第1章 大きな円の中と外
舞台は未来の日本。終末世界というか、アポカリプスものです。
とはいえここでは戦争によって文明が衰退したわけではありません。ていうか現実の日本がこの先、今みたいなペースでじわじわと人口が減り続けてインフラも社会制度も維持できなくなっていくその延長線をずーっと伸ばしていったら。部屋に戦争なんてなくてもこんな風に国として衰退していくんじゃないかな…と想像したらこんな話になりました。
ここまではなかなかいかないだろうけど、現実的にはこういう感じに緩やかに衰えていく方がありそうな気がします。地方は完全に打ち捨てられて自助努力で成立してて、でも東京だけは他と全く違う原理で昔のような都市を維持している。…という設定です。
しばらくの間毎週金曜日に更新する予定です。よろしくお願いします。
古い古いおんぼろの軽トラ。不定期にげふげふ、と咳き込むようなエンジン音が荷台に座ってるわたしのお尻に直に響いてきて閉口する。まるで喉が乾燥し過ぎていがらっぽくなって何度も喉を鳴らすおばあちゃんみたい。
完全に規則正しい小刻みな音が微かにとっとっとっと、ならむしろ心地よく感じそうなんだけどな。
波の音みたいな渓流のせせらぎみたいな、そんな風にことこと揺れるならもしかしたら眠くなってたかもしれない。あと少しでようやく東京、ってとこでまさかのラッキー、思いがけなく捕まえた足だもん。荷台に乗るなり今までの疲れがどっと出てうとうとしてもおかしくなかった。
しかしこれじゃとても寝られないな。ふぅっと気が遠くなったタイミングで大きくがたん、と車体が跳ねるたびに全身びくんとなって起こされてしまう。まあそれは、必ずしもこの軽トラや延々と直し直し使ってるであろうがたがたのタイヤのせいだけじゃなく。この百年間ろくに補修もされていないであろうぼろぼろのアスファルトの路面の状態の問題でもある。
わたしは休息をとるのを早々に諦めて、枕にして寄りかかってた山と積まれた荷物の袋(おそらくお米か小麦)から頭を起こして上半身を乗り出す。仕方ない、車の乗り心地については。
推定製造後百ニ、三十年程度の代物だもん。せいぜい甘めに見積もっても百年超。それ以降だとわたしの知ってる範囲ではもう自動車製造業は日本じゃ死んでるから、それ以上新しい製品のはずない。外国からの輸入も遥か前に途切れた。
とっとっとっ、と走る速度もゆったり。でも歩くよりは全然早いからそれは気にならない。
こんながたぴしの軽トラックでも都市部から離れるとまじで見かけることすらない貴重品だ。百年以上昔のものを直し直ししてごまかしつつ使ってるから単純にもう弾数がないのと。あとは海外からの石油とかの輸入ってのも途絶えてるから、まず走らせるための燃料がない。
わたしは自分たちの他に一台も車が走ってない広々とした元国道と、その両脇にそそり立って居並ぶ半分以上廃墟のビルをぐるりと頭を巡らせて見上げた。
現代の日本に生きるわたしたちにとっての常識。
ご存知世界は衰退した。ほぼ百年前が文明のピーク、あとはおそらく全世界的にじわじわと長年かけて下り坂。インフラも国家も機能しなくなり、人口も激減していった。
今は少なくなった人類が百年前の遺跡や文明の残滓をちびりちびりと消費して、何とか暮らしを保ってるのが精一杯。大昔のような無駄な元気と有り余るようなエネルギーはこの列島の誰にも、どこにも残っていないのだ。
ついさっき親切にもわたしをピックアップしてくれた初対面のおじさんが、運転席の窓から頭を突き出して大声でわたしに話しかけてきた。運転中に危ない、とか言うほどスピードも出てないし対向車もない。何より取り締まりをする警察とかいう存在はとうの昔に維持できなくなって消えてしまってる。
「…おーい、お嬢ちゃん。もうすぐ多摩川だよ。ほら、この道の突き当たり」
「おお。…ついにですね」
身を乗り出して応じるわたしの声も弾む。
行く手を覗き込むと、なだらかに僅かにこの先の道路が上り坂になっているようだ。正面の遠い先に信号の柱が突っ立っているが、もちろん点灯はしてない。ただの前文明の残骸だ。
あともう少し、と思うとさすがにちょっと焦れったい。荷台の上に立ち、何かを詰めた木箱の上に足を載せて運転席の上の屋根に両腕を置いてその上に顎をちょこんと預けた。スピード出てたり天井の低い高架の下を通るときには危ないんだろうけど、この速度なら事故なんか起きようもないし。
途端に正面からの向かい風が吹きつけて前髪がばさっと跳ね上がり、わたしの額をむき出しにする。
眼球を直撃する風の温度に僅かに秋の気配。もっともじわじわと進んだ地球温暖化のせいで、そろそろ11月とはいえど前文明末期の頃の夏の終わりくらいの気温でしかない。まだ半袖でもちょっと動くと汗が滲んでくるくらいには暑い。
「あ。…見えてきた、川」
広ーい!と思わず声を張り上げるわたしに、下の運転席からそうだろ、そうだろ。と何故か我がことのように自慢げにおじさんが相槌を打つのが聞こえてきた。
「この辺じゃ一番川幅広いからね、ここ。お嬢ちゃん、長野とかあっちから来たんだっけ。地元じゃこのくらい広い川ある?途中で相模川渡って来たんだったら、あそこもかなり広いって聞くけど」
「ああ、はい。ありますよ。わたしの住んでた山の中じゃさすがにここまでのはないけど…」
途中で川沿いに下ってきた道筋もあったから。千曲川とか、そりゃすごかったな。あんな広々とした開けた川って生まれて初めて見た。わたしの生まれた集落のあたりじゃ、川と言えば普通に渓流だったから。
「確かに相模川も広かったです。…でも、ここも。いい景色ですね。てか、河川敷が広い…」
流れの幅というよりそっちがインパクトあるな。全然ただの空き地じゃなくほぼ隅々までみっちりと整地されて、畑として活用されてるのがある意味都会って感じ。
「道路越えたこっち側の河岸も畑になってるけど。河川敷のはまあ、水やりの効率とかはいいんでしょうが、増水したとき怖くないですか。あっという間に上まで水が来ちゃうんじゃ?」
突き当たりのT字路で右折。見ればそっち側に大きな橋がある。橋に沿ってやや高い位置に古い鉄橋。ということは、橋の先にあるあの高層ビルの辺りが駅か。当然電車は走ってないけど。
温暖化のおかげで気温は一年中ほどほどに高いから、今の時季でも畑一面青々として実り具合は良さそう。けど台風が来て水位が上がっただけで全部やられちゃいそうだなぁ、と考えて思わずそう口にするとおじさんはまあね。と何でもないような声で平然と答えた。
「そうね、一年に一度か二度は増水で持ってかれるみたいだよ。でもまあそしたらまた一から作り直せばいいじゃん?作物が実るまでそんなに時間かかるわけでもないし」
声を張り上げてはいるが、それは荷台にいるわたしに届くようにってだけでテンションは変わらない。言ってる内容はわかるけど、やっぱり都会特有の現象だな。と感心してわたしは呟いた。
「平地は気温高いから、二毛作とか三毛作なんだっけか…。そしたら流されたらまた作ればいいってなるのも納得。山地はね、そうはいかないから」
ここまで通ってきた土地でもここまで河川敷をみっちり畑にしてはいなかった。多分東京近辺よりは農地にする土地が余ってるからかも。
もっとも旅の経路の全てがど田舎ってわけじゃなく、普通に元はそれなりに栄えてた街の跡地もいくつも見てきた。けどそういう土地でも、アスファルトやコンクリートで固められてたりビルや住宅が建ってたと思しき場所も容赦なく剥がされてとっくの昔に畑や田んぼにされていた。
まあそれはそうで、無理ないというか。百年前のビルやマンションや住宅、まだ使えるからって全部取っといてもしょうがないんだよね。もうそこに住むにも、そんなに人口残ってないわけで(逆に言うと大昔はこの建物の跡地にもみっちり人が入ってたの?と改めて考えるとくらくらと気が遠くなる。どんだけ人口いたんだ、昔の日本て…)。
あと昔の建物は単純に使い勝手が悪いのもある。特に商業ビルなんかは、電気ありきの構造なので(現代はインフラ壊滅してるから、当然電気もガスもない)。
今見える範囲で確認するに、川のこっち側(つまり、神奈川県サイド)はやっぱりところどころ元の市街地を壊して農地に転換されてる場所が結構あるが。ぱっと見川の向こう岸の方では今どき珍しいことに地べたが見当たらない。
「東京側は畑ないんですね。普通どこでも、川べりは水を引ける絶好の土地だから。元は何が建っててもぶっ壊されて更地になって、農地になってるのが当たり前なのに」
まあここがもと駅前だからなのかな?あんなに高く聳え立ってる高層ビル、上の方はさすがに使えてないだろうけど。それでもこの規模の街が見かけ上そのまま残されてるってことは今でもそれなりに人が住みついてるんだろうし。
「住宅やオフィスなんて、これまで通ってきたどの土地でもよほど状態が良くなきゃただ同然で価値なんてほぼなかったけど。東京はやっぱそうじゃないのかな。畑にするよりはそのままにして何かに使う用途が別にあるってことなんでしょうか?」
そう考えるともともと何の建物もなかったであろう河川敷を流されるの覚悟の上で畑として活用するのも納得。作物は植え直せばいいけど、あの規模の建物を建て直すのはもう今の技術じゃ絶対に無理だもんね。
そしたら駅前から離れたとこや、ここから見えない裏側の方に農地があるのかな?と目を凝らすわたしに運転席のおじさんはのんびりした口調で教えてくれた。
「いやぁ、東京の連中は畑なんて大してやってないと思うよ。こうやって外に住んでる俺たちが野菜や米や肉だの魚だの、どんどん運び込んで来るからね。それで大体回ってるからあえて作る必要なんかないんじゃないの」
俺だけじゃなく、入れ替わり立ち替わりいろんな業者がせっせと食糧を持ち込んでるよ。とこともなげに言われてへぇ?と思わず首を傾げるわたし。
「そうなの?どこでも多少の物々交換はあるけど、食べ物の自給自足は当たり前なのにね。でもおじさん、せっかく作った作物を東京のためにわざわざ運んできてまでこんなにたくさん分けてあげて。代わりに何もらうの?労働で返してもらうとか?」
貴重な燃料を使って手をかけた作物を運搬してくるだけでも大変なんだから、帰りは出稼ぎの人たちを乗せて農地まで戻るのか。田畑は人手はいくらあってもいいから、そういうお返しかな。東京なら余ってる労働力はいっぱいありそう。
おじさんはわたしの世間知らずな発想を面白がる様子であはは、と豪快に笑った。
「お嬢ちゃん、やっぱ東京のことなんも知らないんだな。まあ仕方ないよね、生まれて初めてここまではるばる山奥から来たんだもんな。都会はね、食糧と交換に出すものなんていくらでもあるんだよ」
へぇ。
「何だろ。…この世で一番重要なものって食べ物と人手だと思ってた。あとはまあ、有り合わせで工夫して何とかなるからなぁ…」
「はは、地方の子はさすがだね。工夫で大体何とかなるなんて、逞しいや。考え方が」
俺らなんか足りないもんがあると、東京行ってもらってくればいいや。とか安易に考える癖ついちゃってるからなぁ。と自嘲するおじさん。ふぅん、なるほど。都会じゃなきゃ手に入らない物品が何かといろいろあるわけだ。
「まあそうですよねぇ、こんなに東京まですぐ来られる場所に住んでるなら。しかも車ありだし…、お。っと」
道を左折して高架と並行してる橋をそろそろと渡る。見るからに古い造りで、あちこちがたぴしとひびが入ったりもろけて穴なんかも空いてるし。
「…結構揺れるね!大丈夫、この橋?この車の重みでいきなり崩壊したりしない?」
思わず声を張り上げて確認すると、おじさんは運転席の開いた窓から聞こえるくらい大きな声でその懸念を笑い飛ばしてきた。
「いやいや、まさか!俺がガキの頃から何百回ここを渡ったと思ってんの。今さら崩れたりしないよ。百何十年もずっと大丈夫だったんだから。きっと今日も大丈夫」
すいません、その回答。何ひとつとして論理的じゃないです…。
昨日崩れなかったから今日も平気、って何の根拠もなさすぎる。逆はわかるけどね。昨日崩れたから今日も崩れてる。いやそうなったら都内と神奈川は以後寸断されるのかな。ここが駄目になったら行き来できなくなるの?
遠回りして別の橋を渡るしかない。それは仕方ないとは思うけど、入っていくこっち側だけじゃなくて。東京側も大変だよね?食糧の補給とか、かなりこのぼろ橋に依存してない?
ふとそう思い当たったら、とりあえず確認してみる。てか、集落のばばさまたちが言ってたように現代でも東京がきちんと『護られてる』土地なんだとしたら。この橋みたいな外部との接点になってる要所、何かの細工が施されててもおかしくないと思うんだよね。
運転中のおじさんは絶対にこちらを振り向かないってわかってるし、角度的にも視界に入らないだろう。それにどうせ、見てもわたしが何してるかわかるわけない。わかったら同業者だ。それはそれですごいというか、新鮮な発見になるけど。
とりあえず、『観る』だけなら大したことない。ちゃっちゃと終わる。胸の前に片手を寄せて簡単に印を結び、口の中で短く文言を唱えてじっと集中した。…おお。
すごい。思わずちょっと感動した。わたしは目を伏せたまま、しみじみと橋の状態を確認しつつおじさんに請け合った。
「うん、確かに。…大丈夫そうです、この橋。あと百年くらい保つかも」
「いや…、百年は無理じゃないか?さすがに。その辺とか、見るからにぼろぼろだよ?」
急に自信たっぷりに断言されて怪訝そうなおじさん。まあ、そりゃそういう反応しかないよね。
でも、そういう物理的な問題じゃないんだよね。普通の人には見えない術というか。特別な加護がかかってる。
やっぱりそれだけここが東京都内と外部との重点地域っていうか、要衝ってことなのかな。遠くに見えてるあっちの自動車専用っぽい道路の方も近づいてみれば同じような術式がかけられてるのかも。面白いなぁ、そういう視点で見てみると。
実際にこうして現地に来てみないとこれはわからない。さすが東京、ここまで出くわしたちょっと小規模な地方都市とはこういうとこが全然違う。
きちんとした術で保護されてる町も村も、うちの集落を出て以来全く見る機会なかったから。こういう伝統は本当に日本全体で廃れちゃったんだなあと実感しつつここまで来たから、感動もひとしおだ。
ばばさまたちが言う通り、東京にはやはり陰陽の道に通じた集団が今でも残ってるっていう話に信憑性が増してきた。
やっぱりここまで頑張って辿り着いたのは無駄じゃなかったじゃん!…と、旅路の途上でぽつりぽつりと脱落していった他の二人の仲間の顔が脳裏をよぎり。いや、まあそれぞれあの土地で幸せになっててくれれば。それはそれで全然構わないんだけどね、わたしとしては。
それにしても。と印を結びつつ目を細めてさらに観察しながら、つくづくと感じ入る。ざっと見た感じ、わたしたちが使う術式とだいぶ違うんだな。ずいぶん大昔、まだ日本がぶいぶいに言わしてた頃に系統が分かれたらしいから。継がれてきたものもお互いにずいぶん変化してきたってことか。
と、すっかりそっちに気を取られているわたしの方におじさんが注意を促してよこした。
「…お。取引相手がもう来て待機してる。お嬢ちゃん、俺はそこまでだから。もっと先に行きたければ、ほら。あそこに立ってるあの子に頼むといいよ」
彼は確か生粋の東京っ子だったし、この川よりもっと奥の方に住んでるはずだから。東京の中心まで行くつもりならそこまであの車で連れてってもらいなとの台詞に、ようやく頭のスイッチを切り替えて橋のふもとのさらに先まで目を凝らしてみた。
…ぱっと見の第一印象は。あれ、ずいぶん背の高い男の人だな。ってちょっとした驚き。
細くてひょろっとしてるからそう見えるのかな。頭が小さいからバランス的に長身に見えてるだけ?彼の周りに比較対象するものがあまりないから判然としない。
だけど、よく見ればその子が立ってる道路の脇にあるガードレール。あれ、この橋の上に並んでるのと同じ高さのはずだけど。その比較で見てもやっぱり高いような…。うーん、わからん。道もなだらかに上下してるし。
とてとて、とゆっくり近づくこちらの軽トラに向こうも気づいた。運転手のおじさんにここだよ。と合図を送るように片手を挙げてみせた、そのとき。
「…あれ」
おじさんが不審げに呟いたと思った次の瞬間。がったん、と車体が大きく揺れてぴたりとその場で軽トラは停車した。
ん?エンストした?と独りごちながらしきりにあちこちスイッチをいじってるのか。かちかち、と何度も運転席から音が響くけどびくともしない。何かトラブルが起きたと察したようで、先ほどの背の高い男の子がこちらに視線を据えたまま橋に足を踏み入れて来た。
「どうしました?もしかして故障した、そのトラック?」
「うーん…、いや。昨日点検したばっかりだったんだけど」
困るなぁ、こんなところで立ち往生しちゃうと。ここに放って帰るわけにもいかないし…と途方に暮れた様子であれこれ試してる物音。
わたしはそれより気になることがある。急いで荷台の縁に手をかけて飛び降りると、こっちに近寄ってきてた男の子がわ。とびっくりしたように軽く身を引いた。
どうやら角度的に荷台に人がいるのはその位置から見えてなかったらしい。驚かせたのは悪かったと思ったけど、今はそれより優先すべきことがある。
ポケットに手を突っ込み、石を取り出した。ほんの少しだけど柔らかいのでアスファルトやコンクリの面に線が引ける。そういう石は咄嗟のときにいつでもどこでも手に入るとは限らないので、手頃なやつを常に持ち歩くようにしているのだ。
わたしは車の前に出て、その場に屈んで膝をついた。もう橋の終わりがすぐそこまで来てたのがわかる。まあ、そりゃそうだ。ここが境界だからこそ起きた事象だから。
背後からおじさんが心配そうに声をかけてくる。
「お嬢ちゃん、そこにいると危ない。もし急にエンジンかかったら轢いちゃうよ。脇によけて」
「うん、でも。…とりあえずエンジンかけないで待ってて、そのまま。てか多分それ、故障じゃないから」
「え?何でそんなことわかんの。あんた、車に詳しいの?」
思いの外近くから声がしてびびった。さっきの少年が、さらにずんずんと寄ってきてわたしの傍らで上から手許を覗き込んでいるらしい。
わたしはそっちに顔を向ける余裕もなく、俯いて出来るだけ真円に近い丸をぐるりと描きながら上の空で答える。
「いえあの。…そういうメカニックな原因じゃないと思うんで。ちょっと、すいません。…集中」
させろ。と言いかけたところで言葉を切る。まじで会話してると気が散る。わたしは気持ちを切り替え、正確な陣を描くことだけを考えた。
そんなに難しい術式じゃない。大した術じゃないし、わたしが使える中でほぼ一番簡単なやつ。
だけどそもそも久々だからな、こういうの。ここまで来るまでの間、結界を解く必要がある箇所に本当に全然出くわさなかったから…。
かっかっ、と硬いアスファルトに石で線を引く音が橋の上に響く。…よし、完成。
「…ふぅ」
石を再びポケットに放り込み、ひと息ついて腕で額の汗を拭う。ここは陽当たりが良すぎて少々暑い、とぐるりと周囲を見上げたところでさっきの男の子のみならずおじさんも車から降りてきてわたしの背後から興味津々で覗き込んでるのにようやく気づいた。
「…驚きだねぇ。何なの、それ。おまじないか何か?」
おじさんはこの手の陣を見たことがないらしい。まあ普通か、その方が。生活していく上で特に必要もなかっただろうし。
けどもしもこれを知ってたらあなたも『内側』で暮らせてたかもしれないよ。そう考えると全く必要ない、無駄な知識とも言い切れない部分はある。この人が東京の内側で暮らしたいと願ったことがこれまで一回でもあるかどうか知らないが。
「…呪術?」
手と膝をばんばんと払って立ち上がったわたしに、横に立ってた男の子が自信なさそうな頼りなげな声で呟く。別に何か知識や経験があるわけじゃなく、フィクションで見たことあるけど…みたいな反応だ。
「さあ。…いや、呪術がどういうものかわたしは知らないけど。まあ日本古来からあるちょっとした生活の知恵みたいなものですよ。…すいません、運転手さん。多分これでエンジンかかると思います」
言ってから気づいて慌てて橋の歩道側に寄り、試してみて。と呼びかける。
半信半疑丸出しの態度で鍵に手をかけてかち、と回すおじさん。途端にぶるんと車体が揺らいでエンジン音が鳴り、おお。と二人がほぼ同時に感嘆の声を上げた。
「すご。…何なのこれ。魔法?」
「てか、そもそも最初の故障は何だったんだろ。エンジンそのものに問題はなかったってことなのかなぁ」
そのまま車をゆるゆると走らせて橋を渡り切るおじさん。目的地はすぐそこなので、わたしと少年は特に申し合わせたわけでもなく並んでそのあとについて歩く。
「そうですね。…ちょっとした意地悪というか。よそ者に対しての警戒みたいなもんですよ」
だから、その軽トラで今後も行き来して全然大丈夫ですよ。と親切顔でアドバイスをつけ加えるわたし。
一方で、実はわたしが車から降りた時点で何もしなくても車はほどなくして動いた可能性がある。という事実については知らないふりをする。
結界がとりあえず本気で弾こうとしたのは異物であるわたしの方なので。これまで何度も都内の土地に立ち入ったことのあるおじさんと軽トラに対しては、特別警戒心を抱くいわれもないはずだ。
だから、荷台にわたしを乗せてさえいなければそもそもこんなトラブルは起こるわけなかったんだよなぁ…。そう考えるとこんなにめちゃくちゃ感謝されるのは内心で片腹痛いが。まあ説明もめんどいし、ここは黙っとこ。
「いやぁお嬢ちゃん、すごいねぇ。どういう理屈かはわかんないけど目の前で見ちゃうと信じる他ないよね。こんな魔法みたいな車の直し方あったんだなぁ」
軽トラを高架下にある少年のトラックに寄せて停め、二人で手早くほいほいと積荷を積み替えながらご機嫌なおじさんはしきりにわたしを褒めそやす。
ただ突っ立ってるのも手持ち無沙汰なのでわたしもできるだけ軽めの荷を選んで積み替えを手伝いつつごもごもと呟いてその称賛をごまかした。
「や、たまたまです。…これはほら、何か上手くいかないときに駄目元で試しにやってみるやつ。迷信的な、おまじないっぽいもんですよ、はは」
「やっぱりただのおまじないなの?それが偶然効いたってわけ?」
背の高い男の子も会話に入ってくる。彼は彼でおじさんの軽トラの荷を下ろして空いた荷台に、自分のトラックの積荷をひょいひょいと積み替えてる。割と軽そうに見えるけど中身何だろ。
てか。と、おじさんによっこらしょ、と木箱に入った胡瓜や茄子などの野菜を手渡しながらこそっと考える。…やっぱ都会ってすごいな。あの人が軽トラに積み込んでる自分で持って来た荷物。見たとこほとんどが紙製の箱入り、あれって噂に聞く『段ボール箱』じゃね?
当たり前だけど今のこのご時世、使い捨てなどという概念は『ない』。何でも大切に繰り返し、擦り切れて穴が空くまで使い倒す。
そういう意味で今どき紙の箱を使うなんて、ちょっとあり得ないほど贅沢だ。繰り返し使うったって、せいぜい三、四年くらいじゃない?木の箱に較べたら全然保たない。軽くて便利なのは間違いないけど、丈夫で長持ちが正義な世の中だから。
「うーん…。まあ、そんなとこです。こう、装置の調子が悪いときにね、軽く蹴っ飛ばすみたいな」
「はは。実際に蹴ったらかえって悪くなりそう。電化製品ならともかく」
謎の男子はわたしの適当なごまかしを遠慮なく笑い飛ばした。まあ、口から出まかせなんで。笑われてもしょうがないのは認める。わたしだって動き悪くなった水車だの織り機だの、蹴ったり叩いたりして直したりしないわ。
それより電化製品って何だ。いや何なのか知識はあるよ、わたしだって大昔の小説だの漫画だのは普通に読むし。
…ああ、古いTVを叩くと直るみたいなギャグ漫画のネタはそういえばあるな。そういう古典的なイメージで言ってんのかと思えば納得がいく。
今の時代、現役の電化製品なんてどこいってももう現存してるわけないもんな。少なくともちゃんと動いてる本物はほぼ見たことない。使えなくなったまま物置にしまわれたり空き家に放置されてるのはよく見るけど。
発電機が今でも稼働してるところにここまでの旅の中で何回か出くわしたけど、どれも大きな工場だった。燃料が貴重すぎて一般家庭で電気を使うような余裕はどこでもないのだ。
けど、もしかしたら東京では違うのかな。
まだ何度も使ってなさそうな、全く潰れてもよれてもいない段ボール箱が積み上がっていく様子を見ながら考える。これまで通って来た町や村とは違う。想像を超えて豊かな都市なのかもしれない、と朧げな予感を目の前の積荷やその荷主の気軽で構えない態度からうっすらと感じ始めたわたし。
「おじさん。…その段ボール箱の中身って何?」
作業の隙を見てこっそり軽トラのおじさんに尋ねてみた。いや、別にあの少年が答えられないようなやばいものが入ってるとは考えてないけどね?
でも思わず出ちゃう反応で田舎者丸出しだなぁ、と苦笑されるのはちょっと嫌。このおじさんなら少なくとも外側の住人だし、わたしみたいな地方人がどんなリアクションしても理解はしてくれるはず。
「あ、これ。…見る?」
本当に大したことない、とばかりにこだわりのない表情で箱の一つをあっさりぱかんと開けて見せてくれるおじさん。覗き込んでわたしは、思わず弾んだ声を上げてしまった。
「わ。…歯ブラシだ!新品、いいなぁ」
「石鹸とタオルもあるよ。あとは服とか針と糸とか裁縫用具、鍋釜とかの調理用具もあるね」
日用品の数々だ。わたしは目を輝かせて段ボール箱のいくつかをぱかぱかと開けて調べてみた。
「うわ、本当だ。…あ、すごい。新しい鋏がある。ランプもあるな、羨ましい。わたしの、親の代からのだから。最近調子悪いんだよなぁ…」
「だったら一個持ってく?別にいいよ、ここ手伝ってくれたお礼にさ」
とおじさんは愛想よく言ってからああ…とちょっと思いとどまるような声を漏らした。
「でも、このあと東京でしばらく過ごすんだろ?そしたら他のものにした方がいいかも。ランプは言うほど使わないかもしれないよ、こっちじゃ」
「え?そうなの?」
わたしは新品のランプを手にしたままきょとんとなった。いや、夜は明かりないとどうしようもないでしょ。ランプ必要ないとかいうことある?
消耗品だし、邪魔になるもんじゃないから。と言って取り出した歯ブラシと歯磨き粉とタオルをわたしに押しつけ、おじさんは軽トラの運転席に乗り込んだ。
出がけに窓から顔を出し、わたしの隣に立っている背の高い少年に愛想よく頼み込む。
「じゃ、今回はこれで。どうもありがとね。あと、悪いけどその子、もう少し東京の内側まで連れてってやってくんないかな。あんたの行くとこまででいいからさ、頼むよ」
「え。…この子、おじさんの身内とか。近所の子じゃないの?」
置いてっちゃっていいの?とそれまでのほほんと突っ立ってわたしたちを眺めてたのが急に焦り出す。
「うん、さっき知り合ったばかりの旅の子だよ。東京の中心まで行きたいんだってさ。お嬢ちゃん、俺はここまでだからね。楽しい旅になるように祈ってるよ」
にこにことそれだけ言い置いて、あっさりと軽トラを発車させてその場を去っていく。
排ガスで煙たくなった空気の中に、深々と軽トラに頭を下げるわたしと呆然と佇む長身の男の子がぽつんと残された。
「…え、と。そうか…。俺てっきり、あのおっさんの娘さんかと…。一人で来たの、ここまで?」
初対面の人間と二人きりにされて人見知り発動してるんだろう。さっきまでの悠々と他人事だった呑気な態度が吹っ飛んで、何だか意外なほどおたおたしてる。
さっき遠目で見た通り、こうして並ぶと見上げるほど身長が高い。けど間近で見たその顔にはまだあどけなさが残る。背の高さに対してやけに細身なのも身体が出来上がってないせいだろう。せいぜい十五、六歳ってとこか。
相談する大人もいない状態でいきなりよそ者を任されて、そりゃ対応に迷うよなぁ。わたしはさすがにちょっと気の毒になり、彼をフォローする体で告げた。
「別に、大丈夫だよ。適当にあなたの行き先でぽんと降ろしてくれれば。そのトラックでこの荷物運ぶんでしょ?何なら手伝うし」
車に乗せてもらうお礼に出せるものが他にゼロとは言わない。多少の食糧や油なんかはリュックに入ってる。
けど、労働力で賄える部分はそれで極力済ませたい。この先順当に食べ物を入手したり泊まるところを見つけられるかわからないから。切り札は最後まで取っておかないと。
さっさとそれに乗って出発しようぜ。と無言で促してトラックの方を示すけど、彼はまだ信じられない。といった顔つきでためらっている様子。
「え、でも。…女の子が一人旅とか。よくここまで平気だったね。大人は一緒じゃなくて平気なの?」
ん?
「何言ってんの、普通だよ。だって『旅の子』だもん。みんなそうだよ」
保護者つきなんてまじてこれまで聞いたことない。とぽかんとして答える。それを耳にした彼が今度はぽかんとなって首を傾げる番。
「…『旅の子』?」
「へ?もしかして。旅の子知らないの?」
思わず呆れた声を上げてしまったが。そうか、東京の子なんだもんな、とすぐに合点がいった。
外側の地域じゃもうとっくにどこに行っても当たり前の慣習でも、東京でだけは違う。さすがは結界に護られた土地だ。
おそらく根本的に常識が違ってるんだろうな。これは意識のすり合わせに苦労しそうだ、と戸惑いと混乱が露わな目の前のあどけない顔をつくづくと眺めながら。わたしは東京での新生活について密かに内心で覚悟を固めたのだった…。
百年以上前、前文明の末期に何が起きたのか。現代のわたしたちには正確な経緯は伝わっていない。
何の問題もなく文明的生活が成り立っていた頃の資料は豊富に残ってるので、その時代の情報の方が今でも広く知られているくらい。動画の記録を見ることはできないけど(放送や電気がないから)、出版物については後世の人間が何十年かけても読みきれないほどの量があった。
どんなど田舎の片隅でも周囲から隔絶した村でも大抵図書館や学校の図書室は残っていたし、一般家庭でも大抵本や雑誌は山ほど所有されている。今ではそのほとんどはすっかり劣化してぼろぼろだけど、新しい出版物が出てくる可能性はもうないので。わたしの知ってる限り、日本中どこでも書物は大切に保管されて共同体のみんなの間で共有されてる。
問題はそこに記されてる内容はほぼ全て、日本って国がこうなる前の平和で栄えてる状況しか伝えてくれないってことだ。
図書館や元書店、個人の家で目にすることのできる出版物はどれも、豊かでものに満ち溢れていて信じられないほど利便性の高い、まさに文明社会としか言いようのない夢みたいな世の中の話ばかり。それらを読むたびに現代に生きるわたしたちは皆、そんな社会が本当に大昔に存在してたんだなぁ。と否応なく実感させられる。
一つ二つの小説や漫画だけじゃなく、何を読んでも概ね当時はこんな感じだっんだろうな。って表現は共通してるので。
今に残ってる遺跡や痕跡と照らし合わせるに、どうやら百年も前には日本中を電車やバスや自動車が走り回ってて(しかも自家用車が一家に一台!)、人々は直に顔を合わせないでも電子的なネットワークを通じてメッセージや画像を送り合ったりしてた、ようだ。…どこの家にも用途がないまま奥に放り込まれてるあのスマホとかコンピュータとかいうただの四角い板を通して。
さすがに宇宙船で人類が月に行った、とかだとそれはフィクションというか伝説なんじゃ?…と眉唾になるけど。線路跡や電車の駅はこれまでにこの目でいくつも見てきたし、コンピュータだってスマホだって実際に使われてた時代がなかったらあんなにどの家にも雑に残ってるはずない。TVというただの真っ暗なべこべこのパネルもどの民家の廃墟にも公的施設の跡にも放置されてるし、昔はここに動く画像が映ってたってのは本当なんだろうなぁ…と思うと不思議。
どうしてそこまで到達したすごい文明が、ほんの百年ほどであっという間に退行してしまったんだろう。
実はその辺の細かい成り行きは、現代を生きるわたしたちには今ひとつ伝わってないところがある。何もかもが終わってしまったあとには、出版などの形に残る情報の流通は二度と復活しなかったから。
けど、うちの集落の長老たちや旅路の途中で行き合った大人たちの間では、推察を交えた一定の見解が概ね事実として伝承されてるようだ。
かなり年配の者は幼少時、まだ周囲に雑誌や新聞などの脆弱な紙の情報に触れる機会があった。無論数十年前に発行されたものだったけど、それでもまだ印刷が消えたり真っ黒に変色したりほろぼろになって焚き付けに使われて消えることもなく、その辺に打ち捨てられてるものを読むことができたらしい。
そういった古老たちからの断片的な言い伝えの記憶を継ぎはぎし、総合的に解釈すると。
…百年以上前、日本は長く続く恒常的な不況下にあったらしい。人々の収入額は下降線を辿り、人口はじわじわと先細りしていった。
まず最初に限界集落。それから次第に地方の町村部、それから人口の少ない地方都市へと不況の影響は波及していく。
ローカル路線は廃止に、バス網も維持しきれなくなっていった。地方の放送局がどんどん閉鎖されて学校も廃校が相次ぐ。小さな自治体は相次ぐ統廃合を余儀なくされた。
そこまではまあ、普通の不況の範疇だったらしい。雑誌や新聞でも困ったものだとして扱われてはいるけど、どこかまだ自分ことではなかったという。
しかしそこから坂を転げ落ちるのはあっという間だったようだ。
お荷物になった地方を次々と切り捨てていくと、いっときはそれでひと息つけるけど。長い目で見れば結局は本体の体力を削がれる。
日本は税収ががた落ちし、財政が追っ付かなくなってさらに税率を上げ。企業がさらにばたばたと倒産して役所も手が回らなくなり出来ないことがどんどん増えていった。
そこに海外諸国でも経済的破綻が相次ぐ。バブル経済は潰れて不況を何とかしようとさらに戦争が起き、日本は自分たちがそこに巻き込まれないよう国境を一時的なつもりで遮断した。どのみちよその国の戦役に援助するほどの余裕も体力ももうなかったし。
そうこうするうちに他国からの連絡は途絶え、ネットワークは寸断し船や飛行機の行き来もなくなった。日本はエネルギー危機に陥りほぼ全てのインフラを維持できなくなって国家や政府や自治体は休眠状態になった。
…とまあ、大雑把にまとめると数十年かけてじわじわとこんな破綻が進行していったと思われる。うちの集落の長老たるばばさまたちが物心ついた頃にはもう既に日本はこんな状態の国だった。という話なので、詳細な経緯や時系列は定かではない。
けど、現状日本が過去の文明の遺跡の山に埋もれかけたインフラも政府機能も何もない、自給自足と自助努力で成り立ってる廃墟の国土であるのは事実だ。
わたしたちには戸籍もないし、生死を届け出るべきところもない。自然に生まれて自然に死ぬ、それだけの人生だ。
過去の人たちが想像してたアポカリプスってやつに近いのかも。まあ、未だ消息の不明な海外諸国はともかく。日本は特に最終戦争とかに巻き込まれてもいないのにずるずると地力を失って自壊していった、ってのが昔の漫画とかに描かれてた終末とは全然違ってる気もするが。
それと。百年前の人たちがSF的に想像を巡らせてた終末世界とはおそらく根本的な違いがある。
現代って、すごく平和で穏やかなのだ。多分当時の日本人が体感してたよりも、今のわたしたちの世の中の方が断然治安がいいと思う。意外に思われるかもしれないが。
基本的に人間同士の間で起こる犯罪って、今の時代ほとんどない。それにはいろいろ理由があると思うのだが、それは置くとして。
わたしの隣にいるこの名も知らない少年の認識はどうやら、我々東京の外側の人間よりも大昔に生きた文明人たちのそれに近いらしい。
「…信じらんないな。東京の外ではそんなの普通なのか?子どもが成長すると村や町を出ていって、あちこち彷徨ってから根を下ろす別の場所を見つける。…なんて」
あんたのいた土地だけの特殊な慣習じゃないの?と、並んだお客さんに小麦粉の袋とじゃがいもを渡しながら背の高い少年はわたしに疑り深い表情を向けてみせた。
「いや…、そんなことはないけど。途中で他の旅の子たちにも普通にいっぱい遭遇したし…」
困った。
外の常識を知らない人に現状をどう説明したらいいんだろう。と労働力を少しでも提供すべくせっせと手足を動かしながらわたしは言い淀む。
…しかし、想像以上に東京の住人って外の世界のこと何も知らないんだな。まさか旅の子の慣習すら耳にしたことすらないとは。
…ここはさっき荷物を交換した駐車場からさほど離れていない駅前広場。トラックを少しだけ走らせて、そこで車を停めて臨時の食糧交換所を開いてる。おじさんから受け取った穀物や野菜の一部をここで配布するらしい。
「全部をここで売り切っちゃうわけじゃなくて、三カ所くらいを順番に回っていくんだけどね。あんた、そこまで付き合う?最後は俺の家がある辺だから、確かにもうちょっとだけ都心に近いとこで降ろしてあげられるけど」
用賀だから、歩いていくのと大して変わらないけどね。でもどっか信頼できる泊めてくれるとこ紹介できると思うし、何なら俺の家でもいいし。と付け加えたあと慌てた様子でばたばたと手を振る。
「いや、俺んち一人暮らしじゃないから。実家住みなんだ、両親とじいちゃんばあちゃんもいて。妹と弟もいるから、全然二人きりになることなんてないよ。心配しなくても」
「ああ。…いや別に。それは気にならないけど」
わたしと二人になるの嫌なのかな。まあ、よそから突然やってきた気心の知れない相手とだと話題も続かないし気づまりか。と理解を示すわたし。
「もし本当に泊めていただけるならそれはもちろんありがたいけど。お礼に出せるもの特にないから、それじゃ交換手伝わせてもらうよ。何でも言って、指示してもらえばやるから」
ここまでの旅路でもそうやっていろんな人のお世話になってきた。労働はどこでも大体歓迎される。
ここでもそれは例外じゃなかったようだ。少年はぱっと顔を輝かせ、そう?それは助かるけど。と言ってくれて、トラックの荷台を即席の店舗にしての移動販売が始まった。
けど。それは新鮮な驚きと文化的ギャップに満ちた新体験のほんの序章に過ぎなかった。
「あ、じゃあこっちの小麦粉と砂糖は百円で。お米は一袋三百円ね。胡瓜と茄子とトマトはひと山十円、玉葱とじゃがいもは三十円で」
早口に告げられて理解が追いつかない。百円とか三十円とか。大昔のお金の単位?
戸惑ってるわたしの反応を見て、それでも気を遣ったのか助け舟を出してくる少年。
「早口でわかりにくかったか。何かに書いておいた方がいいかな。紙と鉛筆、今日は持ち歩いてなかったから。その辺の誰かに借りようかな…」
「ほぇ。紙と鉛筆があるの?」
思わず目を輝かせる。超貴重品じゃん!
「え。…そうか、地方だと。紙も鉛筆も珍しいの?」
男の子は想定してない部分で受けた。みたいな当惑した様子を見せた。わたしは今言われた金額を忘れないように、としっかり脳内に収めてからその問いに答える。
「鉛筆はなくもないよ。まあ数年に一回くらい行商のおじさんが持ってくるのを、大事に大事に家族全員で使い回して何年も細々と保たせるわけなんだけど。…紙はねぇ、難しいな。手に入っても勿体なくて使えないかも」
ふぅん、と木箱の中から取り出した茄子を小籠の上に均等に盛り付けながら少年は何とも言えない曖昧な表情を見せた。
「そうか、この辺だと普通にあるもんだから。言うほど貴重だって感覚なかったな。再生紙ばっかりだから大昔のノートみたいに品質よくはないけど。あとで分けてあげるよ、家に多分予備あるから」
ときどきは外から野菜持ってきてくれる人たちにも交換で出してるけど。遠くの地方までは届かないのかな、と考え深げに独りごちた。
「まあ、何だかんだ言って東京の外の方が圧倒的に広くて人の住んでる地域も散らばってるから。物資を渡しても隅々まで行き届かないのは仕方ないと思う。…え、と。この『10』って書いてあるのが十円でいいの?じゃがいもはこれ三枚ってこと?」
年配の女性のお客さんがじゃがいもの山と引き換えに渡していったコイン。どっかで何かの機会に見たことあるようなないような茶色い金属でできたそれを、わたしは今ひとつ自信のない態度で彼に見せて確認する。
少年は毎度、と愛想よくお客さんに声をかけてから、わたしの方に頷いてみせてふと表情を改めてしみじみと呟いた。
「本当に東京の外の人って、お金使ってないんだな。さっきのおっさんみたいに農作物持ってくる人たちもいつも生活用品と交換でいいって言って。絶対にお金受け取らないもんな」
やっぱり全然流通してないんだ。不便じゃないのかなー、と不思議そうに首を捻ってる。わたしは受け取った十円コイン(古くて汚い)をしげしげと眺め、肩をすくめてから彼に示された箱の中に放り込んだ。
「だって。こんなの受け取ってもどうしようもないじゃん。食べ物とか服とか道具とか燃料とか、使えるものだったら何でもありがたいけどさ。百円とか十円とか、書いてあるだけのただの金属の玉でしょ?それともこれ溶かして使っていいものなの?」
金属自体は貴重だし、鋳直せば何か使い道あるかも。と考えて何気に訊いたらとんでもないとばかりに大袈裟に目を剥かれた。
「えっ、冗談じゃないよ。これ百年以上前に造られた硬貨だよ?今じゃもう同じレベルの技術は残ってないって、考えたらわかるじゃん。溶かされたら二度と造り直せないんだよ。絶対駄目、そんなこと」
「ふぅん…」
今ひとつ釈然としないながらも、わたしはそこでそれ以上反駁はしなかった。
接客の合間に彼がさらに説明してくれたところによると、大昔は硬貨よりもっと額面の多い紙でできたお札というものがあったらしい。言われてみればわたしも漫画で見たことある。紙に金額を印刷したものなんて、あっという間にすぐぼろぼろになっちゃいそうだけど。
子どものような素朴なわたしの疑問を耳にして、彼は勢い込んで大仰に否定する。
「いや、それが違うんだって。今の時代の製紙技術とはもう全然レベルが違うの。俺小さい頃に古い実物を見たことあるよ。印刷も細かくてすごかったなぁ。あれなら何百回使っても平気ってくらい丈夫だったよ」
「…でも。もうほとんど残ってないんじゃん」
わたしは見たことないし。と次のお客さんから受け取った銀色の百円玉をつまんでつくづくと眺めながら突っ込む。少年はそこはあっさり認めて肩をすぼめた。
「いくら丈夫とはいえ紙なんだからしょうがないでしょ。数十年くらいはともかく、百年は保たないよな」
その後も野菜や穀物は飛ぶように売れ、その広場での配分はすぐになくなった。代わりに手許に残った硬貨の入った箱を手に、彼とわたしはトラックに再び乗り込んで次の売り場へと出発する。
「…ね?そうしてみるとわかるだろ。あんなに重くて嵩張る商品が、たったそれだけのコンパクトな量のものに変わるんだよ。持ち運び楽でしょ。今日このあと二箇所で売り切るけど、全部合わせてもほんのこれっぽっちのお金になるから」
彼曰く、お金の便利なのは持ち運びが楽だからってだけじゃない。
ものの交換価値が等分かどうかに悩む必要もない。例えば小麦粉一袋に見合う肉や魚はどのくらいの量なのか?とか。滅多に買わない新しい毛布に引き合う交換物って何だ?とかいう問題で頭を抱えることもない。とりあえず値をつけて、それだけのお金を出せると考える人が買う。高すぎると思われれば売れ残る。それだけのシンプルな話だ。
「で、手に入ったお金でまた別の必要なものを買う。物々交換よりわかりやすいし合理的だと思うんだよね」
貴重なものだ、と口では言いながら無造作な仕草で十円玉を指先でぴんと弾いてぱし、と手のひらの中におさめた。東京の人たちにとっては本当にあって当たり前な、馴染み深いものであるのは確かなようだ。
「言ってることはわかるけど。…東京の外で使われてないのは確かだと思う。何でだろ、便利なんだろうけどね。普通に使えるものの方がありがたいと思っちゃうからなあ」
わたしが納得したようなしかねるような微妙な口振りで返すと、少年はまあね。と鷹揚に笑って答えた。
「多分、結局は全国に均等に流通するほど硬貨の量が残ってなかったからとかじゃないかな。けど東京の中で使うには充分な量があった、とか」
それと、食べ物や生活物質の足りないところほどお金なんかでワンクッション置いてる余裕ない、現物持ってこい。って風潮だったのかもねとこともなげに付け加えた。…まあ、わかる。それはいかにもありそう。
彼は普段から運転し慣れてるのが一目瞭然の慣れた手つきでためらいなくハンドルを操る。
さっき載せてもらったおじさんの軽トラよりも、エンジンの調子も路面の状態も良さそうだ。さすが東京。…う、お?
「わ。…対向車だ。てかあれ、何?」
バス?
わたしが窓から身を乗り出しかねないくらい上体をぐいと持ち上げ、いきなり大きな声を出したので少年はびくっとなりその拍子にちょっとだけトラックが蛇行した。
「急に大声出すなよ!てか、何?なんか珍しいものあった?」
「いや。初めて見た…。あれ、バスだよね」
まさか、路線バス?
広い見通しのいい道路に出た途端、このトラックの他にも走ってる車がちらほら。本当に東京って車がそんなに珍しくないんだな、燃料はどうしてるんだろう。などと呑気に考えてたわたしの視界に大きな直方体の車両が。窓から乗客が何人も乗ってる姿が望める。
それも一台だけじゃない。車道の線の反対側にも同じようなデザインのバスがやってきて、すれ違ったかと思うとみるみるうちに遠ざかっていく。結構速度出てるな。あれならあっという間に目的地まで行けそう。
「すごいすごい、さすが東京。あんなに何台もバス走ってるなんて…。どうやって維持してるんだろ。燃料は何?」
「何って、普通だよ。このトラックとかと同じ。てかそんなに珍しいの?」
わたしの騒ぎっぷりがさっぱり理解できない。という顔つきで彼は不審げに問い返してきた。
「だって、外から農作物や肉や魚運んでくるのもみんな今日あんたが乗ってきたみたいなトラックだよ。普通に車走ってるんじゃないの?ちょっと都内より数が少ないだけだろ」
「いやぁ、そんなことないよ…。わたしなんか今回の旅で町に降りてくるまで。生まれてこの方自動車自体本物見たことなかったもん」
じゃあどうやって物資を運んでたのか?って言われると。基本は荷車である。人が引く場合も牛や馬が引く場合もある。あ、途中で経過した山あいの村では川の流れを利用して船で運搬してるところもあったなぁ。
「山を降りて麓の平地の町まで来てやっと、軽トラ使ってる工場見たけど。どれも荷物を運ぶためのもので、人が移動するためだけの目的に車使うなんて見たことない。バスなんて最たるものでしょ。あれ、乗客を運ぶためのものだよね?贅沢…」
思わず感嘆してるわたしに、彼は手慣れた様子で勝手知ったる道を走らせながら呆れた口調で突っ込んだ。
「いやだって、人間だって移動しなきゃいけないときあるだろ。そりゃ車やバスに乗るよ。てかじゃあ、どっか遠く行かなきゃならない場合どうすんの。歩くの?何日もかけててくてくと」
「え、そりゃそうだよ。みんなそうしてる。言ったでしょ、地方じゃ子どもは旅に出るもんなんだよ。もちろんどこ行くにも徒歩だよ?」
突っ込まれた意味がわからなくてわたしはきょとんとなって事実をそのまま伝える。彼はそれなんだよなぁ、とまだ今ひとつ信じられない顔つきでハンドルを握りつつ首をしきりに捻る。
「それがやっぱりわかんない…。百歩譲ってバスとか乗り合い自動車あるんなら、まだ子どもを旅に出すのはわからなくもないよ。けどまじで、山の中とか人けのない裏道とかを小さい子だけで歩いて移動すんの?泊まる場所はどうしてんの?」
適当な宿屋がないときもあるだろ。と問われてわたしは素直に頷いた。
「そりゃまあ。むしろ旅館とかに泊まる方が稀かな。いっぱいあるよ、方法は。旅の子を専門に受け入れてるユースホステルとか公民館とか、元役場や学校の建物なんかもあったし。そういうのがなければ一般家庭に頼んで、仕事手伝ったりして泊めてもらう。人の住んでないとこでも大抵勝手に使える空き家はあるから入り込んで使わせてもらったりとか…そういう民家もなければ、最悪野宿だね」
そのためにテントも背負ってるし。わたしはと言えば、東京では多分使わないよとここからすぐ外にあるホステルで助言されて渋々そこに置いてきた。
帰りに戻ったら再び引き取るか誰かに持ち去られてたら代わりのをもらう、と一筆入れてきたのだ。まあ、結構重いものだし。本当に使わないのなら身軽になれた方が楽だし、ただ死蔵してるより必要がある人のところに行った方が道具にとってもいい。こういうのはお互い様、天下の回りものだ。
としみじみ別れたばかりの愛用のテントに思いを馳せてたら、少年はそこじゃない部分に衝撃を受けたらしくまた大袈裟な反応を見せた。
「…うえぇ、嘘だろ。保護者も大人も一緒じゃないのに。女の子が野宿とか?」
前方に視線を据えたまま、信じられない。とばかりに悲鳴に似た声を上げてる。何でだよ、意味わからん。
「子どもだけで…ってのが気になるのはもしかして、東京じゃ大人の付き添いがないと遠出させないってこと?まあ、生活に余裕がある土地ならそういうのもあるのかもね」
わたしは移動中の車の中からぐるりとフロントやサイドの窓ガラス越しに周囲の街並みを眺めた。
明らかにさっき川を渡るまで見てきた数々の町や村と違って、断然この土地が豊かなのがわかる。ぱっと見、廃墟や打ち捨てられた用途のない昔の文明の残骸がほとんどない。錆び錆びぼろぼろの信号機や標識とか、折れたり倒れたりしてる電柱が道端に転がってたりとか。
そんなの片付けるのも大変だし手間だから、大抵の場所では誰も気にしないまま放置されてる。でもここでは誰かが不要になったものをちゃんと処分してるのか。廃物がそのままごろごろしてるなんて光景は見られない。
まるでこの百年の衰退期がなかった現役の活きた街みたいだ。いや、活気のある町はここまでの道程でもあったけど。そういう次元じゃなくてなんかこう…、ここだけ終末世界じゃないみたい。
「…これが結界の力か」
「ん?」
わたしのぼそりとした呟きは小声すぎて、エンジン音に紛れて隣の運転席までは届かなかったらしい。
怪訝な顔をされてるのはわかったけど、ただの独り言だからあえて説明する気はない。結界が何かを理解してもらうのも難しいし。
それより車窓の外を流れていく街並みの景色に目と心を奪われて、とても会話どころじゃない。わたしは張りつくようにしてひたすらに窓の外を眺め続けた。
東京にはまるで百年前の文明崩壊なんかなかったかのように、昔通りの世界が冷凍保存されてる。少なくとも当時の本物を知らないわたしの目にはそう見える。
ぴかぴかでこそないけど、古い街がきちんと整備されて余計なものが(そんなに)なく、人々は百年前のお金をやり取りして車を足にして移動してる。そういう土地で暮らしていれば、自ずとその精神と常識も百年前にそこに住んでいた人たちのものと似通ってくる。…のかも。
そこでふと、このまま東京に着く前の経路と同じ感覚で旅を続けても大丈夫なのか?…って疑念が初めて胸をよぎった。
何故なら、ほら。自分の思考に囚われて黙り込んでしまったわたしの横で。
今ハンドルを握りながら興味津々、しきりに尋ねてくる出会って間もないこの少年の問いかけと言ったら。…ちょっと、だいぶ不穏な内容じゃないか?
「思うんだけどさ。…あんたの出身地が何県なのかは知らんけど。ここまでの旅の中で何事もなく済んでたのはもしかしたらただ単に運が良かったってだけなのかもよ?まあ外は人口密度が低いんだろうから、たまたま悪いやつに出くわさないで助かったってことなんだったとしたら、さ。…この先、東京の中では。そう上手くはいかないかもよ?」
《第2章に続く》
ぼろぼろに衰えて電気もガスも水道もない、鉄道もバス網もインターネットもない。地方は明治時代以前の生活レベルなのに、東京は結界に守られて人の出入りを断ち安定した暮らしを維持している…という設定です。
実は同じ世界観の話は以前に書いたことがあり(別のサイトで公開されています。某エ○リスタ)、そちらは地方で生まれ育った少年少女が旅をする話なのですが。そのときは東京がどうなってるのか想像がつかなかったので、主人公たちも上京することは全く思いつきもしませんでした。
書き終わったあとも時折、あの世界で東京はどうなってたのかな。主人公だけじゃなく旅の子たちはみんな東京を目指さなかったけど、それに理由があるとしたらどうだろう?とちらちら考えてたらこの話ができました。
主人公の女の子は地方出身で特殊な術の使い手、対する男の子は地方のことなど考えたこともない生粋の東京生まれの普通の子です。お互いの常識がまったく噛み合わない、そんな二人をどうかよろしくお願いします。




