マタギ
1.
橘が「ゴリラ殺人事件」の記事を片手に笑いながら騒いでいると、ラウンジの扉が静かに開き、暗い顔をした男が入ってきた。橘と学習院の同期である子爵、真木正親だった。
細身の体はさらに痩せこけ、落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。
「橘、ちょっと良いか?」
握り締められた新聞は、橘が読んでいたものと同じだった。彼は真木の異様な様子に気付きながらも、軽い調子で返した。
「もしかして、『ゴリラ殺人事件』の話か?」
しかし、真木はまったく笑わない。橘の肩を掴むと、低い声で言った。
「隅で話せないか?」
二人はラウンジの奥まった席に移動した。
真木正親は名門の華族に生まれ、学習院で橘と同期として学んだ。成績は平凡だったが、温厚な性格で友人に恵まれた。父の代から続く軍需産業に関わる工場を受け継ぎ、事業を拡大。結果的に高額納税者となり、貴族院議員の座を得ていた。
「この記事に出てくる化け物についてなんだが……もしかしたら、家から逃げたワニかもしれん。」
真木の声は震えていた。
数年前、彼は格式の高い公爵家の娘と結婚した。政略結婚だったが、妻は社交界で影響力を持ち、家の名誉を保つのに一役買っていた。その一方で、真木は日常的に尻に敷かれていた。
妻は西洋文化に憧れ、珍しい動物を飼う趣味を持っていた。その中でも特に気に入っていたワニがいた。だが、三週間前に屋敷から逃げ出してしまったのだ。必死で探していたものの、万が一事件になれば新聞沙汰は必至。家名や工場の経営に影響を及ぼしかねないと、真木はひどく怯えていた。
「警察には言ったのか?」
「ああ、もちろん。しかし、家名に傷がつかないよう秘密裏に探してもらっている。」
橘は合点がいった。だから現場の巡査は何も知らなかったのか。
「餌がとれずに死んだかと思っていたんだが、あの記事の半分にちぎれた犬の話を読んで、これはウチの逃げたワニだと思ったんだ。」
真木は憔悴しきっていた。
「D教授と河村に相談しても良いか?」
「もちろんだ。ワニ探しを引き受けてくれるのか?本当にありがとう……」
真木は涙を浮かべながら深々と頭を下げた。
2.
その夜、東京魔術倶楽部に伊達が不在であったため、橘は河村に相談することにした。
「それで、引き受けたってわけですか。」
河村は呆れたように腕を組む。
「あと一、二ヶ月放っておけば冬になって勝手に死ぬんじゃないですかねぇ。」
「そうは言っても、その間に万が一、人が襲われでもしたら大変だろう。」
「だいたいどうやって捕まえるんです?体長一・五メートルのワニですよ。下手したらこっちが死にますよ。」
河村はマシュマロをつまみながら、じろりと橘を見た。
「お前、銃持ってるよな?」
橘の問いに、河村は細い目を見開く。
「拳銃でどうにかなるとお思いですか?」
呆れたように言いながら、またマシュマロを口に放り込んだ。
「それにですね、支給品の銃を発砲すると、それはそれは大量の始末書を書かなきゃならないんです。ましてや私は軍医ですよ?ワニ退治とか、おかしいにも程があります。」
「もう、伊達に頼むからいいよ。」
橘はわざと拗ねて見せた。
河村は少し笑うと、マシュマロを口いっぱいに頬張った。もそもそと食べながら、ちらりと橘を見る。
「依頼人は真木子爵でしたっけ。あそこ、ガラス工芸から軍用機の操縦席の硝子に切り替えたんだよな……」
口にマシュマロを詰めたまま、河村は何やらぶつぶつ言っている。全部を飲み込んでまた少し考えてから橘の方を向き口を開いた。
「上に確認を取って良いなら、手伝いますよ。海軍にとっても、あそこのパイプはおさえておきたいでしょうし。」
2.
翌日の昼休み、河村は海軍歴史編纂室を訪れた。
「旅順港閉塞作戦の資料を閲覧したいのですが。」
受付の係とやり取りをしていると、奥から室長の竹内が顔を出した。竹内も河村も表向きは他部署にいるが、その実、情報部にも所属しており、竹内は河村の上司にあたる。
竹内は河村を見たあと、ちらりと壁の時計に視線を走らせ「一局どうだ?」と室長室に招き入れた。
「お前から出向くとは珍しいな。どういう風の吹き回しだ?」
机の上には将棋盤が据えられている。
「で、話してみろ。」
駒を指しながら竹内が促すと、河村は真木家からのワニ逃亡の件を手短に語った。
「ふむ、真木硝子工業か……まあ、恩を売っておくのも悪くない。」
竹内は静かに頷く。
「それで、お前は何が欲しい?」
「武器展示室の使用許可をいただきたいのですが。」
「良いだろう。好きに使え。」
竹内は引き出しから鍵を取り出し、無造作に放る。河村はそれを受け取り、盤上の駒を一つ進めた。
その日の夕方、河村は少し早めに上がり、亀十のどら焼きを手土産に持って、木村が勤める派出所へ向かった。
軍服姿の河村を見て、木村は少し驚いたが、すぐ嬉しそうな表情になり言った。
「軍医だったのか。立派な仕事だ。」
「それはどうも。」
河村は軽く会釈し、土産を手渡した。
河村は木村に、
「そういえば、先日の事件の記事を読んだぞ。」
と話を向ける。
「ところで、犬の死体が見つかったのはどこだったんだ?」
木村は一瞬考えたが、秘密というほどのことでもないと判断したのか、
「ちょっと待ってろ。」
と言って地図を取り出し、指で示した。
「ここだな。築地川の支流、新富川のあたりだ。」
河村は地図を確認し、短く礼を述べるとしばらく世間話をしてから派出所を後にした。
東京魔術倶楽部へ徒歩で向かう途中、河村は新富川の現場に立ち寄った。川の一部は暗渠になっており、周囲には民家や商店が立ち並んでいる。あちこちに銭湯が見え、その排水が川に流れ込んでいるようだった。
「なるほど、銭湯の排水が流れ込んでいるのか……」
河村そう呟くと近くの肉屋に立ち寄り、鶏を丸ごと一羽購入した。
倶楽部に着くと、ちょうど橘がワニの件を伊達に説明している最中だった。伊達が座るソファの隣に腰を下ろし、河村は袋を置く。
「どら焼き、いかがですか?」
そう言って、ひとつ取り出し、静かに食べ始めた。
橘の話が一区切りついたところで、河村は木村巡査から聞いた犬の死体の話を持ち出した。
「仕事が早いな。」
伊達が感心したように言った。
「銭湯の排水が流れ込んでいるということは、水温が高く、ワニが住むには最適な環境かもしれないな。」
伊達は続けた。
それを聞いた河村は袋から鶏を取り出した。
「適当な檻にこれを入れて、確かめてみましょうか。」
倶楽部で以前猫を飼っていた時の隔離ケージを貰い受け、鶏を中に入れる。ロープを括りつけると、河村は立ち上がった。
「仕掛けを置いたら、今日はそのまま帰ります。」
そう言い残し、河村は静かに倶楽部を後にした。
3.
翌日早朝、河村は仕掛けていたケージを引き上げた。金網は無惨に引き裂かれ、内部は空っぽだった。
「これは当たりですね。」
独り言を漏らしながら、彼は川辺を見渡す。間違いない、ここにワニが潜んでいる。
少し離れた場所に移動し、周囲の環境を観察する。
「……昼間は人目が多いな。やるなら深夜か。」
小さくつぶやき、次に光源の確保を考えた。
懐中電灯を片手で持つか、それとも咥えるか。しかし、片手が塞がるのはリスクが高すぎる。やはり補助役が必要だ。
頭に思い浮かんだのは、二階堂。
「なんで二階堂が出てくるんだよ。だいたい奴は満州だ。」
自分で考えておきながら、思わず声に出してしまった。
次に、市田大尉の顔が浮かぶ。諜報能力は高いが、実戦経験は乏しい。上官である中佐に補助を頼むわけにもいかない。
「……やはりここは、伊達さんですか。」
河村は呟く。東京魔術倶楽部の会員であれば秘密保持の決まりごともあるし、裏の顔を見せることに対する不安も少ない。
それに伊達は武芸に秀でており、万が一の際のサポートも可能だろう。つまり、彼に光源を任せることで、作戦の成功率が格段に上がるということだ。
そう決めると、河村は海軍省に出勤し、昼休みに東京帝国大学の伊達の研究室へ電話をかけた。
「教授、今夜ワニの狙撃を手伝っていただけませんか?」
「面白いな。いいだろう。何時だ?」
「今夜十二時、入船橋。橘さんには秘密で。」
受話器の向こうで伊達が軽く笑うのが聞こえた。
「分かった、車も出そう。何か用意するものはあるか?」
「では鶏肉を2kgほど。動きやすい格好でお願いします。」
そういって河村は通話を終わらせた。
4.
午後9時すぎ、河村は歴史編纂室の武器展示室へと足を運んだ。展示室は静まり返り、ガラスケースの中には日清・日露戦争で使用された武器が整然と並んでいる。その一角、関係者しか入れない保管庫があった。
扉を開け、中に足を踏み入れる。三八式歩兵銃を一瞥し 「陸軍のものは性に合わないな。」 と三十五年式海軍銃を手に取る。しかし、ボルトアクションの動作を思い浮かべ、少し考え込む。
視線を巡らせると、壁際にウィンチェスターM1892が立てかけられていた。マタギだった祖父の狩猟について歩いていた少年時代が蘇る。
手に取ると、驚くほど馴染む。レバーアクションは扱いやすく、発射音も比較的控えめだ。さらに、44-40の亜音速弾を使用すれば、消音効果も期待できる。
「やっぱりコイツですね。じっさまの教え通り、一発で決めましょう。ワニごときに二発も三発も使うのは、マタギの名折れ。」
河村はウィンチェスターM1892を選んだ。
弾薬を整え、銃と共に釣竿バッグへ収め、最後にワニの死体を入れる袋を用意し、軍服の上に外套を羽織る。
準備は万端。
河村は、静かに入船橋へと向かうのだった。
5.
河村が約束の場所についた時、既に伊達が待っていた。
伊達は、ウールのズボンにツイードのジャケットを羽織り、足元はブーツである。
カフェで読書にふけっていたところを無理矢理引っ張り出された雰囲気であったが、腕にはしっかりと鶏肉が入った袋をぶら下げていた。
二人で河岸へ降りると、人目につかぬ暗渠の入口が見えた。河村はそこで慎重に銃を取り出し、弾丸を装填すると、作戦の説明を始めた。
「その鶏肉を餌にしてワニを誘き寄せます。私達は少し離れたところで静かに待ちます。ワニが近づいてきたら合図をしますので、懐中電灯でワニを照らして下さい。そうしたら私が撃ちます。」と河村は小声で伊達に指示を与え、懐中電灯を手渡した。
「だいたい、分かったよ。」
伊達は頷き、二人は共に暗渠の中へと入って行った。
水面が緩やかに流れる場所を見つけると、河村は静かに鶏肉を置き、15メートルほど離れた壁際に片膝をついて息を潜めて待った。銃は横に休ませているが、目線は常に餌とその周囲の水面を捉えている。
時折、重い空気の中で時計の針が進む音が聞こえる。どのくらい経った頃か、水面がわずかに揺れ、暗い影が鶏肉に近づくのが見えた。
河村はその微かな気配を察知すると、音もなく立ち上がり、素早く狙撃体勢に移行する。伊達もそれに倣い、河村の邪魔にならぬよう、一歩後にずれて位置を取る。
河村は銃を肩にしっかりと構え、左足を半歩前に出す。両手で銃を支え、脇を引き締めながら、狙いを定める。
静かな合図と共に、彼は低く囁いた。
「3秒後に。」
3……2……1……
その瞬間、伊達は懐中電灯をすばやく構え、狙撃ポイントに光を当てた。光が照らすと同時に、河村は息を止め引き金を引いた。弾丸は正確にワニの頭頂部に命中した。
河村は即座にレバーを引き、排莢し、次弾を装填すると狙撃体勢を維持しながら、ワニの動きを監視した。
しばらくしてもワニは動かない。河村は数歩前に出て、追加で2発を撃ち込んだ。
河村はワニを袋に入れながら、振り返って伊達に言う。
「最後の2発は念のためです。」
「河村が言い訳なんて、珍しいな」
伊達は苦笑いを浮かべながら返した。
「初弾を外したと思われたら、じっさまに叱られるから。」
少しだけ恥ずかしそうに河村は答えるのだった。
構えや撃つシーンを描くべくYouTubeで射撃関連の動画を見て、当直室でエア射撃をして頑張った話です。




