晩夏(後編)
4.
翌日の昼前、二階堂は橘に別れを告げていた。
「なんだ、もう行くのか。週末までいるなら、軽井沢の別荘でテニスでもしようかと思っていたのに。」
橘が寝巻きのまま、目を擦って言った。
「ええ、お世話になりました。今日の午後の汽車で行こうと思います。これ、少ないですけど宿代が浮いた分です。」
二階堂が封筒を差し出したが、橘は受け取らず、大きく欠伸をした。
「代わりに土産でも買ってきてくれよ。」
橘は頭をかきながら、
「なんか餞別になりそうなものがあれば…」
と言ったところで何かを思いついたらしく、ぱっと元気になった。
「少し待ってろ。」
そう言い残し、橘は寝室に消えた。
「これこれ、俺のお古だけど、身長そんなに変わらないし、ちょっと長めに着られる丈だからお前にぴったりだろ。」
橘は上等な木綿の浴衣と兵児帯を持ってきた。
「ほら、脱げよ。」
橘がそう言うと、二階堂は浴衣を受け取り、シャツとズボンを脱いだ。最近あまり浴衣を着ていなかったので、多少手間取りながら帯を締めた。
「よく似合ってるぜ。上野あたりで羽織りでも買ったら、立派なボンボンに見えるな。」
橘が笑った。二階堂は橘に礼を言ってアパートを後にした。
二階堂は蝉時雨の中をしばらく歩いた後、ふっと笑みを消しつぶやいた。
「だるいな。」
二階堂は日本橋の三越に足を運び、鳩羽色の薄い羽織を買うと、新橋駅近くの宿に入り、河村との約束の時間まで部屋でくつろいだ。久しぶりにタバコに火をつけ、煙をくゆらせながらこの半月を振り返った。得たものと失ったもの……。
「少なくとも依存心は不要だ。」
少し遠くを見ながら二階堂がつぶやいた。指に挟んだタバコから、ぽとりと灰が落ちた。
5.
夜八時、新橋駅で待ち合わせた二階堂と河村は常盤楼までの十分ほどの道のりを歩いた。
「言っておくが、毎日、本省にいるわけじゃないぞ。今日は海軍軍医学校で研究、明日は横須賀に応援だ。会えなかったらずっと待つつもりだったのか?」
河村が二階堂に尋ねた。
「まさか。そうしたら大人しく帰りましたよ。」
二階堂が答えた。そうこうするうちに、常盤楼の灯りがすぐ近くに見えてきた。
店の入り口では女将が待っていて、二人の姿を見つけるとそばに寄ってきた。
「お久しぶりでございます、河村様。お変わりなくお元気そうで何よりです。今日はお座敷だけとお聞きして少し残念でしたが、今宵の席は華やかなものにいたしました。」
女将はにっこり微笑み、続いて二階堂に声をかけた。
「お連れ様もごゆっくりおくつろぎくださいね。」
二階堂は少しはにかんだ顔をしつて頭を下げた。
案内された部屋には女が二人いて、さらに女将が付き添った。
「河村様が後輩をお連れになるなんてお珍しい。こちらの若旦那がお座敷遊びを覚えたいのですね。」
芸者が尋ね、河村は静かに頷いた。
「まずは『金比羅船々』はいかがでしょう? お手つきしたら盃を受けるのが決まりですが……河村様は、今日はお飲みになりますか?」
「ああ、少しはな。ただ、遊びは二階堂とやってくれ。」
河村がそっけなく答えた。
「では二階堂さま、こちらへどうぞ。」
女将はにっこり笑って、伏せた椀を置いた台の前に二階堂を座らせた。芸者の一人が向かいに座り、簡単にやり方を説明した後、
「昔から習うより慣れろと申します。」
と、三味線を持った芸者に合図を送り、演奏が始まった。
──こんぴらふねふね 追風に帆かけて シュラシュシュシュ
「おやおや、若旦那、なかなか筋が良いですけれど、手が少し遅れましたね。まずは一口、どうぞ。」
お手つきをした二階堂の盃に酒が注がれる。二階堂はすぐに飲み干した。
その後も狐拳、投扇興と遊戯は続き、二階堂は誰の目から見てもお座敷遊びを楽しむ軽薄な若旦那に見えた。
──上海の任務に連れて行く仮面は手に入れた。あとは未練を断ち切れば…… と扇を投げながら二階堂は考えていた。
女将は他の座敷に呼ばれたらしく「私はこれで」と下がっていった。女将と入れ替わるように、一人の遊女が追加の酒を持って部屋に入ってきた。河村はその顔に見覚えがあった。かつて馴染みにしていた雪の座敷にしばしば付いていた小梅だった。
「河村様、お久しゅうございます。雪姐さんがいなくなってから、お顔を見せてくださらなくて寂しゅうございました。」
小梅が盃を持ってたおやかに近づいてきた。
河村は小梅をちらりと見たが、盃は受け取らず、
「ああ……」
と曖昧に返した。
その時、二階堂が薄ら笑いを浮かべながら、 河村に聞いた。
「河村さん、その雪さんとは寝ていたんですか?」
「まぁ、そんな野暮なことは聞くものじゃありませんよ、若旦那。」
二階堂の横にいた芸者が、扇で口元を隠してくすくす笑った。河村は目の前にあった盃を取り、酒を飲み干すと、冷ややかな声で二階堂に言い放つ。
「お前に話す義理はない。」
盃を持つ河村の手は微かに震えていた。
その声に一瞬、場の空気が張り詰めたが、三味線の芸者が
「河村様も二階堂様も、今宵はお座敷を楽しむ夜ですよ。」
と言って小唄を歌い始めた。
浮草の花のようなる海軍士官、
蛇目に紫、赤や白、色とりどりある中に、
私が好きなは 赤じゃいな
「赤じゃいな」と小梅が節を繰り返し、河村に酒を注いだ。
芸者たちが巧みに話題を逸らし、宴は続いたが、どこかぎこちない雰囲気が漂っていた。河村は心ここにあらずといった様子で盃を重ねていたが、
「……支払いは済ませておく。お前はしばらく飲んでから帰れ。」
と、最後の一口を飲み干して盃を置いた。
「一緒に帰るなってことですか?」
二階堂が尋ねたが、河村は何も答えず立ち上がった。
「ほらほら、二階堂さん、飲んでくださいな。」
小梅が盃を渡した。二階堂は遠ざかっていく河村の背中を見ながら酒を飲み干した。それは苦い酒だった……。
*浮草の花のようなる〜
当時、港町で流行った小唄
素顔の帝国海軍 瀬間 喬 著(海文堂 1974)
私も赤が好き!!
カープだから(笑)




