石
1.
昭和8年3月、日本が国際連盟を正式に脱退した。4月には文相が、京都帝大の滝川幸辰教授に辞職を要求する、いわゆる滝川事件が起こった
これは滝川が他大学で行った刑法学講演会の内容が無政府主義的なものだと問題視されたことが原因だった。
そのような状況の中、大学で法律を学ぶ稲葉美月から伊達に一通の手紙が届いた。差し出し人の住所は山下宅になっている。内容は滝川事件についてで、思想弾圧についての批判が詳しく綴られていた。男子学生と違い、表立っての抗議行動がやりにくいのであろう。
伊達は便箋を取り出して返事を書き始めた。書きながらふと、最近、特に工学部で軍からの委託研究が増えていることに思い至った。
「学問の自由とは何だ?この国はどこに向かおうとしているのか…」
伊達は小さくつぶやいた。
返事の内容は過激にならないよう言葉を選びながら書いた。
「気分転換として、いつでも研究室にお越しください」そう結ぼうか迷ったとき、秘書がドアを叩いた。
「お客様がいらしております。」
2.
来客は手紙の主、美月だった。
「山下のおじさまが珍しい珈琲を手に入れられまして、ぜひ伊達先生にと。」
山下とは国内有数の栄養製剤メーカーの社長で、伊達の研究室に多額の寄付をしている人物である。
「珈琲であれば、休憩室の方がいいですね。」伊達は美月を案内した。豆の入った小さな麻袋を伊達に渡すと美月はソファーに腰を下ろした。
伊達が袋を開けると、芳醇な香りが部屋に漂いはじめた。伊達は思わず「ホゥ。」と感嘆の声を上げた。
ミルで豆を挽くとその香りはますます強まり、休憩室がまるで喫茶店のように感じられた。サイフォンを準備する伊達に美月が話しかける。
「インドネシアの珈琲ですの。ジャコウネコの体内で発酵した豆。希少なものです。」
準備の手を止め、伊達は少し考え込んだ。体内で発酵ということは、切り開いて取り出すか、あるいは……。
「面白い!」
伊達は叫んだ直後にハッと口に手をあて、慌てて美月に非礼を詫びた。
「しかし、よろしいのですか。体内で発酵と言うことは、その……」
伊達は言いづらそうに美月に聞いた。
「先生と飲みたいから持ってきたのです。」
美月は微笑みながら答えた。
「バターケーキも持ってきましたの。ナイフとお皿を貸してくださいな。」
美月はカバンから箱を取り出した。
出来上がった珈琲は素晴らしく、伊達が今まで飲んだ中で一番美味しいものだった。バターケーキにもよく合う。それから伊達と美月は滝川事件や昨今の日本を取り巻く海外情勢について話をした。美月の法律に対する熱意は高く、伊達も引き込まれ時間が経つのを忘れた。
3.
「伊達先生。」
休憩室の入り口から聞こえた声で話が中断された。伊達が目を向けると隣の研究室に所属する学生が立っていた。
「君は確か山中先生のところの……」
「四年次の遠山です。山中先生から伝言を預かって参りました。」
メモを受け取ると、教授会日程の変更についてだった。美月が休憩室の中から
「バターケーキがたくさん余っておりますの。」
と声を掛けた。
「遠山くん、時間があればどうだね。」
伊達も遠山を誘った。
伊達研究室の休憩室で遠山は緊張していた。目の前にいる女性と伊達の関係を考える余裕が無いほどだった。
伊達がサイフォンを軽く洗いながら遠山に珈琲を飲むか聞く。豆の採り方を聞いた遠山は
「僕はちょっと…。」
と遠慮した。
「まぁ、そうだな。」
伊達は苦笑しながら窓の方に歩き、大きく開け放った。珈琲の香りは外からの風で拡散しあっという間に消え去った。
「ならば紅茶をいれよう。」
伊達はヤカンに勢いよく水を入れガスの火にかけた。お湯がある程度沸いたところで茶器を温めた後、缶から薬匙で正確に茶葉を量りとりいれる。沸騰したてのお湯をポットに注いだ。
伊達はちらりと腕時計を見て、タオルでポットを包んだ。
「蒸れるまで四分待ってくれ。」
伊達は美月と遠山に声をかけた。
紅茶を待つ間、美月は遠山に声をかけた。
「はっきり言うことも時には必要ですよ。」
唐突な切り出しに遠山は何を返せば良いか分からず下を向いた。
伊達はテーブルにカップを運び、続いてポットを持ってきた。茶こしで茶殻を漉しながら、丁寧に濃度を均一にして注いでいった。まるで化学実験のようだなと遠山は感じた。
4.
その日の夕方、遠山は大学敷地内のベンチに腰掛けてため息をついた。卒業論文が全く進まないのだ。
山中教授に相談しようと思っているが、教授は忙しく、またこんな初歩的なことを聞くなとならないか心配で一歩が踏み出せないでいた。
遠山は休憩室での伊達の紅茶を入れる所作を思い出していた。
「ああいう人は実験でも論文でも何でも簡単にこなしちゃうんだろうな。」
考えていたことがつい口に出てしまった。
カバンの中には、土産にともらったバターケーキが入っていた。取り出して齧る遠山。甘味が心に染みる。何かの気配を感じて顔を上げると、数メートル前にカラスが一羽おり、こちらを見ていた。白い風切り羽。本郷のヌシだ。
「本郷のヌシを粗末にすると留年する」という噂を思い出した。「優しくしたら、卒業できるかな」ふと思い、遠山はバターケーキを半分にちぎってそっと投げた。ヌシはケーキを咥えて飛び去って行った。
5.
今日はもう帰ろうと遠山はベンチを後に歩き始めた。東京大学の西側、本郷台地を歩いていると子ども達が線路に入り込み置き石をして遊んでいた。
「こら!君たち。」
遠山が声をかけると子ども達はワッと叫んで一斉に逃げ出した。
線路には小さな石が置いてある。この大きさなら大事には至らないと思うが、念のためにと遠山は線路に立ち入り、かがみ込んで石を拾った。
「キミ!何をしているのかね!」
顔をあげると道路から巡査がコチラを見ていた。遠山は慌てて線路から飛び退いた。
「近ごろ、置き石がよくあると通報を受けて見回りをしていたんだが。」
巡査は強い口調で言った。遠山は「僕では、ありません」と反論しようと思ったが、信じてもらえるだろうかと心配で言葉がつかえてしまった。
「ぼ……僕では」
どうにか絞りだすように声を出した時、コツン、と小さな音がした。音の方を見るとカラスが線路に石を置いていた。白い風切り羽……
「カラス⁉︎」
巡査は驚いたように言い、遠山の方を向き尋ねた。
「もしかして、キミは線路の石を拾っただけかね?」
頷く遠山。一呼吸おいて自分が拾った石を置いたのは近所の子供たちだと伝えた。
巡査は遠山に謝罪し、置き石をしない指導をするよう付近の学校に伝えると言って立ち去った。
6.
遠山は歩みの方向を変え、大学へと戻った。論文作成で詰まったところはきちんと山中教授に相談しよう。そう心に決めて研究室へと急ぎ出した。廊下の途中で伊達が向こうからやってくるのが見えた。
遠山は小さく頭を下げて伊達に礼を言った。
「紅茶ありがとうございました。あの女性の方にもお礼をお伝えください。」
「ああ、そうするよ。」
そう返し、伊達は自分の教授室に入った。
ドアを閉めた後、伊達は「まだ、連絡先を聞けていない……」
と小さくつぶやいた。
ヌシ二度目の登場です!
動物ではキャンディに次ます。




