辻占菓子(前編)
1.
昭和八年正月。
東京は長引く不景気の中にあったが、神田明神の初詣はそれを吹き飛ばそうとする熱気に溢れていた。大鳥居から社殿へと続く道にはたくさんの出店が並んでいる。
海軍少佐、河村学は鳥居から少しずれた境内の外で橘薫を待っていた。
「『橘は時計のない世界に住んでいる』と伊達さんが言っていましたけど。」
河村は独り言を漏らしつつ腕時計を確かめた。時刻はすでに待ち合わせを四十分も過ぎていた。出店でも眺めて時間を潰そうかと考えていたところに十歳くらいの男の子が声をかけてきた。
「おじさん、辻占菓子買わない?」
辻占菓子は、小さなせんべいや落雁の中に占いの言葉が書かれた紙が入ったもので、新年の縁起物として販売されていた。
「じゃあ、三つ貰おうかな。」
値段は一つ三銭とのことだ。河村は財布から五銭銅貨を二枚取り出し、
「お釣りは要らないよ」
と子どもに渡した。
2.
辻占菓子を割れないようにそっとポケットに入れたその時、ようやく姿を見せた橘が後ろから声をかけてきた。
「河村、明けましておめでとう。」
遅れてきたことを咎めても暖簾に腕押しだろうと苦笑しつつ、橘に新年の挨拶を返す。ポケットの中の辻占菓子のことを思い出し、手でを探りながら橘に話しかけた。
「先程、辻占菓子を買ったんですよ。……あれおかしいな。」
数分前にポケットに入れたばかりの菓子がない。
落としたかと周りを確認するが見当たらない。こんなものを掏る奴は居ないだろうし、情報将校である自分に掏られる隙があるとも思えなかった。
3.
河村が困惑しているとすぐ隣から透き通った鈴の音のような女性の声がした。
「恋の辻占、いかがですか。」
声の方を向くとそこには肩にちょうどかかるくらいの艶やかな黒髪と吸い込まれるような深い眼差しを持つ若い女が立っていた。品の良い着物姿は物売りには見えない。
「どちら様ですか?」
河村が怪訝そうに聞くと、女はにっこりと微笑みながら
「伊達教授と公爵の舞踏会においでになった方ですよね。私は稲葉美月と申します。」
美月は軽く頭を下げた。
あのパーティーに参加していたのであればそれなりの立場の人であろう。話からして伊達の知り合のようだ。警戒を完全に解いたわけではないが
「河村学と申します。」
と美月に頭を下げた。
「俺は橘薫。よろしくな。」
橘も続けて挨拶をした。
「黄泉戸喫をご存知ですか?」
美月が唐突に切り出した。河村と橘は首を傾げ、分からないという表情で顔を見合わせる。美月はころころと笑いながら
「買い食いはちゃんとしたお店でということです。」
美月は意味ありげに河村を見つめた。
美月は続いて橘の方を向き目を細めた。
「橘さんは、お優しいからなんでも拾ってしまう。」
美月は再び河村の方を向いた。
「貴方は、お心当たりがおありでしょ?」
声をかけて、ふふふと笑った。
「少しお待ちになってて。」
そう言うと美月は鳥居をくぐり参道に向かって軽やかに歩いていった。
数分後、河村と橘の元に戻った美月は河村に辻占菓子とお守りを三つずつ手渡した。
「伊達教授によろしくお伝え下さいね。」
美月は手を振ると雑踏に紛れていった。
神田明神、お参りに行きました。
鳥居のこの辺りで待ち合わせかなと妄想が捗りました!
この後、神田明神は初詣話に何度も出てきます。




