神社姫
奈良旅行が終わって数日後、伊達政弘は東京魔術倶楽部のソファで論文を読んでいた。静かな部屋よりも少し雑音がある方が集中できることも…と伊達が思った瞬間、倶楽部の扉が勢いよく開き橘薫が入ってきた。
「伊達、喋る魚を見に行かないか!」
大声を出して手を振りながらソファに向かってくる。伊達は
「雑音の王が来たか……」とつぶやき、論文を鞄にしまった。
橘は伊達の隣に座ると、新聞を取り出した。見ると、田中が愛読している三流紙だった。過去にも百鬼夜行や吸血鬼など、オカルト記事を載せていたのを目にしたことがあった。
「その新聞に喋る魚の記事があるのか?」
伊達が聞くと、橘は首を振って言った。
「記事が載ってるんじゃなくて、今から載る予定だ。」
橘の話によると、ドイツから水族館向けの特別便で輸送された荷物の中に、人語を話す魚がいて、気味が悪いので検疫に留め置かれているとのことだった。
「なぜ橘がそれを知っている?」
伊達が尋ねると、橘は新聞を開き、記事を指差しながら言った。
「実はこの新聞社に知人がいるんだ。この記事を書いてる矢部って奴さ。どうもその魚、ドイツ語を喋るらしくて、記事にしたいから俺に通訳しろって言うんだ。面白そうだから、伊達も行かないか?」
伊達は少し考えた後、手帳を取り出した。
「明後日の午後であれば空いている。」
「それじゃ、矢部に連絡しとく。研究室に迎えに行くから昼飯を奢ってくれ。」
橘が笑いながら言った。
二日後、橘と伊達は東京帝国大学近くの定食屋で昼食を済ませ、横浜港の検疫所に向かった。新聞記者の矢部とは横浜駅で待ち合わせだった。
横浜駅に着くと、同じ列車から降りた大柄な男が帽子を取り、橘に手を振っていた。
「おお、矢部、久しぶり!」
橘が手を振り返した。矢部は橘に
「お前が時間通りに来るとは、天変地異の前触れか?」
と言った後、伊達の方を向き一礼した。
「本日はお忙しいところすみません。東亜新報の矢部と申します。帝大の先生に来ていただくような案件でもないのですが。」
矢部は恐縮そうに名刺を差し出した。
横浜港への途上で、矢部は今回取材する喋る魚について二人に説明を始めた。その魚は、上野動物園の水族館に送られるはずだったヨーロッパウナギに混じっており、胴体がウナギのように長い魚で、顔が女性のように見えるものだという。人語のような言語を話すが、誰もその言葉を聞き取れなかったものの、検疫所に勤める獣医がドイツ語ではないかと推測したとのことだった。
「僕と橘は、大学時代に文芸サークルで知り合ったのですが、橘がドイツ育ちだったことを思い出しましてね。それで今回の通訳を頼んだわけです。」
矢部が昔を懐かしむように言った。
検疫所に着くと、簡単な書類を記入した後、件の魚が置かれている部屋へと案内された。
その部屋には大きな水槽が置かれ、中に体長が一メートルほどの魚がいた。確かに顔が西洋人の若い女性のように見えた。
魚は橘と伊達の姿を見ると、水槽から顔を出し、頭からつま先まで何かを見定めるように眺め後、合格だというように頷いて厳かに語り始めた。
「我は故あって、故郷からここに来た。ここ七年のうちに故郷とこの国に災いが降りかかり、多くの人が死ぬだろう。我は諸人の助けとなるためにここに来た。今年のクリスマスイブの日に、我が姿を写した紙を配れば、災いを避けることができるだろう。」
語り終えると、魚は大きく跳ね上がった。水飛沫が一番近くにいた橘手のひらにかかった。その色はまるで血のように赤く見えた。橘は驚いて手を見つめたが赤色はすうと引いてすぐにただの海水に変わった。
伊達が水槽を指差して叫び声をあげた。
「魚が消えだぞ!」
水飛沫がおさまったあと水槽には揺れる水だけが残り、内側にも外側にも魚の姿は無かった。幸い係員が同席していたため、橘たちの責任は問われず、魚は死んだということにされた。
検疫所を出た橘と伊達と矢部は、横浜駅近くのカフェに入った。伊達もドイツ語が分かるため、ずっと神妙な顔をしていた。
席に着くと、まず橘が魚の語った内容を矢部に伝えた。
「災いか……」
矢部はメモを取りながらつぶやいた。
話がひと段落したところで、伊達が
「神社姫のようだな。」
と口にした。
「神社姫なんだ?」
橘が聞き返すと、伊達は戸惑ったような口調で
「予言をする化け物だ。各地に言い伝えが残っている。大体同じパターンで、海から奇怪な生き物が来て、役人が対応し、災いを予言するが、その姿の写しを持てば免れると言う。いや、正直、自分で見るまでは瓦版を売るための作り話だと思っていたのだが……」
伊達は一呼吸おいてから、
「私が聞いた話も橘の訳と一致する。幻聴や幻覚にしてはリアリティがすぎる。」
と続けて、その後黙り込んだ。
「でもさ、イブに絵をばら撒けば解決って言ってただろ? 今から記事を書いて二十四日に出せば、タイムリーだし盛り上がるんじゃないか?」
橘が明るく言った。
「まあ、うちの部数じゃばら撒いたことになるか分からないが、二十四日に広まれば良いって話は部数の伸びにつながるかもしれないな。」
矢部が頭をかきながら言い、その日は解散となった。
それから数日後の12月23日、日本列島は皇太子誕生の報に沸いていた。配達員が町に飛び出し、街頭では人々が号外を手に取り、歓声を上げる光景が見られた。
皇居周辺にはたくさんの人が詰めかけ、「万歳!」「これで日本も安泰だ」「おめでたい」などの声が聞かれ、家々には日の丸が飾られ、東京だけでなく全国が祝賀ムードに包まれた。
そして翌日、24日の新聞はほぼ「皇太子御生誕」一色であった。特に主要紙は一面トップで大々的に報道し、紙面の大半を割いた。三流紙である東亜新報も編集長の判断で大半が生誕記念の記事に差し替えられ、「予言をする魚」の記事も例外ではなかった……。
結局、イブがクリスマスに書き換えられた記事を25日に読みながら、橘と伊達は何も言わなかった。二人の気持ちとは裏腹に、祝賀ムードに包まれたまま、昭和8年は幕を閉じるのだった。
短編でいちばんのお気に入りです。




