国葬(前編)
1.
日露戦争の日本海海戦にてバルチック艦隊に歴史的な勝利をおさめた英雄、東郷平八郎元帥が死去したのは、宝塚で『太平洋行進曲』が上演されたのと同じ月の昭和9年5月30日であった。東郷の葬儀は6月5日に国葬として執り行われ、イギリス、アメリカ、ドイツなど海軍関係者を中心とする海外賓客が参列する運びとなった。
6月1日、歴史編纂室の竹内中佐から呼び出しを受けた河村が足を運ぶと、そこには作戦情報課の成田中佐がいた。成田は河村が宝塚で拾ったメモを手に持っていた。
「他に三件、同様のメモが見つかった。いずれも東京宝塚劇場内からだ。無線コードを使っていることから、一般人には内容を悟られず、我々海軍の手に届くよう考えられたものだろう。」
成田は一呼吸おいて、ゆっくりと言った。
「SOGI-ANSATU。状況から見て、葬儀は元帥閣下の国葬だろう。これは警告か、密告か……それともただの悪ふざけか。」
河村はあの夜の宝塚劇場を思い出していた。海軍省協賛の演目と、客席に混じった軍服姿の士官たち。成田が言ったように、海軍へのメッセージと見て間違いないだろう。
「メモの筆跡は同一ですか?」
河村の問いに、成田は静かに頷いた。
「ああ、同じだ。元帥閣下の葬儀で海外の要人が暗殺されるようなことになれば、海軍の、いや、我が国の名誉は激しく毀損される。」
成田は眉間に皺を寄せて河村に言った。
「警護にあたりつつ、不穏な動きがあれば即座に対処するように。貴官の担当はドイツの少将閣下だ。ドイツ語が堪能という理由で抜擢した。」
河村は敬礼した後、警護対象に関する書類を受け取った。
2.
そのころ、東京帝国大学理学部教授で男爵でもある伊達政弘は、外務省からの依頼を受け、ドイツ軍少将ハンス・フォン・シュミットの国葬での随行準備をしていた。外務省の知人を通じて引き受けたこの役目は、ドイツ留学の経験、伊達の学識、男爵の地位を買われたものだった。少将の経歴に関する資料に目を通しながら、伊達はため息をついた。
「親ナチスか……」
ドイツ留学時代に親しかった学者仲間からナチスによるユダヤ人迫害の実態を聞いていた伊達は、前年に政権を握ったナチス党に良い印象を持っていなかった。「私もそろそろ祖国を出ようと考えている」友人からの最後の手紙にはそう記されていた。
「私は自分の役目を淡々とこなすだけでよい。」
伊達は誰に言うでもなく呟いた。日程表に目を通す。少将の到着は明後日の夕方。伊達はそこに記された通訳の名前に目を留めた。
日本側通訳 橘薫
(元ドイツ駐在外交官、橘雅之子爵の次男)
「自分の役目を淡々と……いや、橘がいる限り難しいな。」
伊達はかすかに笑って資料を机に置いた。
3.
6月3日の夕方、伊達は橘と共に横浜港にいた。シュミット少将を出迎えるため伊達も橘も正装として燕尾服を着ていた。
「少将閣下の到着は十六時だ。その前に海軍の警備担当者と合流することになっている。」
伊達が日程表を見ながら橘に言った。貴賓待合室の扉がノックされた。
「海軍からシュミット少将閣下の護衛に参りました。」
ドアの外から聞こえたのは、二人にとって聞き覚えのある声だった。
「おいおい、海軍の護衛って河村か?」
橘が楽しげに笑った。
「橘、今日は仕事だぞ。」
伊達は橘をたしなめたが、「どうぞ」とドアを開け、河村の顔を見た瞬間に思わず笑ってしまった。
「伊達、今日は仕事だぞ。」
橘が伊達の口調を真似て言った。河村は一瞬、事情が飲み込めなかったが、すぐに察して軽く咳払いして、
「本日はよろしくお願いいたします。」
軽く頭を下げた。
「しかし、河村が護衛に来るということは、何かあるのではないか?」
伊達は目を細めて河村を見つめた。
「ドイツ語が堪能だからです。ツェッペリン号のときと同じですよ。」
河村は腕時計をちらりと見て続けた。
「そろそろ少将閣下の乗った船が着きますよ。」
4.
横浜埠頭は雨が降り、湿った空気に包まれていた。その雰囲気とは対照的に、ハンス・フォン・シュミット少将はドイツ軍使節団の代表として、堂々とした態度でタラップを降りてきた。埠頭には海軍の儀仗兵が整列し、遠くで新聞記者がカメラを構えていた。
年齢は五十を過ぎているにもかかわらず、少将の体躯は屈強で鋼のような印象を与えた。短く刈り込まれた金髪にはところどころ銀色の毛が混じっていたが、それが逆に落ち着いた威厳を醸し出していた。その碧眼は鋭い眼光を放ち、顔に刻まれた皺は幾多の戦場を生き抜いた過酷さを物語っている。
シュミットは迎えの面々を見渡し、口を開いた。
「──東郷提督は世界の英雄だった。彼の死は日本にとって大きな損失だ。総統も深い弔意を伝えている。」
橘が流暢に通訳し、伊達が軽く頷いた。シュミットの口元がわずかに綻んだ。
「ヘル タチバナ?(橘君かね?)」
シュミットは橘に近づくと、低く柔らかい声で話しかけた。橘は父とドイツにいたころ、シュミットの向かいの家に住んでおり、今回の通訳としての参加はシュミット自身の要請によるものだった。
「ヤヴォール、ゲネラール(はい、閣下)」
橘がにこやかに応じた。橘は話したい様子だったが、使節団員の手前、静かに礼をして伊達の後ろに下がった。
「伊達政弘、男爵でございます。閣下の随行を仰せつかっております。」
伊達はドイツ語で自己紹介し、シュミットに一礼した。
続いて河村が伊達の背後から一歩前に出て、簡潔にドイツ語で挨拶した。
「河村学、閣下の警護を拝命しております。」
敬礼の後、伊達の背後に下がった。
5.
使節団6人に対し、外務省が用意した車は3台と先導車および後方警護車の合計5台で、このうち最も豪華な専用車がシュミット少将用だった。外務省が手配した熟練の運転手がハンドルを握り、助手席に護衛の河村が、後部座席中央にシュミットを挟んで右側に伊達、左側に橘が乗った。
シュミットは三人の間に漂う雰囲気ですぐに察した。
「君たちは知り合いかね?」
橘が三人を旧知の友人だと説明し、伊達が化学の教授、河村が軍医であることを付け加えた。
「では、ヘル プロフェッソとヘル ドクトル カワムラ……と呼ぼう。」
シュミットの言葉に、橘がくすっと笑って伊達をちらりと見た。
「しかし、ユンガー タチバナ(若い橘)がこんなに立派になるとは。」
シュミットは橘を懐かしそうに眺めた。
6.
車が宿泊先である帝国ホテルに着いたとき、日はすっかり暮れ、フランク・ロイド・ライトが設計した本館が夕闇の中、柔らかな光を放って浮かび上がっていた。ドイツ使節団は、代表であるシュミット少将が5階のスイートに泊まり、副官と随行士官が同フロアの別室に、その他の人員は別階の部屋に割り振られていた。伊達と橘は少将の部屋から3室離れたツインルームに宿泊することになっていた。
帝国ホテルにはドイツの他に、イギリス、フランス、アメリカの使節団も宿泊していたため、海軍は大会議室を借り、そこを護衛部隊の臨時詰所としていた。
使節団を部屋に案内した後、河村が護衛担当者と打ち合わせのため大会議室に向かうと、そこには河村をシュミットの護衛に指名した作戦情報課の成田中佐の姿があった。
成田は河村の姿を見ると、ゆっくりと近づき、すれ違いざまにポケットにメモを滑り込ませた。
河村がメモを見ると、そこには『暗殺の噂が漏れている』と書かれていた。
ちなみに、葬儀のお礼葉書を古本屋で買いました。えへへ。




