妹やその友達が、よく脅かされててさ。と律はぼそぼそと何か悍ましい話を打ち明けるように声をひそめた。
律、妹いるのか。いやそれはともかく、その噂が本当なら確かにかなりいかがわしそうな話だ。わたしはちょっと興味を引かれてつい運転席の方へと身を乗り出してしまった。
「えー、無理やり働かせるって何。女の子を集めてさせることって何だろ。触らないし性交もしないんだよね?あと考えられるえっちなことって何があるかな。…あー女の子の方から触らせるとか?」
大昔は確か、そういうお店もあったと聞くし。何だっけよく知らないけど。性風俗のマッサージ、だったっけ?
律はまるでわたしがそこでとんでもないことを口にしたみたいに首を縮めてひえ、と声を出し、思わず足に力が入ってしまったらしい。
急にぶぉん、とエンジンをふかしてスピードを上げて、ああ今の角曲がり損ねた。びっくりしてアクセル踏んじゃったから直進しちゃったよ、とぷりぷりしながらちかちか音がするボタンを押す。もう少し先行ってからそこで曲がるからね、遠回りになっちゃったけど。とむくれ顔ながらちゃんとわたしに断りを入れた。
どうせわたしは正しい道順なんてわかんないし、多少遠回りされても何も困らないのに。名前通りなかなか律儀な子だ。思わず肩を縮めてこっちこそごめん、と素直に頭を下げる。
「調子に乗って変なこと言っちゃった。でもさ、普通に全然わからなかったから。もしあなたがその危険が実際にあるって考えてるなら一応教えてもらおうかなと思って。だって、避けられるなら避けた方がいいようなことなんでしょ多分?」
東京に来るまでは性的な被害に遭うかもとか全く考慮してなかったから、多分自力では正解にたどり着けそうもない。ここは率直に教えを乞うて用心するに越したことはないだろうと大真面目な顔で次の台詞を待った。
律はいかにも初心な若者らしく、性的なことにまつわる言葉を口にするのも苦手といった苦しげな表情を浮かべて、至極言いにくそうにもごもごと説明してくれた。
「いや、俺も。…噂というか話でしか知らないんだけど。何でもそういう店では女の子は、あの。…男の隣に座って一緒にお酒を飲むんだって。本当かどうかわからないけど、その。…下着姿で」
「下着?」
わたしはちょっと虚を突かれてぽかんとなってしまった。ん?男の人と並んで座ってお酒を飲むの?…なんか、考えてたのと違う…。
「それって。…普通に自由な姿勢で喋ったり笑ったり話とかしてもいいの?自分のペースで飲みたいものを飲んでも…」
「いやそこまで知らんけど。でも多分そうなんと違う?女の子の身体を見ながらお酒飲みたい大人って、よく知らない可愛い子と会話したりすんのも好きなんだって。でも仕事で仕方なくってことじゃないと、恥ずかしいかっこでおじさんとお喋りして飲んでくれる子なんて。今どきいないからって」
だから、守ってくれる親がいない子とか。親元を離れて街でうろうろしてる子に目をつけて声をかけて、住むとこ用意するよとか三食昼寝つきだよとか言って騙くらかして連れてくるらしいよ。とまるでおっかない話で怖がらせるときみたいに、低く声を落として付け加える律。
「…なぁんだ」
その答えの内容に思わず拍子抜けした声を出して、すとんと助手席に背中を埋めてしまった。いや、だってさ。
「わたしはてっきり…。縄とか鎖とかで繋いでご飯も与えずに強制的に働かせるのかと思った。でもそういうことなら別に、ただの楽で割りのいいお仕事じゃない?だって、にこにこしてお酒飲んで、楽しく知らないおじさんとお話ししていれば住むとこも食事も用意してもらえるんでしょ?」
これまで旅の間、畑や農場とか町の工場とか。いろんなとこで働いてその都度住居や食糧を調達してきたけど、その中でも断トツで楽で楽しそうな仕事だよ。
心配して損した。と助手席でうーんと遠慮なく伸びをするわたしに、律はやや焦ったような声で重ねて念押しをする。
「正気か。楽とか大したことないとか言ってる場合じゃないだろ。下着姿だぞ?そんな破廉恥な格好させられて人前に出されるなんて。考えるだけで恥ずかしくならないの?」
「だからさ。それがわかんない、実感として。ぱんつとブラだけって、破廉恥なかっこなの?」
わたしがストレートに口にした下着の名称を耳にして、律の頬が再び紅潮する。
「えっ、だって。…女の子が下着だけとか裸でいたら。それってエロじゃん…」
ふぅん、と適当に相槌を打つけど。今ひとつわたしの方では納得し難いというか。実感がない。
「昔の漫画とかでもそうだね。やたらと女の子の裸とかぱんつとか出てくるやつあるけど、やっぱり意味がわかんないな…。だらしないとかみっともないからきちんと服着ろはわかるけど。それは男も同じじゃんね?」
子どもの頃はともかく、大人になったらさすがに丸出しで川遊びはしなくなったし。
旅の途中で入った温泉や浴場でも、ちゃんと男湯と女湯に分かれてた。でもそれは、性的な羞恥心からというよりも何となくマナーというかエチケット的な。一応のたしなみからってくらいの感覚だったな。多少分け方が雑でも、大人も子どもも誰も大して気にしてはいなかった。
無論女性のお風呂や着替えをわざわざ覗く男性もいない。だからそんなもんでこんなに顔を真っ赤にして恥ずかしがる少年が未だに存在するとは。ちょっとびっくり。
「わたしもお尻とか胸丸出しで人前に出るのはもちろん恥ずかしいよ?でも、それは男の人だって同じようにやじゃない?素っ裸ってみっともないし。けどその程度かな。だからまあ、ぱんつとブラでお酒飲んでお喋りしてそれが旅の宿とご飯になるのなら。本当に困って追い詰められたときの選択肢としてはまあ、ありかな。触られなくていいんなら…」
何の気なしに能天気な口調でそう呟いたら、律はとんでもない。とでも言わんばかりにぐっ、とブレーキを踏み込み、その場に車を急停車させてわたしの方へと向き直りいきなり噛みついてきた。
「え!…何言ってんの、冗談じゃないよ。そんなはしたないことしてお金稼ぐなんて絶対駄目だから。もう、しょうがないなぁ地方から来た人って。全然都会の男の怖さとかわかってないんだから…。こんなんじゃ先が思いやられるよ。本当に…」
文明がなし崩しに崩壊して百年以上経った今。現代を生きるわたしたちには、昔の人間が皆当たり前に持っていた性欲ってものが、ほぼからっきしない。
その原因はおそらく、先ほども言及したように文明の発達した至れり尽くせりの環境に住む昔の人たちと違ってわたしたちにはいろんな意味で余裕がないから、だと思う。
普通に食べるものや着るものを得るにも段違いな量の労力と時間がかかり、住まいを快適にするにも人の手は欠かせない。移動もほぼ全て人の足とくれば、恋愛やセックスに日常のエネルギーを取られるのも惜しい。
別に意図してそうなったわけでもなく。日本全体が集合的無意識で呼応したみたいに、百年かけていつの間にか人々が一斉にそういう体質にでもなったらしい。
今では老若男女関わらず、異性に性的な関心をあからさまに向ける人はほとんど見られなくなってる。さすがに各々の内心についてまでは断言できないが。
けど、実感として大人も子どもも性に向けるエネルギーがすっかりなくなってるのは事実だと思う。えっちな話で馬鹿みたいにはしゃぐ子どももいないし、可愛い女の子や綺麗な女性にテンション上がって変に色めき立つ男の人もいない。
そんなんでどうやって次世代を残すのか?と当然疑問に思われるだろうが。そこはよくしたもので、思春期になるときちんと大抵の人は発情する。だけど、対象はかなり厳密に限定される。
そう、我々はある意味すごく合理的に進化した。
種によるけど動物は概ね、繁殖期にこれと狙い定めた異性にアプローチして見事承諾を得られたらそこで初めて繁殖行動をする。今では人間も大体そんな感じって言えば、何となく伝わるだろうか。
現代人は思春期以降、誰か特定の異性に恋心を抱いてそれが相手に受け入れられると双方一気に発情する。動物の繁殖と同じで、お互いの合意がないと現象が起こらないのがポイントだ。
つまり、合意のない性交というのは今では基本的に存在しない。少なくともわたしがここまでの旅の途上でこの目で見てきた範囲ではそれは常識とされていた。
どうしてこうなっていったのかはよくわからないが、でも結果的に人類にとって合理的で都合がいい状態になったのは確かだと思う。そう考えられる理由はいろいろとあるが。
まず、無駄撃ちを減らせる。性交が繁殖行動だと捉えれば、大昔は性風俗だのセフレだの愉しみのためだけの避妊した上での行為だの、目的外セックスがほとんどだった模様。
だけど現代のわたしたち、食糧も豊富でなく日々の労働にエネルギーを費やさなきゃならない者たちにはそんなことに大事なカロリーを割いてるゆとりはない。
しかし性交が全くなくなれば人類は滅びる。ただでさえ人口はみるみるうちに減少していて、今では前文明の頃に列島に溢れていた日本の人口は見る影もない。誰も数えてないから知らないが、おそらく半数どころじゃないはず。三分の一にも全く満たないんじゃないだろうか。
そこで確実に結婚して子どもを産み育てられそうだ、となったカップルだけが猛然と発情して夢中で性交しまくる。という以前には存在しなかった本能が突如として人間に発現したらしい、どうやら。
当然わたしにはそんな局面が訪れたことはなく、伝聞に過ぎないのだが。経験者によるとそれは天の啓示の如く、ある日突然に我が身に降って湧いてくるものだという。
「本当にさ、これまで体験したこともないような感覚で。身体の奥からうわーっとすごい衝動が湧いてきて、いても立ってもいられなくなってさ…。そこで目の前の彼とふと目が合ったら、あ、向こうも同じ状態なんだとお互いに理解して…。そうなるともう、一刻も我慢できなかったんだよね」
そのまま無言で二人して人目のない物陰に急いで移動して、息つく暇もなく立て続けにやりまくったという。…まあ、つまりはまさに動物の発情期そのものであると。
実を言うとこれは旅の途中でその土地の男と恋に落ちて脱落したわたしの元連れの証言なのだが。体験した本人が熱も冷めやらぬ状況で興奮もそのままに報告してきた内容なのだから、まあ。信憑性はあるだろう。
さらに言うともう一人の連れも同じようにして後日、別の土地で脱落したんだけどね。この分じゃ東京に着く前にわたしも同じ醜態を晒すのか、とちょっとだけ内心で戦々恐々としてた。何とかここまで無事に到達できてよかった。
閑話休題。彼女らの証言や集落にいた結婚してるカップルを見るに、どうやらどちらか一方の片思いの段階では駄目でお互いの気持ちが通じ合って高まったタイミングでそれは起こるらしい。逆に言うと、一方的に思いを募らせている人や仄かな好意を寄せてるだけの人には起きない。だから恋愛が上手くいかないケースでも性的なトラブルに結びつくことはない。
どうしてこうなるかっていうのを、まるで誰かが設定したみたいに裏の意図を読むとすれば。
必ず結婚して、ちゃんと二人で子どもを育てられるカップルにだけ性欲が湧くようになってるんじゃないかな。どっちかだけの気持ちだったり、片方がただ性欲を満たしたいだけでセックスできてしまうと万が一妊娠しても無事に生まれてくるかどうかも怪しい。医者や薬が前文明ほどに足りてない今でも、その気になればわざと子どもを流す方法くらい調べれば何とかなりそうだし。
人口を増やしたいだけなら男の方の性欲だけを過剰に高めて、それぞれが強引にでも何でも子種をばら撒くようにすればいい。と昔の人なら考えそうだが。それだと生まれてくる子がきちんと大切に育てられる可能性がだいぶ低くなるような気がするんだよな。
誰だって女性なら、自分を暴力で蹂躙した相手の血を引く子を(例え本人に罪がないとしても)心の底から愛しく思うのは難しそうだ。
しかもそんな風に自分の遺伝子をばら撒いた男がそのあとの責任をとって一生その子の面倒を見るとはならなさそうだし(それに子の母親としては責任とって欲しくもないと思う)。こんな詰んだ世の中で乳飲み子を抱えた片親、しかも愛してもいないむしろ憎い男の子どもとなると。
きちんと愛を注いですくすく健康に育てよ、といってもかなり無理があるのではないだろうか。
それよりは数が少なくなっても、確実に愛のある男女の間で生まれた子どもなら。両親揃った状態でそばにいて、大人になるまで大事に健康に育ててもらえる確率が高いだろう。
こんなこと言うのはなんだけど。現代じゃ社会全体に余力があるわけじゃない。まともなインフラも潤沢なエネルギーもないから、百年前ほど大量の人間が不足なく食べていけるほど充分な資源のリソースがこの列島に今もあるとは思えない。
そんな状況で、不健康で親の愛も得られず精神的にも荒れたストリートチルドレンが大量に世間に溢れる(しかもそれぞれが長生きできない)よりも。丁寧に愛を注いで育てられた限られた数の子どもが無事に成長して、確実に次の世代へと繋げてくれる方が無駄がないと思う。いや、こういう風潮になることを誰かが計画したわけじゃないはずなんだけどね。
それにしても不思議は不思議だし、自然の摂理と言えばそれはそう。誰の意思でもないのにこうも合理的に人間の習性が変わっていくのって、それだけ世界が詰んでいてぎりぎりだったから。究極の省エネスタイルで人類を最低限存続していくやり方が突発的に発現したのかもしれないな。
ともあれ人間から余分な性欲がなくなったことは、二次的な効果ももたらした。何よりまず、前文明の頃よりもぐんと治安が良くなったのが大きい。
性犯罪がなくなると、女性が身の危険を恐れずにいつでもどこへでも普通に出歩きやすくなる。ただでさえ法律も警察もなく、人口密度の低い土地では人目が切れる機会も多いので。女の人も一人になるのを警戒せずに野山や畑で働けるようになることでそれでもずいぶん生産性が増した。
そして言うまでもなく『旅の子』の慣習だ。これもまた、年若い子が男女問わず大人の付き添いなしに生まれ故郷を出て知らない土地へとがんがん積極的に移動できるようになったからこそ。子どもを狙う性犯罪者や強盗や殺人者が存在しなくなった社会の賜物である。
「…へぇー、そうなんだ。そしたら円花ちゃんと一緒に旅してた子たちは。二人とも途中で恋に落ちちゃったの?」
その日の夜、律の自宅で。わたしは温かい食事を家族と一緒に振る舞われたあと、煌々と明るいリビングで彼の妹と兄に囲まれて団欒に参加していた。
…それにしても。さすが東京、街中や通りで見るものに驚かされ感動させられるのはまあ、覚悟してた。きっと見たことも聞いたこともないものを見る羽目になるんだろうなと。
だけど。…まさか一般家庭の中でも、現代ではまずお目にかかる機会もなかった信じられないようなものを目の当たりにすることになるとは。
律の自宅は用賀の駅跡からしばし車で移動したところ。元は大きな国道だった道から曲がった細い脇道沿いに建った、古いけど手入れの行き届いた一軒家だった。
二子玉川からの距離は大したことないが、相次いで三箇所で移動販売を済ませてきたので。到着したときにはだいぶ日が落ちてとっぶりと暮れかけていたのだが。
ただいまぁ、と大きな声で奥に呼びかけながらドアを全開にして家に入る律。やはり玄関に鍵はかかっていない。
そこは地方と同じなんだな。窃盗や強盗なんかの犯罪がないって言ってたのはどうやら本当のことらしい。むしろ山奥の方が少なくとも寝るときは鍵かけざるを得ないから、用心深いくらいかも。何故なら野生動物が入ってくると困るので。
そのまま後ろからついて行っていいのかな?と戸口で躊躇していると、奥から律のこだわりないあっけらかんとした声が響いてきた。
「あ、母さん!女の子連れてきたんだけど、今日うちに泊めていいかな。野菜売るの手伝ってもらったんだ」
え、それは構わないけど。その子のお家の人がなんて言うか…と律よりだいぶ小さめな声で女の人が応じているのが聞こえる。いえわたしは旅の者で…とちゃんと弁解しないと。と慌てて靴を脱いで他人の家に足を踏み入れる。
廊下を進みつつ漠然と頭の端で感じていたのは、家の中がずいぶん明るいな。時間帯を考えればもっと暗いのが普通だと思うんだけど、よほどランプをいくつも煌々と灯しているのかな。
東京は物資が集まりやすくて豊かなのは知ってる。工場製品が豊富だから、周囲の地域から交換を求めてたくさんの農産品が集まってくるし。その中には菜種油やオリーブ油も含まれているはず。
石油が海外から入って来ない今、日本中どこでも植物油を燃料に使ったランプは重要な光源だ。
うちの地元なんかじゃ油は大切に節約しつつちみちみと使うものだから。こんなに夜、部屋の中を明るくするためにがんがん火を焚くなんて贅沢なことだよなぁ。よほどランプをいくつもずらりと並べてるんだろうなぁと考えつつ部屋の入り口からひょいと頭を突っ込むと。
「わ。…何これ。すごい!」
初対面の人たちの前で無作法にも大声を上げてしまった。
え、ここって普通の家庭だよね?何か特別な、一般に開放されてる施設とかじゃないよね。お店にも公民館にも、ホテルにも思えない。…けど。
わたしの視界に飛び込んできたのは、造りはごく普通によくある家屋のキッチンだった。
流しがあって調理台があって、ダイニングテーブルとそれを囲む家族の人数分の椅子。
わたしの素っ頓狂な驚きの声に、その場に居合わせてる人たちの視線が一斉にこちらに集まる。
「あ。…すいません、うるさくて」
恥ずかしい。騒がしい、躾のなってない田舎者と思われたかな。まあ事実ほぼほぼそうなんだけど。
身を縮めたわたしに、律のお母さんと思しき年齢の女性が優しく声をかけてくれる。
「いえ、大したことないよそのくらい。いつももっと全然うるさいからねうち。子どもが三人もいるとね、それぞれがてんでんに我先にと喋るから…」
「すごいって。何にそんなに驚いたの?今ここに、特にびっくりするようなものある?」
明らかに律より歳下に見える女の子がきょとんとした顔でそう問いかけてきた。確かめるまでもなく、これがさっき話に出てきた妹か。顔立ちの幼さから判断するにおそらく12、3歳くらいってとこ。けどやっぱり、身長はわたしより高い。
お母さんも一般的に言ってだいぶ高い方に思えるから、そういう家系なのかな。と考えかけてふと気づく。そういえば東京に入ってから、野菜を売ってるときのお客さんも皆割と背が高かったような…。もしかして地域的な特性なのか。
こちらがあれこれと考えてる間もずっと、二人が不思議そうにわたしの方を伺ってるのはわかるけど。いやそれより何より、その部屋にあった生まれて初めて見るものについて確認するのが先。と改めて気を取り直し口を開く。
「え、ていうか。…ねえこれ、電気だよね?電灯じゃない、もしかして?」
現代のわたしたちは概ね、百年以上前の人たちが建てた家やビルをほぼそのまま、元の持ち主と縁もゆかりもない状態で居抜きで使って暮らしている。
今の技術じゃ再現不可能なくらいしっかり作ってあって保ちもいいし、人口が激減したから全員が好き放題気ままに使っても空き家だらけになるほど数はある。だから、今では使い道がないものもそのまま残されてることがほとんどだ。
エアコンもTVも冷蔵庫もとうに無用の長物だが、片付けるのが面倒でそのままになってたり物置きに押し込まれてるのはよく見る。そして各家庭の天井に張り付いてる照明の名残り。大抵の家で使い道もないまま無意味に放置されてるのしか、わたしは見たことがない。
けどここで初めて、丸い形に煌々と輝いてる電球による照明が活用されてるのを目の当たりにしたわけだ。
もちろんわたしもここまでの旅程でさすがに、一回も電気が使われてる場面を見たことないと言えば嘘になる。
山奥の自分の生まれた集落あたりはともかく、途中でそれなりに町になってる土地も通ってきた。
例えば町工場なんかには、今でも大昔に作られた発電機が残ってて。直し直しして大切に使われてるから、電気で動くものを見たことないわけじゃない。
他にも大きな施設には自家発電設備があって、電灯や冷蔵庫が稼働してたのも見てきた。でもそれは大勢が使う特別な場所に限られてて。個人の家庭でたかが夜の照明のためにわざわざ電気使うなんて、そんな贅沢はこれまで見たことがない。
もしかしてここんち、自家用発電機を備えてるのかな。燃料はどうしてるんだろう。
しかしさすが東京。一般家庭でも電気使ってるなんて、すごいすごいとはしゃいでるわたしに律が横から口を挟む。
「え、普通だよこんなの。うちだけじゃなくてどこの家でも電気きてるって。てか、ここに来るまでに気がつかなかった?街灯もビルも、他の家でも窓に灯り点いてたでしょ」
「まあ、時間的に微妙かもね。ちょうど暗くなってきた頃だから。街灯点くか点かないかの狭間のタイミングだったかも」
見慣れてないなら気づかなくてもおかしくないよね。と、律のお母さんらしき女性がフォローを入れてくれた。
聞いたところによると、東京では地域ごとに小型の発電所があって、街灯やみんなが使う共有の施設だけでなく一般家庭にも電気が送られてきているのだという。豪勢だ…。
それだけでなく、ポンプなどの設備を動かすこともできるから何と水道も稼働している。蛇口から流れる水や冷蔵庫にきゃあきゃあと興奮するわたしに、本当に東京の外から来たんだね。と納得しつつ、律のお母さんは苦笑気味に付け加えた。
「何でもかんでも電気で済ませられるほど豊富に使えるわけじゃないけどね。一日に各家庭で使える上限は決まってるから、節約するようにしてるよ。台所やリビングとか、夜はみんなでなるべく集まるようにして。それぞれの部屋に引っ込んだらそこではランプだね」
あのときのおじさん、東京じゃランプなんて必要ないよと得々として教えてくれたけど。それはあくまで聞きかじりの知識で半分正しくて半分間違いだったことが判明した。ああ、やっぱり。一応あの新品のランプ、もらっとけばよかったなぁ…。
そんなわけで。夕食は全員勢揃いの状態で、食後の団欒も明るく電気の灯るリビングになるべくみんな集まるという習慣になっているとのこと。
それは実は、わたしが生まれ育った集落でも大体同じなんだけどね。ランプの燃料を節約しなきゃならないから、キッチンでもリビングでも暖炉に火を焚いて家族全員そこで夜長を過ごすのが習慣だった。
そういう意味では実は電気が敷かれていても意外と人の動きは変わらないんだな。…というわけで温かくもてなされて野菜たっぷりの美味しいご飯をいただいたあとに一番最初にお風呂に入れてもらって(まじで初対面の得体の知れないよそ者の子どもなのに…。恐縮)、家族みんなが順番に次々と入浴する間。わたしはリビングのまんなかに座らされて律の兄妹たちから興味津々の質問攻めに遭っていた、という話。
「…ねぇねぇ、さっき律から聞いたんだけど。円花ちゃんは『旅の子』なんでしょ?よく知らないけど、そういう子たちって地方から東京目指してくるのが目的なの?」
その割にこれまで会ったことないんだよね、わたし『旅の子』って。と目をきらきらさせてソファの上で隣に座るわたしに迫ってくる律の妹。
律の言うところによれば、今12歳の『中学一年生』。ラブコメの主人公にはちょっと早い年齢か。どことなく律の顔立ちを思わせるから血の繋がりを感じるが、そっくりではない。兄貴が悪いおじさんに拐かされるのを心配するのも無理ない、なかなか可愛らしい妹だ。
「一般的に言ってそうではない。旅の子で東京を目指すのは珍しいというか、あんまり聞かないね」
まあ、わたし自身はその例外だが。と考えながら慎重に言葉を選ぶ。ここで自分の真の目的を無関係の人たちの前であえて明らかにする必要もないだろう。正直説明して理解してもらうのも難しいし。
「基本的には、自分の生まれた土地から離れて新しい環境や人間関係に触れることが目的だから。そのまま旅先に根を下ろす人もいるし、見つけたパートナーを連れて故郷に帰る人もいるね」
集落や村によって慣習もさまざまだったよ。と見聞きした経験を思い出して付け加える。律の妹の笑はえーそうなんだ。と思春期の女の子らしく、恋愛絡みの話題とみてさらに前のめりに食いついてくる。
「円花ちゃんの旅の仲間は東京に着く前に、そうやってそれぞれ脱落しちゃったんでしょう。それってやっぱり、旅先で運命の相手に出会っちゃったってこと?」
「まあ。…そういうことだよね。一度そういう状態になったらね、もう他人が何言ってもどうしようもない。梃子でも動かないよ」
だから、恋人にがっちりくっついて離れようとしない相棒たちをその土地に置いてくるしかなかった。本当は女の子三人で揃って東京に踏み込む予定だったんだが。
当時を思い出して苦虫を噛み潰す顔つきになりかけてるわたしに、そんな様子に気づく風もなくうっとりとなって尋ねてくる笑。
「本当に好きな相手と両思いになれたら、そりゃ絶対に離れたくないもんね。わたしでもそうなるかも…」
どうやら恋愛に対してかなりの憧れを抱いているらしい。旅って何だかロマンチックかも、運命の人を探すためのものなんだね。と独りごちて何やら想像を巡らせてる様子。実はそんなに間違ってはいないんだけどね、確かに。
「ロマンチックかどうかはともかく、もともと旅ってそのために生まれた慣習だしね。つまり地元にいたら出会えない自分にとって唯一の特別な相手を見つけて、その人と結婚するっていうのが目的」
前にも話に出た通り、現代はご存知恋愛至上主義社会なので。それ抜きでは生殖も子孫繁栄も成り立たないので、理想とかロマンの問題じゃなくてやむなくそうならざるを得ないのだ。
「年頃になるまでに自分の生まれたとこで相手が出来れば旅立たなくて済むけど。うちみたいな小さい集落じゃ、同年代の異性も限られてるから…。違う環境で育った人と出会うと新鮮だし、確かに恋に落ちやすいかも」
「えぇーそうなの?ちょっと素敵」
何で東京では旅の慣習ないんだろ。わたしも行ってみたいなぁ見たことない地方とか、と乗り気になりかける妹にお風呂から上がって途中から話に参加してる律が慌てて横から口を挟む。
「お前は駄目。まだ中一だろ。学校もあるし、旅なんて出てる場合じゃないよ」
それに変な男に引っかかっても、旅先じゃ誰も助けてくれないぞ。家族とも離れなきゃならないんだし、と強めの声で注意する。本当に妹を可愛がってるんだなと思えば微笑ましい反応だが。
笑の方は特にありがたがる様子もなく、ただうざったいとしか感じていないらしい。まあ、そんなもんかな兄妹なんて。心配してくれる気持ちがありがたいなんて、離れて初めてわかることかも。
彼女はいーっと顔をしかめて見せたのち、わたしの方へと向き直り愚痴をこぼした。
「律はいつもこうなの。以前に学校の先生に脅かされたことをずっと覚えてて、女の子は攫われて変なとこで働かされるかもしれないから危険だって言うんだよ。けどさぁ、そんなの都市伝説じゃないの?実際に危ない目に遭った人なんて、わたしの友達や知り合いの誰からも話聞いたことないよ?」
「それは家から離れないからだろ。旅なんて出たらそりゃ危ないって。どんな悪いやつに出くわすかわからないよ」
ぶっきらぼうにそう言い張る律。ふん、内心でそんな風に思ってたんか、実はわたしの話聞いて。
「お言葉ですけど。長野の山奥から出てきてここまでてくてく歩いてきたけど、男の人から変な目に遭わされたことなんて一度もないよ。東京は知らないけど、外の地方じゃもうそういう犯罪ないから。じゃないと親だって旅になんて出さないよ、子どもだけで」
どうしても心配症ならきょうだいでとか幼馴染み同士連れ立ってって方法もあるしね、野生動物とか事故とかは脅威ではあるし。と付け加えると、そりゃそうだな。とそれまで笑顔で話を聞いていた律と笑のお兄さん、燦が深々と納得したように頷いた。
「旅の危険って、何も人間絡みだけじゃないよな。いくら結婚相手を見つけるためとはいえ、親御さんだって事故や病気に罹ったら…と思えば気が気じゃないよね。それで円花さんは地元の幼馴染みと三人組で?」
三人きょうだいの一番上の長男は律よりさらに背が高い。ゆったりと年代もののソファに腰掛けて静かに微笑みかけてくれる表情は落ち着いていて大人っぽく、思わず見惚れる。一体歳は幾つなのかな。二十歳超えてそう。
「ええまあ。…わたしはちょっと、集落の長老たちから託された用事もあるんで(てかそれがメインだ)。三人いれば誰かしら一人は目的地にたどり着けるだろうって目論見もあったんじゃないですかね。まさか東京に着くだいぶ前に、二人も脱落するとは。さすがに予想外だったですけど…」
「恋に落ちたらそれは仕方ないよね。円花ちゃんは途中でそういうのなかったの?」
それとも東京で相手見つけるつもり?とずいと身を乗り出してきて尋ねる笑。隙あらば恋バナに持っていきたいって欲が隠せず溢れ出してるなぁ。
「わたしまで脱落したら、誰一人東京に入れないまま終わっちゃうところだったから…。それはさすがに気をつけたよ。出会う男の人に気を許さないで、一応距離を置いてね」
「えーそれじゃわざわざ故郷を出てきたのに台無しじゃん。てか、もう東京に着いたから。恋愛しても大丈夫じゃない?」
うちのお兄ちゃんたち、どう?と気軽に話を振られてちょっと慌てる。いや本人たちの前でそんな。ないですとかありだなとか、失礼過ぎて適当なこと言えないよ。
「いや、まだ目的は済んでないから。もっと先に、東京の中心まで行かなきゃならないの。それが終わればまあ、恋愛のことも考えていいと思うけど…。今は駄目だね。せっかく頑張ってここまで来たから、初志貫徹しないと」
「そうなの?でも、今すぐじゃなくていいなら。用事をさっさと終わらせて戻って来たら?別に東京で定住するのはいいんでしょ。それとも地元に戻らなきゃ駄目?」
ここでみんな一緒に暮らすのも楽しいと思うよ。と上目遣いに持ちかけてくる。この子、本当に人懐っこいな。外からやって来た得体の知れない女に対して、この家の人たちみんな優しい。
わたしは彼女から渡されたクッション(ふかふかで柔らかい)を受け取り、ぎゅっと無意識に抱きしめながら考え考え答えた。
「用事が終わったあとならまぁ…。東京で結婚しちゃ駄目とは言われてないので。でも首尾よくいったかどうかは報告しなきゃかな。そう考えると一回、機会見つけてどのみち地元には帰らないと」
今って昔と違って、通信手段ないから不便だよね。結局てくてく歩いて人の足で移動して伝えに行かないといけないし…と嘆息すると、お兄さんの燦さんがこともなげに口を挟んできた。
「あ、でもワンチャン手紙は出せると思うよ。届くまでどのくらい時間がかかるかは計算できないけどね」
何でも、ほぼ全国から東京に物資が集まってくるし東京からもその見返りに工業製品や日用品を出すから。ルートを調べてしっかりと宛先の正確な位置を記しておけばその方面に向けて手紙を託すことは可能、と聞いたことがあるという話。
「確実にやり取りできる保証はないけど、わざわざ歩いて帰ってまた東京に出てくるのも大変でしょ。もしもこっちに決まった相手ができて離れたくなかったら、駄目元でそういう方法を取るのもありじゃないかな」
「へぇ。そんなことできるんだ。じゃあ円花ちゃん、さっさと用事済ませておいでよ。それで将来いつかはここで結婚してずっと住めばいいんじゃない?がちの都心なんてきっと環境よくないよ、絶対治安悪いし。用賀やニコタマの方が断然住みやすいってば。新鮮な食べ物は手に入るし、多摩川近いから水も豊富で。自然もいっぱいあるし」
ど田舎の山奥で育ったわたしに自然の豊富さを誇るとは笑止千万。やっぱり東京者は本物の自然を知らないんだな。
けど、サービストークにしろこうやって親切に誘ってもらえるのは素直に嬉しい。
初対面でのこのこと家に上がらせてもらった、身元のはっきりしない田舎娘をこうしてみんなまともに扱ってくれてる。地方民は旅の子に慣れてるし、自分や身内が旅に出れば他人の世話になることがわかってるからお互いさまの精神でほとんどの人が親身に世話をしてくれるけど。
東京ではそういう習慣がないし、地方から東京に入ってくる人間に慣れてないのは間違いないのに。単にこの人たちの生活にゆとりがあって、性格が優しくて穏やかだからなのか。
「東京の中心って言ってたよね。どの辺り?新宿とか渋谷、それとも上野とか向こう側かな。それともずばり東京駅周辺?」
元繁華街かそれとも国政の中心だった辺りか、どこが東京の真ん中かって人によって考えが違うよね。とやや難しい顔つきになって燦さんが呟く。
「どこにしろ、バスのルート調べれば乗り継ぎがわかると思うから。最速で行ければ一日で着けるんじゃないかな。目的地を教えてくれればあとで調べてあげるよ」
実に親身で心遣いが細やかだ。何故かさっきから無口になってる律がすぐ横で、ちょっとむっとしたような表情を浮かべてるのが微妙に気になるが。
しかし。それに気を遣ったわけではなく、わたしは正直に事実を述べてお兄さんの好意をご辞退申し上げた。
「ええと、実は。…わたしも目的地がどこなのか、はっきり定かではないのです。ただそれは東京の何処か、しかもおそらくは中央というか。中枢部に近い辺りだろうと漠然とわかってるだけで…」
「いやそれ、わかってるとは言わないだろうひとつも」
律が横から容赦なく突っ込む。一方で燦さんの方は動じずおっとりと首を傾げてみせた。
「東京の真ん中のどこか、かぁ…。『中枢部』って言い方からして、一番栄えてるところっていうより元の国家運営施設があった辺りってことかな。だとしたら霞ヶ関とか。国会議事堂周辺とか?」
あんなとこ、下手したら今じゃろくに人も住んでないだろ。そもそもそもどうやって行くんだ?と独りごちてる。そうか、もとは中心だったからって今でも人がごった返してるわけでもないんだな。
バス便の路線図がどっかにあったはず、と呟いて取ってこようと立ち上がる燦さんをわたしは手で制した。
「いえ、いいんです。どのみちバスを使うつもりはないので。ゆっくり歩いて向かいます、時間をかけて探しながら」
ええ?でも、そしたら何日もかかっちゃうよ。もしかしてバスに乗るお金がないってこと?と不審そうに尋ねる笑ちゃん。どうやら用事なんかさっと行って一日で終わらせて、こっちに早く戻って来い。っていうのが彼女の一番言いたいことらしい。
しかしそう簡単には済まされない話なんだよなぁ。と内心で独りごち、わたしはおもむろに首を横に振った。
「ていうか、目的の場所はどうせ隠されてるってわかってるから。いろいろ当たりつけて探りながらじゃないと見つからないと思う。それにそもそも東京の今の状況をこの目で確認するのも任務のうちなんで、あれこれ寄り道したり一箇所に長く滞在したりしつついろんな場所を巡って行きます。短くて数ヶ月、長ければ一年くらいかな…」
「ええぇ、そんなに?それじゃ学校通えないよ。うちに住んでもらって一緒に学校通おうと思ってたのに」
地方は学校ないんでしょ。円花ちゃん、中学生になってみたくないの?とむくれる笑。どうやら何か誤解されてるな、と思わず苦笑いで応じるしかない。
「確かに学校はどんなとこか興味はあるから、一回見学はしてみたいかな。でもどっちにしろわたし、受け入れてもらえないと思う。だいぶ年齢オーバーしてるから」
「え、…そうなの?てかあんた、一体いくつなん?もしかして俺と同じくらい?」
小っちゃいからまじで笑とそんな変わらないかと思ってた。とこれは律。いやそんなわけないだろ、そりゃ身長はだいぶ小柄だが。このバストサイズが目に入らぬとは。
「今は18。年明けに誕生日だから、そしたら19になるかな。集落を出てきたときはまだ16だったけどね」
「げ。…三つも歳上⁈」
律が思いきり顔を強張らせる。すぐに指を折って、いや待て俺は来月16歳の誕生日だから、そこからあんたの誕生日までの間は二つ違いか。まあ何とかギリセーフだな!とわけのわからない安心の仕方をしている。いや、わたしの誕生日の二月以降はまた三歳違いになるけど…。まあいいか、本人がそれで納得いくなら。
隣を見ると、笑ちゃんもお茶の入ったマグカップを手にしたまま真ん丸な目を見張って驚いてる様子。そんなにわたし、子どもっぽく見えてたのか。ここに来るまではそんなに年相応に見えない扱いを受けたことなんてなかったのに。何だか不本意だ。
「…へぇ、びっくり。絶対中学生だと思ってた。上だとしても一年か二年くらいかと…。じゃあ、燦にいよりも歳上じゃん」
「…え。そうなんですか?」
今度はこっちが驚愕する番。嘘だろ、絶対20歳過ぎてるとばっかり。
燦さんは衒わない態度で気さくに笑っていなした。
「一個下なだけなだから、そんなに円花さんと変わらないよ。俺も年明けの一月生まれなんで、今はまだ17です。ほぼまるまる一年違いだね」
「ああ…そうですね。本当だ」
やや上の空でぼんやりと返す。にっこりと穏やかな笑みを浮かべてる燦さんの方を何故か苛立たしげに見てる律の態度が引っかからないこともないが、内心それどころじゃない。
そうかぁ歳下か…。ちょっと、不意を突かれた。絶対大人っぽい頼れるお兄さんだとばっかり思ってたから。
そこでお母さんがそろそろ寝なさい、と明かりを消しに来て団欒はお開きになった。
律は自分の部屋にわたしを寝かせるつもりだったみたいだけど(大昔だったら思春期超えた男女が同じ部屋で寝るのは非常識だったらしいが、現代では普通。血の繋がらない男女で連れ立って旅に出るケースもよくあるし、誰も気に留めない)。笑が円花ちゃんはわたしと寝るの!と頑として言い張り、自分の部屋の方へ引っ張っていく。燦さんはそんなわたしたちを微笑ましく眺めておやすみ。と穏やかな声で挨拶して、ひと足先に自室へと引っ込んでしまった。
お母さんが笑ちゃんに、お客さん用の布団こっちにあるから。取りに来て、と奥の方から声をかける。わたしも運ぶのを手伝わないと。とその後ろについて行こうとしたら背後からぬっと近づいてきた律にぼそりと声をかけられた。
「…残念だったな。泊まるの、兄貴と一緒の部屋じゃなくて」
急に何を言うのか。変なやつだぜ、としか思えなくて振り向いてまじまじとやつを見返す。
「別に。お兄さんの部屋がいいなんて、わたし言ってないじゃん。普通に考えてあんたか笑ちゃんの部屋だと思うよ?わたしをこの家に連れてきたのは律だし」
当然、といった顔つきでそう返されて律は何故か目許を和らげて満更でもない表情になった。けど…とまだ何か引っかかってる様子で、目線を逸らしてごもごもと続ける。
「円花、途中から兄貴の方ばっか見てたからさ。どうでもいいけど、俺は」
でも、よく知らないけど任務あるんだろ?なのにこんな序盤で呑気に恋愛なんかしてていいのかなとちょっと思っただけ。とぶっきらぼうに言い残し、肩をすくめて暗い廊下の奥へと消えていった。
いや恋愛とか、そんなんじゃないし。今日夜になってから知り合った人だし、お互いのことよく知らないし。
風のように立ち去られ、そう弁解する暇も与えられなかった。反対側の廊下の先から、笑の声で円花ちゃん、こっちこっち。と呼びかけられ、急いではぁいと返事してそちらへと向かう。
律に身の覚えのないいちゃもんをつけられるまで、全然そんな意識はなかった。けど万が一側から見てそんな風に見えてたんなら、ちょっと気をつけなきゃいけないかも。
あいつがどういうつもりで任務のことなんかに言及したのかは知らないが、言ってる内容は間違っていない。
わたしはこんなところで誰かと恋に落ちたり、結婚相手なんか探してる場合じゃないんだ。
…そう、わたしはその辺にいる一般的な普通の『旅の子』じゃない。結婚相手を見つけるなんて二の次三の次、それより先にやらなきゃいけないことがある。
深く息を吸い込んで改めて自分にそう言い聞かせた。それから慌てて踵を返し、勝手のわからない初めて滞在する他人の家の中で笑の姿を見失わないようにと、彼女の背中が消えた方へとぱたぱたとスリッパを鳴らして廊下の先へと急いだ。
《第3章へと続く》
というわけで、終末世界の治安を良くする秘訣は『無駄な性欲をなくすこと』でした。
でも、思えば人間以外の生物のほとんどは生殖のためじゃない性交はしないわけだから…。人間だけが目的が愉しみのための行為がほとんど、っていうのはそれだけ生き物として無駄が許されるというか、余裕があるのかなって。その余裕とか暇がなくなってぎりぎりの生活になったら、そういうことに余計なエネルギーは使ってられないよね…。
繁殖するペア以外には欲情しないって、結構住みやすい世の中になると思うんですけどね。あと競争心とか攻撃衝動をうすーくして心を極限まで穏やかにすると、ポケモン世界並みに子どもが旅に出られる平和な社会の出来上がり。というわけです。
子どもだけで出歩いてても安全な世界を成立させるための条件を詰めていくとこんな結論になりました。実現はまあ、無理でしょうけど…。フィクションって都合がよくていいですね。




