別離
1.
河村が常盤楼を去った後、二階堂は十五分ほど、上辺だけの話をして酒を飲み、笑った。
「そろそろご無礼いたします。」
二階堂が立ち上がりと、お酌をしていた小梅が名残惜しそうに言った。
「河村さんと仲直りして、また来てくださいね。」
「ええ、明日きちんと謝りますから。」
二階堂はそう答えたが、明日の昼には洋上にいることを誰より自分がよく分かっていた。
ふらつく足取りで廊下に出て、二階堂は小唄を歌った。
「粋な紫、じゃけんな蛇の目、女泣かせの赤や白。」
歌いながら歩いていると、突然横の襖が開いた。
2.
「やめろ、こっちに来るな!!」
陸軍の制服を着た、痩せて背の高い男が叫びながら腕を大きく振り回していた。見たところ二階堂より少し歳上だろうか。「酔いすぎか?」と思った二階堂だったが、近づいても男から酒の匂いはしなかった。
「少佐、お気を確かに!」
部下と思しき男たちがと慌てて彼を部屋に連れ戻そうとしていた。
そのまま無視して通り過ぎようとした二階堂だったが、「行かないでくれ!!」と男に腕を掴まれてしまった。顔をよく見ると顔面蒼白で冷や汗が浮かんでいる。「全く、来るなとか行くなとかどっちなんだよ。こっちはお前ら陸軍のせいでめでたく上海行きだ。」と心の中で毒づいた。
部下の一人が二階堂に頭を下げ、男を引き離そうとする。男のシャツがめくれて腹部に小さな瘢痕がいくつか見えた。二階堂は軽くため息をつき、部下に聞いた。
「この人、何か持病がありますか?」
部屋の中で荷物を漁っていた男が二階堂に答える。
「はい、少佐は二年前からご病気で、毎日注射が必要です。様子がおかしい時は葡萄糖を飲ませろと言われております。今荷物を探しているのですが、見つからなくて。」
おそらく、インシュリン依存型の糖尿病だなと二階堂は思った。いつもと違う食事でインスリン量が合わず低血糖を起こしているのだろう。症状とも合致する。
「砂糖でもジュースでも構いませんから、糖分を口に入れてください。」
二階堂は立ち去ろうとしたが、放っておいて意識が無くなると誤嚥の恐れがあり厄介だ。
二階堂は深くため息をつき、首から下げていた河村にもらった銀の薬入れを外した。蓋を開けると、中には色とりどりの金平糖が入っていた。男に金平糖を渡そうとするが抵抗されてうまくいかず、業を煮やした二階堂はおもむろに数粒を自分の口に入れて噛み砕いた。そして、男に近づくと無理やり唇を重ね、砕いた金平糖を口移しした。
周囲の部下たちは「な、なにを……」と唖然としたが、次第に男の体から力が抜け、錯乱が収まっていった。落ち着いた状態で男を見ると、おそらく厳格な食事療法のせいで頬は痩せこけてはいたが、目鼻立ちはしっかり整っており軍人らしい風貌だった。
男はまだぼんやりとしていたが、唇に手を当て、処置に気づくと顔を赤らめ、絞り出すような声で謝罪をした。
「迷惑をかけてしまったようだ。」
二階堂は銀の薬入れを男に渡した。
「葡萄糖は見つけやすいところに用意しておけ。よければこの薬入れをやるよ。僕にはもう必要ないものだから。」
男が何か言いかけたが、二階堂はそれを無視して歩き出した。
「さよなら、少佐。」
二階堂は振り向かずつぶやいた。
3.
宿に帰った二階堂は布団に横になり
「面白い玩具だったのに壊せなくなっちゃった。」
とつぶやき、頭から布団をかぶった。
「薬入れ一つ分軽くなっただけ。」
と自分に言い聞かせて目を閉じた。その日は何も夢を見なかった。
翌日、二階堂は朝食を済ませ、八時に宿を出た。東京駅の周りを少し歩いてから横浜行きの汽車に乗り、昼前に横浜港に着く。
上海行きの船の乗船手続きを済ませ、デッキで海風に吹かれながらタバコを吸った。桟橋では見送りの人々が手を振り、デッキからも手を振り返す人が多くいた。
二階堂は手すりにもたれて煙を吐きながら「これでいい」と海風に目を細めた。
何気なく港を見下ろすと、白い制服姿の軍人が目に入った。背筋を伸ばし、まっすぐに船を見ている。右手は迷いなく掲げられ、敬礼の姿勢を崩さない。
その瞬間——汽笛が鳴った。
まるで何かを断ち切るような、鋭く重い音が港に響き渡る。
二階堂は立っていられなかった。膝が崩れ、甲板に手をつく。
「バカかよ……」
タバコが指から滑り落ちた。熱いものが頬を伝い、止まらない。船はゆっくりと離れていく。河村の姿は小さくなる。
二階堂は、肩を震わせながら泣いた。
泣き方が分からなくなるほど、ただただ泣いた。
*粋な紫、じゃけんな蛇の目〜
当時、港町で流行った小唄
素顔の帝国海軍 瀬間 喬 著(海文堂 1974)
ここから上海編の分岐になります。
上海編もそのうち掲載予定でさす。
二階堂への応援メッセージお待ちしております⭐︎




