奇跡(後編)
4.
香の煙が重く漂う。甘く、それでいてどこか鼻腔を刺すような匂いが、礼拝室を満たしていた。
蝋燭の炎が揺れ、新入信者たちの顔を不気味に照らす。静寂の中、白装束を纏った導師が前に立ち、銀の盃を掲げた。
「この聖なる杯を受け入れることで、汝らは我らが同胞となる。」
信者たちが声を合わせ、低く詠唱する。新入信者たちの前には、一人ひとり小さな杯が置かれていた。その液体は不自然なまでに濃い琥珀色をしている。
「妙に手の込んだ茶番だな……」
河村はぼそりと呟いた。すると、隣で杯を見つめていた二階堂が、小さく囁いた。
「……僕のが当たりですね。後で吐かせてください。催吐剤はズボンのポケットに。」
河村はわずかに目を細めた。この儀式には選別の意図がある。何かしらの薬物が入っているのは間違いない。そして、それを飲まされた者が次の段階へ進むのだろう。
だが、それを承知で二階堂は盃を手に取った。僅かに躊躇し、そして一気に喉へと流し込む。数分も経たないうちに、二階堂の体が揺れ始めた。
「……兄さん……?」
朦朧とした目で河村を見上げ、ぐらりと体を預ける。
「にか…修?」
呼びかけるが、反応は鈍い。
「……僕をそんな目で見ないで……」
息が上がり、額に汗が滲んでいる。
「附中に落ちた時も、兄さんは僕を全然責めたりしなかった……ただ、修はたまたま調子が悪かっただけだって……」
突然の言葉に、河村は一瞬動きを止める。
今、この男は誰に話している?
「……僕は兄さんのように優しくはなれない。」
二階堂の声は震え、涙が頬を伝う。河村は背中をさすった。今は、周囲に余計な疑念を抱かせないことが先決だ。
「大丈夫だ。ここにいる。」
河村は何度も二階堂を励ました。
5.
数分後、二階堂はトイレの個室に駆け込み、喉に指を突っ込んでいた。勢いよく胃の内容物が吐き出される。壁に手をつき、荒い息を整えながら、吐瀉物を見下ろす。
「……スコポラミン……ベラドンナ……」
二階堂はぺっと唾を吐き捨て、荒々しく笑った。
「さて、どう潰しますかね。」
個室から出てギラついた目をした二階堂が、血走った視線を河村に向ける。
「随分と楽しそうだな。」
河村は腕を組み、ため息混じりに言った。二階堂は笑った。先ほどまでの泣き言を言っていた姿とは別人のように。
「だって、僕は兄さんみたいに優しくはなれませんから。」
二階堂は、荒い息を整えながらシャツの袖で口元を拭った。
「……鉛玉をぶち込むだけじゃ気が収まりませんね。」
先ほどまでの朦朧とした様子はすっかり消え、目には鋭い光が宿っていた。河村は腕を組んだまま壁に寄りかかる。
「落ち着いたか?」
「ええ、おかげさまで。」
そう言うと、二階堂は不敵に笑う。
「やっぱり、信者の前で化けの皮を剥いでやるのが一番ですよ。」
「……面倒なことになりそうだな。」
「少佐はこういうの好きじゃないですか?」
「好きなわけあるか。」
河村はため息をついたが、二階堂は意に介さない。
「それにしても、薬を使って洗脳しようって手口……ずいぶんと古典的ですね。」
「だが、効き目は抜群だ。お前みたいに薬物に慣れてるやつじゃなければ、一発で意識を乗っ取られる。」
「そうですねぇ。」
二階堂はトントンと指で顎を叩きながら考えるような仕草をした。
「問題は、『奇跡』のタネです。」
「奇跡ねぇ……」
河村は目を細めた。この新興宗教が信者を増やしている最大の理由。それが、教祖が見せる『奇跡』だった。
病を癒し、水の上を歩き、空中に浮かぶ――。
その『奇跡』を目の当たりにした信者たちは、疑うことをやめ、崇拝へと転じる。人の心を支配するのに、理屈や知識は不要だ。『奇跡』を見せるだけでいい。
「兄さん、そろそろ会場に戻りましょう。」
二階堂は微笑みながら、わざとらしく河村を"兄さん"と呼ぶ。
「……その呼び方はやめろ。」
「でも、"ダーリン"よりはマシでしょ?」
「どっちも大差ない。」
そう言いながら、河村は歩き出した。
6.
信者が集う大広間に戻ると、ちょうど教祖が演説を始めるところだった。
壇上には、白い法衣をまとった男。目元は優しげで、髭を生やしたその姿は、まるで聖人のようだった。
「皆様……私たちの世界は、暗闇に覆われています。しかし、私は神の声を聞きました。」
教祖が両手を広げると、壇上に淡い光が灯る。
それだけで、信者たちは息を呑んだ。
「奇跡だ……!」
ざわめきが起こる。しかし、二階堂はふんと鼻を鳴らした。
「……あれですね。」
河村も同じものを見ていた。
「映像機とドライアイスのトリックか。」
「ええ。光は映写機を使って壁に投影し、足元の霧はドライアイスで演出。よくできてますが、所詮は見せかけの『奇跡』ですね。」
河村は静かに息を吐く。
「教祖はただの詐欺師か。」
「まだそうとは限りません。」
二階堂は小さな声で言った。
「詐欺師が一番厄介なのは、『本物』をほんの少し混ぜてくるところですよ。」
「さあ、我が信者たちよ。」
教祖が両手を広げ、壇上の信者を指さした。
「この者は、不治の病を抱え、医者にも見放された。しかし――!」
壇上に寝かされた信者が、まるで生き返えっかのように起き上がる。
「奇跡だ!」
「教祖様……!」
歓声が上がる。二階堂は冷静にその光景を観察していた。
「兄さん、『奇跡』の仕組み、分かりました?」
河村は腕を組みながら、無表情で言った。
「モルヒネか。」
「ご名答。」
二階堂は小さく拍手をした。
「あの病人、痛みが主体ですね、信者の中からモルヒネが効きそうな奴を適当に選んで、奇跡の演出ってわけです。」
「つまり、全部仕込みか。」
「ええ。でも、信者は信じます。信じたいから。」
「さて。」
二階堂はにっこりと微笑んだ。
「奇跡の時間はもう終わりです。」
河村は無言で頷いた。
午後の儀式が始まると、朝と同じように病人が壇上に上がった。
信者たちは息を詰めて見守る。河村と二階堂は早くから出向き祭壇に近い席を確保していた。
「神の御力により、今、この者は癒される!」
教祖が両手を掲げ、神妙な顔つきを作る。しかし、病人は奇跡の回復を見せるどころか、突然苦しみ出した。喉をかきむしり、白目を剥き、全身を痙攣させながら壇上に倒れ込む。
「な、何が起こったんだ!?」
信者の間にざわめきが広がる。
壇上の教団員たちは慌てて駆け寄ったが、病人は二度と起き上がらなかった。儀式は一瞬にして恐怖の場へと変わった。
「何をした?」
河村が低い声で問いかける。二階堂は肩をすくめ、微笑んだ。
「何もしていませんよ?」
いたずらを仕掛けた子供のような表情になり河村の耳元で囁いた。
「注射器のモルヒネが足りないかなと思って、多めに吸ってあげただけです。」
河村は短く息を吐いた。
「……お前な。」
「だって、教祖様は奇跡を見せるんでしょう?それなら、もう少し強めの奇跡を起こしてあげようかと。」
二階堂は飄々とした態度で言うと、視線を壇上へ戻した。信者たちは動揺し始めていた。そして、『奇跡』が起きなかった原因を探し始めた。
その時、教団の祭壇に近い一角で、誰かが小さな瓶を拾い上げた。ガラスの小さな空アンプル。しかも、それはひとつではなく、複数あった。
信者たちの目がそれに向かい、次々と拾い上げていく。
やがて、二階堂が叫んだ。
「これ……薬じゃないか?」
「モルヒネだ!」
「どういうことだ!?」
空アンプルを見つけた信者たちは、顔を引きつらせた。やがて、壇上の教祖に向けられる視線が冷たくなる。
「奇跡ではなく、薬で治していたのか……?」
「まさか……全部嘘だったのか!?」
「裏切ったな!!」
誰かの叫びを合図に、場内が一気に騒然となった。
信者たちは教祖へと詰め寄る。
「待て、待て! これは何者かの陰謀だ!」
教祖は必死に弁明しようとしたが、信者たちの怒りは止まらなかった。壇上にいた幹部たちは顔色を失い、次々と逃げ出そうとする。
混乱の中、二階堂は満足げに微笑んだ。
「完璧なタイミングですね。」
河村は騒ぎを眺めながら、ふと二階堂に目を向けた。
「あのアンプル、どこで見つけた?」
それに対し、二階堂は悪びれもせず、さらりと言った。
「あれですか? 元勤務先の陸軍病院ですよ。」
「……」
河村は目を閉じ、一度だけ深く息をついた。
「まあまあ、あとは自壊するでしょ。」
二階堂はすっかり役目を終えたと言わんばかりに、手を叩くと、くるりと背を向けた。
「さ、行きますよ、兄さん。」
河村はしばらく無言だったが、やがて仕方なく後を追った。
二人が去る背後で、信者たちの怒号と、教祖の必死の弁明が響き渡っていた。
薬物もの好きです。
だいぶ前の話に少しだけ伏線があるのわかりました?
⭐︎、感想お待ちしております。




