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晩夏(前編)

1.

 橘家での集まりの翌日、二階堂は橘のアパートで長期任務に出かける準備をしていた。行き先は上海で、軍医としてではなく民間人として潜入する予定だった。


 昨夜の酒が過ぎたのか、十時を回っても橘はまだ寝ていた。二階堂がトランクに下着や服を丁寧に詰めていると、ようやく橘が起き出してきた。

「昨日はお疲れさん。」

 橘は欠伸をしながら二階堂に声をかけた。

「おはようございます。昨日はありがとうございました。素敵なお兄様でしたね。」

「あぁ、思い出した。兄貴からお前にって預かったものがあったんだわ。」

 橘が寝室に戻り、大きめの茶封筒を手にして戻ってきた。


 封筒には丁寧に封蝋が施してあった。二階堂が封を開けると、そこにはノートが一冊とメモを綴じたものが数冊入っていた。パラパラと中を覗くと、それは梓が見聞きした賭け事でのイカサマの話で、隙間なくびっしりと書き込まれていた。


 ノートの中から、はらりと一枚のメモが床に落ちた。二階堂が拾うと、そこにはこう書かれていた。


『宝塚くんへ


知ることは重要だ。自分でやるのはおすすめしないが、やるなら徹底的に練習しろ。俺のレベルでも二浪二留の月日が必要だった。


橘梓』


橘は椅子に座り、歯を磨きながら二階堂に声をかけた。

「それ、あれだろ。兄貴のイカサマノートだ。」

 口をすすいでから、橘は続けた。

「俺には無理だからってくれなかったやつだよ。いつか後継者が見つかったら渡すって言ってたけど……」

 橘は面白そうに二階堂を見て、肩をポンポンと叩いた。

「おめでとう。君がアレの跡継ぎだな。」


 二階堂は、梓がどこまで自分を見抜いているのかしばらく考えてから、礼を述べる。

「ありがたくいただきます。捕まっても口は割らないので、弁護をお願いしますとお伝えください。」

 顔を洗い終えた橘は、きちんと整理された二階堂の荷物を見て尋ねた。

「もう行くのか?」

「ええ、今週中には。今日はまだ出発しませんよ。少しやりたいことがあって、今夜は出かけてきます。」

「分かった。留守のときも鍵は開けておくよ。盗まれるもんなんてないしな。」

 橘は気にせず楽しめよという風に笑った。


2.

 二階堂はその日の午後六時過ぎ、海軍省の前にいた。帰宅する河村を捕まえるためだ。昨日の疲れを考えると、不測の事態がない限りそう遅くまで残業はしないはず――その予測通り、河村は六時半に門から出てきた。海軍の白い制服に制帽をきちんとかぶり、背筋を伸ばして歩いていた。


 「少佐」と二階堂が声をかける前に、河村が気づいた。

「誰かと思えば二階堂か。どうかしたのか。」 

 河村が近づいてきた。


「一つやり残したことがあって、ご相談しようかと。」

二階堂が河村に言った。

「やり残したこと?」

 河村が怪訝そうに聞き返した。

「お座敷遊びがやりたくて。少佐、つてありますよね?」

二階堂の言葉に、河村は軽くため息をついた。

「やめておけ。」

「まぁ、駄目なら仕方ないですけど。」

 珍しく簡単に引き下がった二階堂を見て、河村は『遊び人になり切るために必要なのか』と思い直した。

「少なくとも今日は無理だ。座敷か取れるかどうかはわからんぞ。とりあえずついてこい。」


 二階堂は夕暮れの街を河村と並んで歩いた。

「制服で行くと上がいろいろうるさいからな。自宅に寄って着替えるから、待ってろ。」

 河村の家は官舎のようで、海軍省から徒歩でも十五分程度で着いた。二階堂が外で待っていると、

「暑いだろ。」

 と中に入るよう促した。独身とはいえ少佐である河村の家は一軒家だった。玄関を通り過ぎて居間に入ると、そこは橘の部屋と対照的にきれいに片付いていた。そもそも物が少ない。


 シンプルな電気スタンドが置かれた机の上には医学雑誌と筆記用具が置かれ、小さな本棚には医学書と軍関係の資料が整然と並べられていた。家具らしい家具といえば、窓際の扇風機と部屋の隅にある軍刀置きくらいだ。


 河村は居間の窓を開けて扇風機を回すと、制服の襟を緩めながら奥の寝室の方へ歩いて行った。

「台所のタライに麦茶の入ったヤカンがある。ぬるいが飲みたければ飲め。」

 奥から河村の声がした。


 麦茶と聞いた二階堂は、鼓動が速くなるのを感じた。異変を悟られないよう深く息を吐く。

「小さい頃、傷んだ麦茶で腹を下して以来、苦手なんですよ。」

 奥の部屋からは「そうか。」と一言だけ返ってきた。


3.

 私服に着替えた河村は二階堂を連れて市電で新橋まで移動し、かつて通っていた「常盤楼」に顔を出した。

 道すがら、二階堂が河村に尋ねる。

「橘さんと伊達さんも誘いますか?」

「四人だと俺が破産する。」

「自分の分は払いますよ。」

二階堂が言うと、河村は笑った。

「たまには先輩風を吹かせたいからな。」


 河村が店を訪れるのは二年ぶりだったが、店先にいた番頭は彼の顔を覚えていたようで、すぐに話かけてきた。

「河村様、お久しぶりでございます。以前ご贔屓の方は引退されましたが、新しいお嬢さんはいかがでしょう?」

「雪の引退は聞いているよ。しばらく任務で大陸に行っていてね。若いのが座敷遊びをしたいと言っていて、明日空いてれば少し遊びたいんだが。なるべく華やかな席を頼む。」

 河村は番頭に二階堂を紹介した。二階堂はぺこりとお辞儀をした。


「明日でございますね。お食事の後はどうされますか?」

 との番頭の問いに、河村は静かに答えた。

「遅くならないようにしたい。」

割と好きな話です。離別まで連続です。

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