白樫
1.
二学期が始まってしばらくしたある日。東京帝国大学の教授である伊達政弘は、母校である学習院初等科の理科室にいた。最先端の化学研究を行う卒業生として、児童たちに特別講義を行ってほしいという依頼を受けたのだ。
講義の後には実験を行った。銀鏡反応――アンモニア性硝酸銀水溶液の還元を利用し、ガラスを銀メッキして鏡を作る。六年生にはやや高度な内容だったが、ガラスの表面がみるみる銀色に変わっていく様子に、子供たちは目を輝かせて歓声を上げた。
2.
実験が終わった後、学内を自由に見て回る許可を得た伊達は、ふと図書室へと足を向けた。そこは三十年前とほとんど変わらない佇まいで、懐かしさが胸に広がる。
幼いころ、伊達は図書室が好きだった。奥の棚に目をやると、かつて夢中で読んだ『萬國理科全書』が今も並んでいる。子供には不人気な本で、当時も手に取る者はほとんどいなかった。
新しい百科事典を寄贈するのもいいかもしれない。そう思いながら一冊を抜き取ったとき、一枚の紙がひらりと舞い落ちた。伊達は屈み込み、それを拾い上げる。
「……三十五・六五、百三十九・七二……?」
見覚えのある数字だった。おおまかではあるが、広尾にある自宅の緯度と経度だ。幼い頃、地理書で調べて嬉しかった記憶が蘇る。しかし、問題はそこではなかった。紙に書かれた筆跡。幼いが、確かに自分のものによく似ている。
「これは……私が書いたのか?」
続けて書かれていた言葉。
『白樫 年に二回の影の先』
白樫――実家の庭にも一本あったはずだ。年に二回となると、春分か秋分。そして、影の先……。時間の記載はないが、子供の思考ならば正午と考えるのが自然だろう。
伊達は手帳を取り出し、秋分の日を確認する。九月二十三日。金曜日だった。予定は特に入っていない。昼の時間を使って実家に戻ってみるのも悪くない。
2.
そして迎えた秋分の日。伊達は実家の庭でシャベルを手に、白樫の影の先を掘っていた。手がかりに従い、地面を掘る。だが、何も出てこない。
「推理が間違っていたか、それとも最初から何もなかったのか……」
一度手を止め、白樫を見上げる。三十年の歳月を経たその木は、しっかりと手入れされながらも、かつてよりもずっと高くなっていた。
「……そうか、当時より影が伸びているのか」
その可能性に思い至り、伊達は再びシャベルを握る。今度は、木に近づいて地面を掘った。
すると、30センチ掘り進めたところで手応えがあった。慎重に土を払うと、小さな箱が顔を出した。
蓋を開けると、そこには一本の万年筆と、手紙が入っていた。万年筆を取り出し、そっと手のひらに載せる。エボナイトは茶色く変色していたが、形は綺麗に保たれていた。
それは、亡き父が使っていたものだった。
3.
記憶が鮮明に蘇る。初等科の頃、大人に憧れ、こっそり父の万年筆を手にした。だが、筆圧が強すぎたのかペン先を壊してしまい、インクが漏れるようになった。怖くて言い出せず、そのまま隠してしまった。
伊達は静かに手紙を開いた。
『手紙を読んでいる方へ。
私は学習院初等科に通う伊達政弘と言います。次の春に卒業し、中等科へ進みます。この手紙を読むのが未来の私であることを願っております。』
そこには、数学者か化学の研究者になりたいという夢が綴られていた。
二枚目に目を移す。
『実は、僕はお父様の大切な万年筆を壊してしまいました。怖くて謝れなくて、今もそのことを考えると胸が苦しくなります。
万年筆を捨てるのは嫌だったけれど、ずっと持っているのも辛くて、ここに埋めました。
大人になったあなたなら、お父様に謝ることができるでしょうか?』
伊達は手紙を閉じ、深く息をついた。父は八年前に世を去っている。もう直接謝ることはできない。だが、ふと思う。万年筆が突然消えたとき、父は何も言わずに片付けていた。気づいていたのではないか。だが、責めることはせず、そのままにしていたのではないか。
壊れた万年筆を見つめながら、伊達は呟いた。
「父は最初から許していたさ。」
万年筆をシャツの胸ポケットにそっと挿し、見上げる白樫。
「あの頃よりも、大きくなったな。」
柔らかな風が吹き、枝葉がざわりと揺れた。
爽やかな読み切りにしようとした作品です。
必死で緯度と経度しらべました!




