国葬(中編)
7.
一体誰が何のために? 本気で暗殺を企てるなら、噂を流したりはしないだろう。警備を強化して暗殺を阻止? それなら具体的に誰が狙われているかを明かすだろう。……何かから目を逸らすため?
「分からん……」
河村は軍帽を取り、頭を掻いた。今、河村にできることは、万が一暗殺計画が本物で、その標的がシュミットであった場合、暗殺を阻止し少将を護ることだった。──夜の警護は交代要員に任せるとして……河村がさまざまなことを考えながら5階の廊下を歩いていると、脇のドアが開き、橘が顔を出した。
「今から夕飯だけど、一緒に食べるか? 少将閣下が今夜の夕食振る舞うってさ。」
橘は燕尾服を脱ぎ、背広に着替えていた。
「ふざけたこと言わないでください。そばに控えますから。」
河村があきれたように言った。橘に続き、伊達が部屋から出てきた。
「私が払う。日本を貶めるような真似はやめてくれ。」
「でもさ、閣下が奢るって言ってんだぜ? 俺にとったら向かいのハンス兄貴だしさ。」
「とにかく大人しくしておいてくれ。」
伊達は深いため息をついた。河村はシュミットの部屋へ護衛に向かった。
8.
帝国ホテルのレストラン個室では、革張りの豪華な椅子に腰掛けた橘と伊達がシュミットを待っていた。目の前のテーブルクロスには皺ひとつなく、磨き抜かれた銀食器が並んでいた。橘はグラスに入った水を片手にくつろいでいた。
「公務ということを忘れるな。」
伊達が釘を刺したところで、シュミットが個室に入ってきた。背広に軍の略綬を付け、襟には鉤十字のナチ党員バッジが光っている。
「お待たせした。今宵のディナーを楽しもう。」
伊達は立ち上がり一礼し、橘も慌ててグラスを置いた。続いて河村が個室に入り、入り口脇の壁際に直立した。シュミットが河村を手招きした。食器は四人分用意されている。
「ドクトル カワムラもこちらへ。」
「護衛任務中ですので、私はここで。」
河村はきっぱりと答えた。
「座るくらいいいだろう。」
橘がいたずらっぽく誘った。
「橘、余計なことを言うな。」
伊達がたしなめるのを見て、シュミットがもう一度河村を誘った。河村は一瞬ためらったが、一礼して席についた。給仕がシャンパンを各々のグラスに注いだ。
「今宵は国家の枠を超え、語り合おう。プロージット(乾杯)!」
シュミットの言葉に合わせ、四人は軽くグラスを合わせた。澄んだ音が個室に響いた。シュミット、橘、伊達はシャンパンを飲み干し、河村は一口だけ含み、グラスを置いた。
前菜が運ばれてくると、食事が始まった。橘はシュミットと楽しげに思い出話に花を咲かせていた。橘がよく遊びに来ていたため、シュミット家には彼用のレープクーヘン(ジンジャークッキー)が常備されていたことを、懐かしそうに語った。
伊達は相槌を打ちながら、静かに食事を口に運んでいた。河村は目の前の皿にほとんど手をつけず、ひたすら周囲を警戒していた。伊達は任務中ゆえかと察する目で河村を見ていた。
9.
メインディッシュは鹿肉だった。河村は鹿角の山で祖父と共に仕留めた鹿のことを思い出していた。このまま手をつけず下げられても良いのだろうか。そのとき、橘が河村の方を向いて、にやりと笑いながら言った。
「食べないなら俺がもらうぜ?」
そう言ってフォークで肉を一切れ突き刺し、河村に軽く目配せした。
伊達は何も言わずに橘を見ていた。無作法ではあるが、橘が少食なことを知る伊達には、彼が河村のためを思った意図が伝わっていた。シュミットは豪快に笑って言った。
「若い者はそれでいい。ヘル タチバナ、その自由を大切にしろ。自由は失って初めてその重さが分かる。今、祖国では……少し飲みすぎたようだな。」
シュミットは水のグラスに手を伸ばした。
「ヘル ドクトル、実戦経験は?」
話題を変えて、シュミットが肉を切りながら、河村に尋ねた。
「ありません。先の大戦ではまだ若輩でしたし、そもそも軍医ですから。」
シュミットは少し驚いたような目で河村を見て、言った。
「それは意外だな。だったら先輩として一つ忠告しておこう。飯は食えるときに食っておけ。」
河村は少し口の端を上げ、橘とシュミットの配慮に感謝してフォークを手に取った。
デザートはリンゴのコンポートとバニラアイスだった。テーブルに置かれた瞬間、ブランデーとシナモンの香りがふわりと漂った。河村は故郷のリンゴ畑を思い出していた。
フォークでコンポートを切って口に入れると、爽やかな甘味と酸味が広がった。料理人の手で丁寧に仕上げられ、ガラス皿の上で美しく輝くコンポートに河村の手が止まった。
「甘いものは苦手なのか?」
その様子を見たシュミットが尋ねた。
「いえ、好物です。少し故郷を思い出しまして。実家がリンゴ農家でして。」
河村がシュミットの方を向いて答えた。
「それは素晴らしい故郷だな。」
そう言ってシュミットは、デザートとともに運ばれてきた紅茶を飲んだ。視線を橘、伊達、河村へと移した。
「故郷を、祖国を守ることは軍人の職分だ。命じられれば死ねる。しかし、それがもし己の良心に反するものだったらどうする?」
しばしの沈黙の後、河村が静かに口を開いた。
「それでも私は……故郷のリンゴを護ります。」
「よい心がけだな。」
そう返したシュミットの言葉は、どこか寂しげに聞こえた。
10.
夕食を終えた河村は、引き継ぎの申し送りを済ませた後、自宅に帰る予定だった。書類を小脇に抱え、階段を降りると、ロビーで橘が河村を待ち構えていた。
「どうせなら、俺たちの部屋に泊まっていけよ。ソファだけどな。」
河村は立ち止まり、しばし考えた。
「確かにその方が警護はしやすい。お言葉に甘えます。」
河村は宿泊の手続きをフロント係に伝え、着替えを取りに自宅へ戻った後、橘と伊達が宿泊する部屋へと向かった。
河村が到着したとき、深夜に近かったが、橘と伊達はトランプゲームに興じていた。
「来るのが少々遅かったようだな。」
伊達の言葉に河村が詫びようとすると、橘が割って入った。
「河村が来たら勝負を終えるって賭けてたんだ。さっきまで伊達が勝ってたぜ。」
「もう零時を回っている。明日の予定を確認したら、さっさと寝ろ。」
伊達が日程表を広げた。
「午前は海軍省と陸軍省への表敬訪問の後、外務省で次官と昼食。午後は靖国神社を私的に訪問し、帝国ホテルに帰着後、ドイツ大使館の秘書官と国葬に関する打ち合わせ。」
橘は日程表を数秒だけ眺め、さっとベッドに潜り込むと、布団をかぶって「おやすみ」と呟いた。河村は日程表を睨み、真剣な表情でメモを取っていた。
「あまり根を詰めるなよ。」
伊達は河村に声をかけた後、ベッドに向かいかけたが、ふと立ち止まり低く呟いた。
「シュミット少将は、ナチ党の熱心な信奉者には見えんな。」
河村は軽く頷き、日程表を手に廊下へ向かった。
「もう少し確認してから寝ます。おやすみなさい。」
河村も伊達と同様の印象を抱いていた。親ナチに見えないのは意図的に抑えているのか。それとも何か他に理由があるのか。河村は手帳に「少将の動向に注意」と書き記した。




