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太平洋行進曲

1.

 桜の花が散り、つつじが美しく咲き誇る季節。東京魔術倶楽部で、演劇のチケットを手に何やら考え込む男がいた。海軍少佐、河村学だ。彼が手にしていたのは、東京宝塚劇場のチケットだった。


 レビュウの演目は「太平洋行進曲」。日本海海戦三十周年を記念し、海軍が協賛した作品だった。河村は上司から渡された二枚のチケットを眺めながら、橘か伊達のどちらかが来るのを待っていた。


 先に現れたのは橘だった。河村がチケット見せながら橘を誘う。

「来週の日曜日、宝塚を観に行かないか。」

「その日は暇……」

 橘は言いかけて、ふと何かを思いついたような顔をした。

「いや、法事があるのよ。伊達を誘ってくれ。」


 河村が橘とチェスを指しながら待っていると、伊達が姿を見せた。小雨が降っていたのか、前髪と肩が少し濡れていた。伊達はタオルを借りると、上着を脱ぎ、髪を拭き始めた。河村は拭き終わるのを待ってから声をかけた。


「来週の日曜日、暇なら宝塚を観に行きませんか?」

 伊達は上着の胸ポケットから手帳を取り出し、確認した。

「その日は朝から空いてる。」


 橘がニヤニヤしながら二人に近づき、

「だったら朝から二人で遊べよ。デートの予行演習だと思ってさ。」

 とからかった。

「デートの予行?」

 河村は不思議そうな顔をし、伊達は顔を少し赤らめて目を逸らした。


「よし、東京マスターの橘さんがお前らのデートプランを添削してやるよ。制限時間は三十分だ!」

 調子に乗った橘が二人に紙を渡した。河村はよくわからない顔のまま、伊達は渋々日曜日のプランを立て始めた。


2.

 三十分後、橘が咳払いをしてわざとらしい口調で言った。

「では、伊達教授の案から聞かせてもらおうか。」


 伊達が眼鏡を押し上げてから答えた。

「まず上野駅集合で、東京科学博物館を見学だ。確かこの日は特別講義で人類の進化についての話があったはずだ。」

 伊達が答えた。橘が間髪入れず

「それ、二人の関係が退化するやつよ?」

 とあきれた顔で言った。その後の伊達のプランは、神田で古書店めぐり、銀座の文房具屋で筆記用具を探す、買った本をカフェで読んでから観劇と、どれも地味だった。橘はどうしようもないなという視線を伊達に送り、河村の方を向いた。


「さて、少佐の実力を見せてもらおうか。」

 河村はメモをちらりと見て答えた。


「まずは新宿の高野でプリンを食べ、フルーツサンドを買います。浅草に移動して新しくできた甘味処であんみつを食べ、仲見世で団子を買い、天気が良かったら日比谷公園でランチにサンドイッチと団子を食べて、それから銀座でカフェ巡り……」


 橘は顔をしかめて耳を塞ぎ、

「もうやめてくれ。聞いてるだけで胃が重くなってきた。なんだこれ、食い倒れの訓練か?」 

 と叫んだ。橘は深くため息をつき言った。

「伊達の方がまだマシだな。観劇後の飯はフルコースじゃなく軽いのにしとけよ。」


3.

 日曜日の朝の上野駅。伊達と河村は九時に待ち合わせていたが、河村が八時五十五分に公園側の改札を出たとき、すでに伊達が待っていた。


「お待たせしました。」

 河村は軍帽を脱いで軽く頭を下げた。

「いや、まだ時間前だ。しかし、日曜日に制服とは珍しいな。」

 伊達は河村の姿をじっと見つめた。

「宝塚の公演には軍服で行けと上から言われましてね。」

 河村は照れ笑いを浮かべて頭をかいた。


 二人は科学博物館の常設展示を軽く見た後、特別講演「文明の起点 ― 人を人たらしめた三つの力」を聴講した。講演は、道具、火、言葉の使用が人類に与えた影響をそれぞれ解説する内容だった。


 講演を終えた伊達と河村は、博物館そばのレストランで昼食をとった後、神田の古本屋街を巡り、文房具店に立ち寄った。十五時半に銀座のカフェで休憩する。観劇まであと一時間半あり、有楽町の宝塚劇場は歩いてすぐの距離だ。


 伊達はコーヒーを頼むと、さっき買った『遠野物語』を読み始めた。河村はパンケーキ、プリン、ココアを注文した後、なおもメニューを眺めていた。


 しばらくすると、飲み物が運ばれ、河村はメニューを閉じ、ココアを飲んだ。伊達の読書を邪魔しないよう静かにパンケーキとプリンを食べ終えると、紅茶を追加で頼み、古書店で買った本を取り出して読み始めた。


 本を閉じる音で、河村が顔を上げると、伊達と目が合った。

「鏡花か。」

「ええ、たまには変わったものを読みたくて」河村の手には『海神別荘』があった。

「私にはよく分からない話でしたが……」

 少し間を置いて、河村が続けた。

「自分が海で死んだら、海月になるんだろうなと。つまらない人間ですからね。」

 伊達はわずかに笑い、

「それならば、私も海月だろうな。」

と言って、冷めたコーヒーに口をつけた。


 コーヒーを飲み終えた伊達が「そろそろ行くか。」と河村を促し、二人で宝塚劇場に向かった。開演二十分前に会場に着くと、女性客に混じって、河村と同じ白い軍服姿の海軍士官がちらほら見えた。

「上官の命令で来たんでしょうね。」

 河村はロビーで買ったパンフレットを眺めながら言った。


4.

 一つ目の演目が終わり、いよいよ海軍省協賛の『太平洋行進曲』が始まった。原作は海軍少佐によるもので、作曲は『赤とんぼ』などで知られる山田耕筰だった。


 第一景は、軍曹が新兵の釣床ハンモックを点検する場面から始まる。抜けた新兵が制服を逆さに着て軍曹と軽快にやり合うと、会場からクスクスと笑いが漏れた。伊達が隣の河村をちらっと見ると、困ったような顔をしていた。

「ここまで緩くないですからね?」

 河村が小声でつぶやく。

「分かっているさ。」

 伊達は小さく笑った。


 この調子で第四景まではコメディのような演劇が続く。河村の二つ隣に座る将校は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


 第五景から様相が変わった。上海事件――昭和七年、日本人僧侶の殺害を契機に海軍の陸戦部隊と中国軍が戦闘を行い、多くの死者を出した出来事だ。敵の攻撃を受けた水兵が「もう駄目だ、天皇陛下万歳!」と叫び、仲間が「よくやった、仇は必ず討ってやるからしっかりしろ」と励ます。会場からすすり泣きが聞こえた。苦虫を噛み潰したような顔だった将校も、目を潤ませていた。


 最後の第六景では軍歌が合唱され、艦長役の女優が白い軍服に身を包み、「諸君、今月二十七日は海軍記念日であります。」と教訓的な話で日本海海戦の大勝利を讃えた。劇団員たちの万歳の声が響く中、幕が下りた。


 伊達が隣の河村を見ると、感情のない目で舞台を見つめていたが、伊達の視線に気づき、慌てて困ったような笑顔を浮かべた。


 休憩をはさんで二演目が残っていたが、河村が伊達に声をかけた。

「もう出ませんか?」

 伊達は頷き、ゆっくり立ち上がった。その時、座席の隙間から紙が一枚落ちた。河村はそれをゆっくり拾った。

「伊達さんのですか?」

 伊達が首を振ると、河村は紙の文字を一瞥し、そっとポケットにしまって歩き始めた。


「何か書いてあったのか?」

 伊達が尋ねると、河村は笑った。

「大したことは何も。」


5.

 伊達と河村は劇場近くの小さなカフェレストランに入った。橘のアドバイス通り、観劇後の食事を軽く済ませるためだった。

「途中退場したからまだ六時半ですね。フルコースかカフェ巡りでも良かったかもしれないな。」

 河村はメニューをめくりながら言った。いろいろ迷った末、二人とも看板のビーフシチューとサラダのセットを注文した。


 店員が去った後、河村が切り出した。

「今日の演劇、どう思いましたか?」

「そうだな……」

 伊達は眼鏡を外し、ハンカチで埃を拭った。河村の立場を考えて、言葉を選んでいるようだった。

「俺は……怖かった。」

 河村がぽつりと漏らした。

 伊達が河村をじっと見つめた。

「娯楽の中にうまく混ぜていた。」

 河村がつぶやいた。それから少し下を向いて考え、河村は伊達をじっと見つめて聞いた。


「伊達さん、朝の講演の話ですが、我々は道具、火、言葉を手に入れた代わりに何を失ったんだろう?」

「難しい質問だな。」

 伊達は学生から良い質問を受けた教師のような顔をした。

「はっきりした答えが出る問題じゃないが……静寂かな。だが、我々は手に入れたものを使わない選択もできる。それが人間だ。」

「今日、伊達さんを誘ってよかったです。」

 河村が小さく笑った。自然な笑顔だった。


 レストランを出ると、河村は伊達に軽く頭を下げた。

「今日はありがとうございました。」

「倶楽部には行かないのか?」

 伊達が尋ねる。

「明日が早いので、今日は帰ります。」

 河村は答えた。


 伊達と別れ、河村は海軍省に向かって歩き始めた。観なかった最後の演目はトウランドット姫。河村はポケットに手を入れて、劇場で拾った紙を取り出した。


Notify S.O. to gather intel: Santiago Oslo Gallipoli Italia — Amsterdam New York Santiago Amsterdam Tripoli Upsala. No delays.


「姫の謎よりも深いな……」河村のつぶやきは東京の夜に吸い込まれて消えた。

この時代の宝塚に「橘薫」ってジェンヌさんが居たようです。何組だったかな?

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