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ゴリラ(後編)

6.

 一目見ただけでも色々と矛盾はあるが、あとは警察に任せようと決めた河村。


 通報を受けた巡査が到着するのを静かに見守っていた。第一発見者の男に声をかける巡査。


「警察も来たことですし、私たちはそろそろ……」

 立ち去ろうとした河村に、不意に巡査が声をかけた。


「もしかして、河村? 鹿角で一緒だった河村か?」


 河村は怪訝な顔をする。名前を聞いて思い出した。巡査はかつての同級生、木村だった。彼は鉱山技師の息子で、尋常小学校の途中で転校していたが、今は警察官としてこの場に立っている。


「懐かしいな。河村、今は何をやってるんだ?」

「い、医者かな……」


 嫌そうな声を出す河村に、木村は笑った。

「お前、頭良かったもんな。良ければこの死体について何か意見を聞かせてくれないか?」


 河村が迷っていると、木村は思い出したように口を開いた。

「いやぁ、河村は正義感が強かったよな。昔、同級生が理不尽に叱られた時、教師の背中にカエルを……」

「意見を言うから黙ってくれないか。」

 河村が木村の言葉を慌てて遮った。


7.

 橘は木村の話の続きを聞きたそうにしているが、河村は一呼吸おいて言った。

「まず、あの血痕ですが……。あの位置に叩きつけられたと考えるには、不自然な点があります。」


 遺体の冷たさから考えると、叩きつけられて即死したのであれば、血はもっと凝固しているはずだった。おそらく、死体をここに放置した際に血痕がつけられたのだろうと説明をする。


「それに、あの高さまで、人間一人で叩きつけるのは不可能です。複数人でやったり、機械を使えば目立ちます。」


 木村は頷きながら、しかし言いにくそうに話を切り出した。

「まあ、普通ならその説明で納得するが……実はこの一カ月、この辺りで化け物が出るという噂があるんだ。実際、三日前に……」


声を潜め、木村は続けた。

「身体が半分食いちぎられた野良犬の死体が見つかったんだ。」

その言葉を聞き、橘がぽつりとつぶやく。


「やはりゴリラか……」


 伊達は冷ややかな視線を送った。河村は目頭を押さえて深くため息をついた。

「どなたか脚立を貸してください。」

 現場を遠巻きに見ていた男が家に走り、脚立を差し出した。河村は脚立に登り、血痕を素手で触れる。

「ずいぶん薄いな……もしかして。」


 橘の方を向き、河村は言った。

「姪御さんには悪いですが、顕微鏡を借りてもよろしいですか?」

 橘が頷くと、河村は顕微鏡セットを開け、スライドガラスを取り出し、血液を引いて塗沫標本を作る。


「凝固しかけてるし、上手くいくと良いのですが……」

 祈るようにつぶやき、河村は顕微鏡覗いた。


「たぶん見えてる。しかし、染色したいな……」

 河村は野次馬の中の主婦に声をかける。


「奥様、すみませんが、湯呑みに水を一杯と、小皿に少しのお酢をお借りできますか?」


 水とお酢を受け取ると、河村は胸ポケットから万年筆を取り出した。満州行きの前に伊達からもらったものだ。

 お酢の中にインクを混ぜ、それを血液標本に垂らして染み込ませる。三十秒待ち、湯呑みの水で簡易の染色液を洗い流す。


 再び顕微鏡を覗き、ニヤリと笑った河村は伊達を手招きする。顕微鏡を覗いた伊達が言った。

「赤血球に核があるな……。哺乳類の血ではない。」


「赤血球に核がないのは哺乳類だけです。鑑識にかければすぐに分かると思いますが、あれは人の血ではありません。おそらく鶏か何かの血で偽装したかと。」

 河村はそう言うと、遺体に目を向けた。


「シャツをめくってもよろしいですか?」

  木村の許可を得ると、慎重に遺体の服をまくり上げる。

「……打撲の跡から見て、これは交通事故ですね。近くで事故を起こした車両がないかを調べた方がいいでしょう。」


 そうこうするうちに監察医が到着した。木村巡査から話を聞いた監察医は、訝しげに河村達を見やる。


「……どこの世界に、顕微鏡を持ち歩き、道端で塗抹標本を染色する奴がいるんだ?」  


 皮肉げに言った監察医だったが、伊達が名刺を差し出すと、納得したように肩をすくめた。

 

その様子を見ていた橘が、くっくと笑う。

「あれ絶対、『学者は変わり者だから、そんなこともあるだろう』って顔だぜ。」


8.

 数日後——。

 田中が愛読する三流新聞に、ひときわ目を引く見出しが踊っていた。


『ゴリラ殺人事件、解決す。』


 その記事には、こう書かれていた。

 

 車で人を轢き殺した犯人が、ゴリラのような化け物が出るという噂を利用して事件を隠蔽しようとしたが、偶然通りかかった帝大のD教授がそのカラクリを見破った——。

 

 新聞を広げた橘は、腹を抱えて笑った。

「ゴリラ殺人事件って……! いや、まぁ確かに俺がゴリラとは言ったけどさ!」

 その隣で、伊達は憮然とした表情を浮かべている。


 河村は、あの日買いそびれたたい焼きを手にぽつりとつぶやいた。


「あの半分に食いちぎられた犬は、結局何だったんでしょうね。」

 そう言うや否や、たい焼きを半分に噛みちぎり、無造作に口へ放り込んだのだった。

染色できるか病理医に聞きました。

えへ。

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