奇跡(前編)
1.
昭和8年、夏。蒸し暑さに満ちた海軍省の一室で、河村学少佐は海軍省情報部、成田中佐の厳しい視線を受けていた。扇風機の回る音がやけに耳につく。
河村は表向きは医務局勤務の整形外科医であるが、その実、情報局にも籍を置いている。
「満鉄の幹部夫人が、新興宗教に傾倒しているらしい。」
成田は書類をめくりながら淡々と言った。
「政治家や実業家の間にも信者が広がっている。このまま放置するのはまずい。黒い噂もある。適当に調べて教団ごと潰せ。」
河村は軽く息を吐いた。
「また厄介な案件ですね。」
「そういう仕事だ。今回は哈爾濱に派遣だ。満洲海軍特設機関の将校と組んでもらう。」
河村はわずかに眉をひそめた。満洲海軍特設機関──名前を聞いただけで、胃のあたりが重くなる。河村と同じく軍部の影を請け負う連中だ。
「まさか……。」
「二階堂中尉だ。知ってるな?」
嫌な予感が現実のものになる。成田は書類を片付けながら、声を潜めた。
「『相棒殺し』の異名を取る男だ。気をつけろ。」
成田は河村に書類をまとめて渡した。
河村は微かに顔をしかめた。もちろん知っている。満洲で半年、同室だったことがある。大人しそうな軍医の皮を被って手段を選ばぬ冷酷さを持つ男。河村に対しては人を食ったような態度で接し、まともな人間関係を築くことが難しいタイプに見えたが、なぜだか妙に懐かれていた。
2.
夜がふけきった哈爾浜の街。河村は満洲に着いた翌日、租界地の洋館の一室で、薄暗い照明の下、地図を眺めていた。そこへ、無造作な足音が近づいてくる。
「お久しぶりです、河村少佐。」
二階堂修が笑っていた。綿のパンツに薄いジャケットとラフな格好をしている。その目には相変わらずの悪戯めいた光が宿っていた。
初めて満州で出会ったとき、二階堂の姿はどこか頼りない青年のように映った。身長は高くなく、細身の体躯はどこか華奢で、軍人というよりも学生のような雰囲気を持っていた。顔立ちは中性的で、かなり弱気な印象だった。
軍医として活動する二階堂は、髪を短く切り、清潔感のある姿で周囲に溶け込んでいた。控えめで規律を守る姿勢は、まるで目立たないことを選んだかのように見えた。
そして再会の時。任務のために休職していると聞いていたが、髪が伸び、少しウェーブを帯びたその姿は、以前の印象とはまるで違った。伸びた髪は、少し色気を含み整った顔を引き立たせていた。
「『相棒殺し』の異名を聞いたが?」二階堂は肩をすくめた。
「それはただの噂ですよ。まったく、人は面白おかしく話を作るのが好きですね。」
河村は溜息をついた。こんな男と、正式に組まされるとは。
「今回の任務については、もう聞いているな?」
二階堂の前ではつい口調が荒くなってしまう。
「ええ。信者を増やしている新興宗教の調査と排除、でしたね。満鉄のお偉方の奥様が夢中になっているとか。」
「慎重にやるぞ。目立つのは避けたい。」
「わかっていますよ。」
二階堂は、にやりと笑った。
「あ、そうそう。少佐が来るのが遅いので、教団について外部から分かることはあらかた調べましたよ。」
今回の任務の標的である宗教の名は「神命救教」。昭和初期に突如として広まり、政治家や企業幹部にまで信者を増やしている団体だった。表向きは慈善活動を謳っているが、裏では違法活動の噂がある。信者の心を惹きつけてやまないのが教祖による癒しの奇跡だった。
河村が、渡された資料に目を通していると、二階堂が不意に言った。
「奇跡についてもだいたいあたりはついています。ああ、そうだ。明日は月に1度の入信の儀があるんです。来る者拒まずなんで行きますよ少佐。」
河村に拒否権はなさそうだった。
3.
静かに流れる車窓の景色を眺めながら、河村は内心ため息をついていた。
「さて、どういう設定でいきましょうか?」
二階堂が運転席で楽しげに提案する。
「怪しくないように兄弟設定でいきましょうか?」
二階堂が気軽に言った瞬間、河村の眉がピクリと動いた。
「いや……何でお前と俺が兄弟なんだ。」
「じゃあ恋人にしましょうか!」
ニコニコしながら言う二階堂に、河村は再び顔を引きつらせる。
「……兄でいい。」
半ば諦め気味にそう答えると、二階堂は嬉しそうに微笑んだ。
「では、『兄さん』、行きますよ。」
その瞬間、河村は後悔した。絶対にこいつはこの設定を楽しんでいると。
数分黙った後河村は何気なく二階堂に尋ねた。
「お前、実際に兄がいるのか?」
二階堂はハンドルを握りながら、ちらりとこちらを見た。
「奉天で話しましたよね? 僕は開業医の次男で、兄が跡を継いでるって。」
「……そうだったな。」
遠い異国の地で話したことを、まさか、こうして再び掘り返すことになるとは思ってもいなかった。
「兄弟仲はどうなんだ?」
河村の問いに、二階堂は少しだけ考えてから答えた。
「すこぶる良好……と、あっちは思っています。」
その言葉に、河村は微かに表情を動かした。
「お前はそうは思っていないのか?」
二階堂は笑った。いつもの軽口を叩く時とは違う、少し乾いた笑いだった。
「兄さんは優秀で、まっすぐで、立派な医者です。そして、僕が弟としてそれを尊敬し、慕っていると思っている。」
「……だが、お前は?」
二階堂は一瞬だけ黙った。だがすぐにいつもの調子に戻り、軽く肩をすくめた。
「まぁ、いろいろあるんですよ。兄弟ってやつは。」
河村はそれ以上追及しなかった。だが、二階堂の言葉の端々に感じる違和感は消えなかった。
「……兄ってのも案外、難しいもんなんだな。」
そうつぶやく河村に、二階堂はクスッと笑った。
「兄さん、もう役に入り込んでますね?」
「……お前がややこしいことを言うからだ。」
二階堂は楽しそうに笑いながら、車を空き地に停めた。目の前には立派な門構えの集会所が見える。
「さて、それじゃあ兄さん、行きましょうか。」
「その呼び方はやめろ。」
「ふふっ、もう遅いですよ?」
小さく笑いながら、二階堂は車のドアを開けた。河村は小さくため息をついて、覚悟を決めた。




