刀(後編)
7.
夜の冷気が窓から染み込むように室内に広がる中、会議室に集まった面々はそれぞれ陸軍の規定に則った茶色の外套を羽織っていた。
規律正しく、実用性を重視したデザイン。その中で、ただ一人、河村少佐だけが異なる色合いのコートを纏っていた。
深い紺を基調としたその外套は、海軍の意匠を色濃く出しており、袖口には彼の階級を示す派手なラインが刻まれている。陸軍の無骨なデザインとは対照的に、どこか洗練された印象を与える。
それを見た長坂少佐が、軽く口笛を吹きながら笑った。
「ほぉ、水兵さんのコートは戦う気がないお洒落だね。」
言葉にはからかいの色が含まれていたが、その長坂自身も特注品の外套を纏っていた。表向きは規定に忠実なデザインだが、裏地の色が異なる洒落た仕立てになっている。
河村はその言葉をさらりと流し、柔らかな笑みを浮かべた。
「寒い中、お集まりいただきありがとうございます。」
そう言うと、熊野へと軽く目配せを送る。熊野は皆を見渡した後、寺迫に向かって尋ねた。
「中佐は、外套に何かこだわりがありますか?」
寺迫は特に気にした様子もなく答えた。
「特にないが。」
その瞬間、谷口が静かに眼鏡を押さえ、ぼそりと呟く。
「……陸軍服制中改正加除ノ件、大正十一年九月二十七日勅令第四百十五号。」
一瞬、場が静まる。河村は細い目を更に細め、日沖の言葉を待った。
「大正十一年の改正で、外套の袖章は廃止されました。」
日沖は淡々と続ける。
「しかし、物を大事にされる山本中佐は、古い外套を仕立て屋に出し、袖章を外して使われていました。仕立て直しをした際、内ポケットに名前を刺繍されたそうです。」
その言葉に、僅かに周囲の空気が変わった。熊野は静かに腕を組み、考え込むように目を閉じた。熊野の手には『古い外套の者に、こだわりがあるか聞くこと。』と書いたメモが握られていた。
「寺迫中佐、外套を改めてさせて頂けますね?」
熊野が威圧的に言うのを見届けた河村は、ふっと小さく笑い、
「水兵は内陸の寒さに弱いのです。」
そう言い残すと、皆にくるりと背を向け会議室を後にした。窓の外では静かに名残雪が降り始めていた。
8.
真夜中の廊下は静寂に包まれていた。寒さが染み込むような空気の中、熊野は河村の部屋の前で足を止め、軽くノックをする。
しばらくして、扉がわずかに開いた。そこから覗いた河村の顔には、心底嫌そうな表情が浮かんでいる。
「……駄目だと言っても無駄でしょうから、どうぞ。」
半ば諦めたように言いながら、河村は熊野を部屋に招き入れた。
室内はこぢんまりとしており、簡素な家具が並んでいる。
「相部屋か? ずいぶんと狭いな。」
熊野が辺りを見渡しながら言うと、河村は抑揚のない口調で答えた。
「陸軍には大変丁寧に扱っていただいておりますから。」
「引っ越すか?」
「今さらいいですよ。……答え合わせに来られたんですよね。」
河村はベッドの端に腰掛け、熊野を見つめる。
「やはり寺迫だったよ。」
熊野が短く言った。
「動機は?」
「軍物資の横流しが発覚し、田中がそれを表沙汰にしようとした。それを阻止するための犯行だ。匿名の投書があったらしい。」
「山本中佐は巻き添えですね。」
河村は低くつぶやいた。
「ああ。寺迫は山本中佐の『軍刀の刀身』を使うことで捜査を混乱させようとしたが、部屋に戻しに行ったところで本人と鉢合わせになった。」
「なるほど……」
河村は顎に手を当て、思考を巡らせる。
「山本中佐はプライドが高い。だから恩賜の軍刀の刀身を盗まれたことを人に言えず、それが発覚しないよう、鞘と柄だけを持ち歩いていた。結果として、軍刀はずっと山本中佐の手元にあるように見えるが、刀身は寺迫が持っていた。」
河村の推理を聞いて熊野は静かに頷く。
「田中大尉を呼び出し、殺害し……。ああ、そのとき、柄の代わりに茎に布を巻いたのか。だから刀身に繊維が付着していたわけだ。」
独り言のようにつぶやく河村。顔を上げて熊野を見ながら話を続ける河村。
「田中大尉殺害の際は、あらかじめ着替えを用意していた。しかし、山本中佐と遭遇したのは予定外だった。だから返り血を浴びてしまった。そこで自分の軍服と外套を脱ぎ、ブーツの底を拭いたうえで、それらを暖炉にくべ、山本中佐の外套を羽織って立ち去った……。軍刀を組み立てる余裕もなかったのでしょうね。」
「暖炉の服が山本中佐のもので無いと考えた理由は?」
熊野が河村に聞いた。
「もし山本中佐が犯人なら、凶器を処分せずに軍服と外套だけを処分するとは思えないですからね。」
そう締めくくる河村を、熊野はじっと見つめた。そして、ふっと笑う。
「取り調べを覗いていたのか?」
「もう寝るので帰ってください。」
そう言って河村は熊野を部屋の外へ押し出した。
「謝礼は要りませんけど……どうしてもというなら甘味で。」
扉を閉める直前に、河村はにっこりと笑いながら付け加えた。
9.
─数日後。
河村が読書をしていると、部屋の扉が開き、もう一人の住人が戻ってきた。
「いやぁ、僕の留守中に面白いことがあったみたいじゃないですか。」
哈爾濱から戻ったばかりの二階堂が、どこか楽しげに言う。河村は顔も上げず、手元の本に視線を落としたままだった。
「……」
「無視ですか。まあいいです。」
二階堂は荷を解きながら、軽く微笑んだ。
「いやぁ、陸軍の軍規を正すため、田中大尉に手紙を送ってよかったですよ。」
「……」
「それじゃ、医務局に帰参の挨拶をしてきますね。」
そう言うと、二階堂は軽やかに部屋を出ていった。
その瞬間、河村は無意識に手元の本を床に叩きつけていた。
ぱたん――
静かな部屋の中に、鈍い音が響いた。




