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水交社

1.

 月初の木曜日。河村は憂鬱な気分で書類に目を通していた。理由は明白だ。今夜、満州で散々自分を嵌めた二階堂中尉と食事の約束がある。こんな約束など、できることなら反故にしたかった。


 いっそ、奴が食あたりでもして来られなくなればいいのに……そんな考えが脳裏をよぎる。


 しかし、無情にも時間は過ぎていく。何事もなく退勤の時刻を迎え、河村は軍服のまま港区の士官倶楽部「水交社」へと向かった。


2.

 ロビーに足を踏み入れると、河村は周囲を見回した。視線の先、隅のソファに座る男が目に入る。二階堂だった。彼はすぐに立ち上がり、河村にきっちりと敬礼をした。


 初対面の時は全く色がないと感じた河村だったが、二階堂をよく見ると目鼻立ちはくっきりとしており、細く見える身体にはしなやかそうな筋肉がついている。最初に会った時とはまるで別人のようだと感じる河村。じろじろと見続けるわけにはいかず、

「行くぞ。」と、短く声をかけ、レストランへと向かった。


 店内は閑散としていた。木曜日の夜だからだろう。席に着くと、河村はカバンから封筒を取り出し、二階堂に差し出した。


「高野の代金だ。奢られる理由はない。」

「……あの夜のお礼のつもりだったのですが。」

 二階堂が困ったように封筒を押し戻す。

「では、このお金で今夜の分をご馳走してください。」

 河村は何も言わず封筒を受け取った。


「お飲み物は?」

 給仕に問われ、河村は迷いなく答えた。


「炭酸水を。」

「では、僕もそれで。」


 注文が終わると沈黙が落ちる。無言のまま向き合う二人。やがて、前菜が運ばれてきた。そのタイミングで、河村が静かに口を開く。


「何のつもりだ?どうして東京にいる?」

「東京にいるのは研究発表のためですよ。」

 二階堂はサーモンを口に運びながら答えた。

「結核の防疫についての発表です。来週にはまた新京に戻ります。」

「……それで、何のつもりだと聞いている?」

 河村の口調に苛立ちが滲む。二階堂は対照的にどこか愉快そうな口調で言った。

「せっかちな男は嫌われますよ?」

 軽く受け流され、また沈黙。


 ややおいてから、河村は静かに聞いた。

「高野にいたのは偶然……ではないな?」

「ええ。」

 二階堂はあっさりと肯定する。

「外出届に新宿とあったので、少佐なら高野に行くかなと思いまして。」

「……ずっと待っていたのか?」

「まさか!」


 二階堂は笑いながら首を振る。

「予約は本名で入れない方が良いですよ。」

 サラダを食べがら、さりげなく忠告をする。


「酒、頼みませんか?」

「好きにしろ。」

 二階堂は薄く笑みを浮かべると、メニューを手に取った。


「シャンパンをグラスで二杯。」

 二階堂が注文をする。河村の頬がぴくりと引きつった。


 やがて、二つのグラスがテーブルに置かれる。しかし、河村は無言のまま炭酸水に手を伸ばし、シャンパンには一瞥もくれなかった。


「乾杯しましょう。」

 二階堂が誘う。

「理由がない。」

 河村は素っ気なく言い放つ。

 二階堂が懐から茶封筒を取り出し、テーブルに置いた。

「少佐の誕生日祝いですよ。」

 河村の手が止まる。忘れていたが今日は自身の誕生日であった。


「飲んでくださったら、今日お誘いした目的を話します。」

 渋々とグラスを手に取る河村。

「では、少佐の誕生日を祝って——乾杯。」


 二人は軽くグラスを掲げ、河村はため息混じりに一気に飲み干した。その様子を、二階堂はどこか愛おしげに見つめていた。


 グラスを置くと、河村はすぐに切り込む。

「さあ、話してもらおうか。」

「本当に少佐はせっかちですね。」


 二階堂は苦笑しながら封筒を差し出した。中を確認すると、そこには陸軍軍医学校の防疫部に新たな研究室が設立されたという報告が記されていた。


 その時、スープが運ばれてきた。

「冷めますよ?」

 二階堂の言葉に、河村は黙ってスプーンを取る。

「……そこのトップ、細菌兵器をかなり推しているんですよ。」

 スープをすすりながら聞いた言葉に、河村の表情が曇る。


「噂では、満州に研究機関を作るそうです。」

 スープが下げられる頃、二階堂は当然のようにワインを頼んだ。


「ボトルにしましょう。二本いけるなら白からいきますけど?」

「白。」

 河村は短く答える。料理より先にワインが運ばれてきた。


「で、何が言いたい。」

 グラスを傾けながら河村が問う。


 二階堂はふっと微笑むと、突然立ち上がった。そして、静かに河村の手を取る。


「少佐、ずっとお慕い申し上げておりました。」


——ゴホッ。

 河村はワインを咽せた。咄嗟に二階堂の手を振り払おうとする。しかし、その瞬間、二階堂の人差し指が僅かに動いた。モールス信号だ。


── 人体実験の噂あり


 河村の目が細められる。

「わ、悪いが貴官の気持ちには応えられない。」

 意識的に大きめの声でそう言うと、二階堂はくっくっと笑いを噛み殺した。


「…それは残念です。」

 二階堂がわざとらしく肩を落とし、河村は軽くため息をついた。


3.

「では僕がやっている仕事の話をしましょう。」


 二階堂は穏やかに切り出し、自身が携わっている結核予防について話し始めた。その説明は論理的に整理されており、整形外科が専門の河村にも十分理解でき、興味を引くものだった。


 やがて魚料理が運ばれてくる。ヒラメのムニエルにホタテが添えられた皿が、白いクロスの上に静かに置かれた。


 二階堂が河村のグラスにワインを注ぐ。

「さて、どうして僕が防疫の話をしたか分かりますか?」

 二階堂の問いに、河村はワインを口に含みながら思考する。

「この分野で業績を上げ、内部に潜り込むためか?」

 河村の答えに二階堂は嬉しそうに片手で顔を押さえた。


「やっぱり少佐は最高ですね。」

 上機嫌でワインを飲みながら、彼は続ける。

「もし噂が本当ならば、この分野に詳しい医師は貴重な人材になりますから。」

 魚料理を食べ終えたころ、河村がグラスを軽く指で弾きながら言った。


「次の肉に合わせて、適当な赤を頼む。」


 メインは、牛のショートリブを長時間煮込んだ骨付きの肉料理だった。フォークを軽く刺すだけで、肉はほろほろと崩れた。骨をフォークで突きつつ、二階堂が尋ねる。


「では、少佐が注目されるにはどんな研究が適していますか?」

 肉を骨から切り離しながら河村は考える。

「伝染病は……専門じゃないからな。出血の少ない手術法……いや、壊疽や凍傷の研究の方が良いか。」

「良いですね!噂がただの噂でも、研究して損をすることはありませんし。」

 二階堂が少し興奮した口調で言いながら、赤ワインを一口飲む。


河村もワインを飲みながら、ふと問いかけた。

「で、なぜ俺なんだ?」

 口をついて出た「俺」という一人称に、自分で驚く。


「やはり、アルコールはいけない。」

 独り言のように言うのを聞いて、二階堂がくすりと笑った。

「僕も、『僕』って言うのは少佐の前だけですよ。……おっと、話が逸れましたね。」

 グラスのワインを一口飲んでから二階堂は続ける。


「それは少佐が有能な人物だからですよ。誰だってやるからには成功したいでしょう?」

「その割には随分な扱いを受けた気がするが。」

「僕、好きな子には意地悪をするタイプなんです。」

 二階堂はにっこりと笑った。


 河村はまたしてもワインでむせかける。

「嚥下機能、大丈夫ですか?」

「すべてお前のせいだ。」

 二階堂は満足そうに笑った。


 肉を食べ終え、グラスに残ったワインを飲みながら、二階堂はふと真剣な表情になった。


「僕は、任務で人を殺すことを何とも思いません。でも、あの噂が本当ならば……腐っても医者ですからね。」

 まっすぐに河村を見る、その瞳には冗談の色はなかった。


 ──負けたな。河村はそう言うような表情を浮かべると、静かに息をついた。

「で、他には何をすればいい?」

 二階堂は微笑み、


「中国語は完璧にしてください。できればロシア語も少しは。もし満州への赴任が決まったら、打てるワクチンは全部打ってくださいね。」

「まぁ、ワクチンは赴任が決まったらな。他は?」

「そうですね……。」


 二階堂は少し考え、鞄から小さな箱を取り出した。松坂屋の包装紙。

「あとやることと言えば、これを受け取るくらいですかね。」


 河村はため息をつきながら箱を受け取る。

「開けるぞ。」

 二階堂が頷く。


 中には、小さな青い石があしらわれた金のカフスが入っていた。高価な物に見える。


「誕生日は?」

 唐突な問いに、二階堂がきょとんとする。

「は?」

「お前の誕生日はいつなんだ。俺は貸しを作るのが嫌いだ。」

 少しの沈黙の後、二階堂は小さく笑い、

「十月七日であります。」

 と敬礼した。

 河村は無言で手帳を取り出し、その日付を書き込んだ。


 デザートのクレームブリュレは、ほろ苦い味がした。

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