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再教育(1/5)

1.

「公然の外交問題にはならなかった。むしろドイツ側から謝罪があった。」

 海軍歴史編纂室の一室で、河村は直立不動の姿勢で立っていた。目の前にいるのは室長の竹内中佐。戦傷を理由に閑職についているが、実際は情報部の責任者であり、河村の上司である。

 

 シュミット少将の英国亡命に関して、河村は橘やドイツ大使館の秘書官ベルガーへの影響を考慮し、「少将が英国大使館と個人的に接触し、単独で亡命した」と報告していた。もちろん、狂言暗殺の計画は伏せてある。


「事情を知らない連中が、軍医に警備などさせるから亡命されたんだと笑っている。……まぁ、むしろ好都合だがな。」

 竹内はそう言うと、引き出しから一通の手紙を取り出した。

「お友達の男爵様が、わざわざ嘆願書を送ってくれたぞ。」

 皮肉めいた口調でそう言いながら、竹内は手紙で軽く卓上を叩いた。


「今回の失敗は──まあ、いい。だがな、最近のお前には甘さが目立つ。誘拐未遂のときもそうだった。……これらを総合して協議した結果、今年度いっぱいは海軍省から軍医学校へ異動だ。週一の横須賀勤務は続けていい。進行中の凍傷研究に専念するという理由付けもあるし、外からは警備失敗による軽い左遷に見えるだろう。そして、ここからが肝心だ。」

 竹内は一拍置いて、河村を見据えた。

「当面、情報部の任務は一切入れない。」

 

 ほっとしたような表情を浮かべた河村に、竹内は静かに最後の一言を告げた。

「軍医学校で思想教育を受けろ。……なに、軽いものだ。ちゃんとまた“使える男”になって戻ってこい。」


2.

 河村は、7月1日付で海軍軍医学校の臨床教官に任命された。主な職務は凍傷の研究であったが、整形外科の臨床指導と一部の講義も担当することになっていた。

 辞令を受け取るため、河村は校長室を訪れた。応対したのは軍医少将である校長で、河村が敬礼を終えると、校長はゆっくりと口を開いた。

「……災難だったな。国葬の警備で、担当者が亡命したと聞いた。まさか君が護衛に就いていたとは思わなかったが……ドイツ語が堪能だったから、ということだろう?」

 河村は一瞬、視線を伏せて小さく頷いた。

「若干、懲罰人事にも見えるが、気にすることはない。研究と教育で成果を上げれば、軍医としての道はまだまだ開ける。むしろ、ここからが本番だ。」

 そう言って、校長はにこやかに言葉を続けた。

「ずっとここに残るのも悪くないぞ。後進の育成というのも、軍人として誇るべき任務だからな。」

 そして柔らかい口調で校長はこう付け加えた。


「見たところ元気そうだが、君が任務の失敗で少しショックを受けていると聞いている。うちには顧問として精神科医がいる。面談を受けることもできるが、どうするかね?」

 校長は河村が情報部所属であることも、今回の異動が再教育の一環であることも知らない。

「よろしくお願いします。」

 河村は短く、はっきりと答えた。

「では、私から篠山中佐に声をかけておこう。悩みがあるなら、私に相談してくれても構わん。周囲の雑音は気にせず、職務に励んでくれ。」

 河村はふたたび敬礼をし、校長室を後にした。

 

 河村の席は臨床教官室に置かれていたが、実験の都合上、衛生科にも机が用意されていた。臨床教官室には十数名の教官が席を置いており、河村の隣には外科担当の森本少佐が座っていた。階級は河村と同じである。

「いやぁ、自分の専門は胸部外科でして、整形外科の講義には少し自信がなかったんです。河村少佐が来てくださって、本当に助かりますよ。」

 森本は、これまで整形外科の講義も兼任していたらしく、河村を見ると嬉しそうに挨拶をした。

 

 しばらく世間話を交わした後、河村はふと切り出した。

「ところで、精神科の医師はどなたですか?」 

 その問いに、森本は少し考えてから答えた。

「精神科の講義は、神経内科の村上大尉が兼任しています。ただ……ああ、もしかして顧問の篠山中佐のことをお尋ねですか?あの方はこの教官室にはいません。一階の奥にある顧問室に、ほぼ常駐されています。」

 語尾を濁しつつ、森本は声を落とした。

「……まあ、少々変わった方ですので。」

 

 その口ぶりから、篠山中佐が一種の「特別な存在」として扱われていることが、自然と伝わってきた。


3.

 その日の退勤前、河村は奥に顧問室のある廊下に立っていた。気のせいかもしれないが、七月とは思えぬひんやりとした空気が、廊下の奥から漂ってくるような気がした。挨拶に行くべきかどうか、河村は一瞬迷った。


 そのとき、不意に背後に気配を感じて振り返ると、そこには一匹の黒猫がいた。

「……猫?」

 河村がつぶやいてそっと近づくと、黒猫は「ニャア」と一声鳴いて、窓から身軽に外へ出ていった。

「ああ、誰かと思えば。」

 不意に背後から声がした。気配はまったく感じなかった。


 振り返った河村の目の前にいたのは、痩せて神経質そうな印象の男だった。髪には白いものが混じり、五十手前といったところか。海軍の軍服に白衣を羽織っている。しかし、7月の暑さの中、まるで当たり前のように冬服を着ていた。河村は思わず、その男に「足があるか」を確かめてしまった。


「情報屋になりきれない、中途半端な軍医殿とお聞きしましたが……お噂通りですね。」

 男は値踏みするような視線で河村を見た。


「お茶をご馳走しますよ。どうぞ。」

 男はそう言い残して、奥の顧問室へと静かに姿を消した。

──あれが篠山中佐か。少々どころではないな。

 黙って立ち去るわけにもいかず、河村は小さく息をついてその後を追い、顧問室へと足を踏み入れた。


4.

 篠山の部屋は本と書類で溢れていた。雑然としているが、散らかっているようには感じない──なんとも不思議な空間だった。

「ソファにどうぞ。」

 そう言うと、篠山は河村の好みも聞かず、無言でココアの缶を開け、お湯を注いだ。カップを二つ手に取り、一つを河村の前に置き、自分の分は手に持ったまま向かいに腰掛ける。カップは火傷しそうなほど熱かった。


「熱中症対策ですよ。内側から温めて、自律神経を整えます。……嘘ですが。」

 河村はココアに手をつけず、ただじっとカップを見つめていた。

「おや、ココアはお嫌いでしたか? 私は好きですよ。薬を混ぜるにはちょうどいい。」

 篠山はそう言いながら、自分のココアを口にした。

「さすが元情報屋さん。用心深いですね。ああ、現役でしたっけ?まだ資料を読んでいないので、これから目を通します。ココアを飲むなり、絵本を読むなり、時間を潰していてください。」

 そしてふと笑みを浮かべ、最後に付け加えた。

「……ああ、ココアには何も入っていませんよ。今日は。」

 篠山はテーブルの上に置かれた眼鏡を手に取り、紙の束をめくりはじめた。


 十分が経過し、河村のココアはすでにぬるくなり始めていた。

「分かりました。解決策は、情報部をやめることですね。」

 篠山は穏やかにそう言った。

「それができるなら、ここにはいません。」

 河村は苛立ちを抑えながら、低く返した。

「ええ、分かっています。あなたが有能で、情報将校としてまだ使えると判断されたから、私に話が来たのです。」

 篠山は淡々とした口調を保ちながら、少し声のトーンを落とした。

「しかし、医師と情報部という組み合わせが、そもそも間違っているのです。」


 篠山は書棚から一冊の本を取り出し、静かに開いた。目を閉じて一拍置くと、彼はゆっくりと朗読を始めた。


── 医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイア、ならびにすべての神々と女神たちに誓いを立てる。彼らを証人として、私はこの誓いと契約を果たす。


 それは、ヒポクラテスの誓いであった。


── 私に医学を教えてくれた師を、実の親のように敬う。生活を共にし、必要とあらば財を分け与え、その子を自分の弟子として育てる。他人の子であっても、無償で教えを授ける。


── 私は、己の知識と判断に従って、患者の利益のために医を行う。誰かに頼まれても、有害な薬を与えず、殺す手助けもしない。また、堕胎のための薬を与えることもない。


── 私は清く、正しく、己の技術をもって人生を全うする。切開を要する病に対しては、それを業とする者に任せる。

篠山の声は、まるで祈りのように静かに部屋へと響いていた。


── どの家に入るときも、患者の利益のために赴き、あらゆる悪事や不義から身を遠ざける。不倫や性的な行為を、自由人であれ奴隷であれ、男であれ女であれ、決して行わない。


── また、治療中に見聞きしたこと、あるいはそれ以外でも、外に漏らすべきでない事柄については、決して口外せず、秘密を守る。


── この誓いを忠実に守る限り、私はあらゆる人々から尊敬され、名誉ある医の人生を全うすることができるであろう。


── しかし、もしこれに背くならば、その報いとして、私には正反対の運命が訪れることを願う。


 朗読を終えると、篠山は本を開いたときと同じ所作で、そっと閉じた。


「誰かに頼まれても、有害な薬を与えず、殺す手助けもしない。──はい、あなたは呪われています。無論、私も。」

 そう言うと篠山は、ためらいなくそのページを破り、ばらばらと床に散らした。

ひたすら長い群像劇の開始です!

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