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新京

1.

 帰国まで、あとひと月余りとなったある日、河村は机に向かい、橘と伊達宛に絵葉書を書き始めた。


 「奉天ももう春です。桜が散る頃に帰国する予定です。お会いできる日を楽しみにしております。」


 筆を置き、じっと葉書を見つめる。余白が多い。少し物足りない気がして、ふと思いついたようにペンを取り直す。


 「薫くんは学校の勉強を頑張っていますか?」

 その下に、さりげなく方程式を三つほど書き添えた。1つ目は以下の通り。


 x + y - z = 16 x - y - z = 0 x - z = 8


 これを含めて3つの式を解けば、9つの数字が導き出せる。ちょっとした遊びの暗号だ。伊達と橘なら、きっと気づくだろう。


「帰国前に、新京に寄ってみたらどうです?」ふいに声をかけられ、河村は振り返る。そこには二階堂が立っていた。


「……何の話だ?」

「僕も異動が決まりましてね。新京勤務です。せっかくだから、満州国の首都を帰国前に見ておいた方がいいんじゃないですか? 海軍の許可もすんなり下りるでしょうし。」

 河村は面倒そうにため息をついたが、悪い提案ではなかった。こうして、河村は帰国の前に一週間ほど新京に立ち寄ることにした。


2.

 別れの日。奉天の駅には、医務局の鈴村大尉と佐々木中佐が見送りに来ていた。

 

「お元気で。」

 鈴村が軽く手を挙げる。

「海軍を辞めて、うちに来てもいいんだぞ。」  

 佐々木が冗談めかして言う。河村は苦笑しながらも、しっかりと握手を交わした。

「石膏係も達者でな。」

 佐々木に言われ、二階堂は委縮したように小さく頭を下げた。


 特急列車に乗り込み、荷物を網棚に載せる。窓の外に広がる景色を眺めながら、しばしぼんやりとする。それは不愉快な奴と、目を合わせないためでもあった。


「少佐、キャラメル食べませんか?」

 隣の席で、妙に機嫌の良い二階堂が包みを差し出してくる。

「……」

 

 なぜ同じ列車に乗っているのかと問う気にもならず、河村はただただ無言で窓の外を見つめ続けた。


「新京は都会ですよ。官庁街なんて、まるで丸の内みたいですから。」

 淀みなく喋る二階堂を、河村は黙殺した。

「街の様子を見ておくだけでもだいぶ違いますよ。奉天のうっすい報告書だけじゃ、恥ずかしいですしね。」

 河村は軽く舌打ちし、視線を窓の外に向ける。


 一方的に喋る二階堂を無視しているうちに汽車は新京駅に到着した。奉天よりも北に位置する新京は、まだ肌寒かった。宿泊先は、海軍の宿舎が手配されていた。タクシーを拾い、二階堂を置いて一人で宿舎へ向かう。


「お待ちしておりました、少佐。」

 宿舎の兵士が出迎える。陸軍と違い、海軍では差別的な扱いを受けることはなさそうだった。


「こちらです。」

 部屋へ案内される途中、兵士が申し訳なさそうに言う。

「実は最近バタバタしておりまして、なかなか良い部屋がご用意できず……。」


「寝られれば何でもいい。」

 河村は淡々と答えたが、案内された部屋は陸軍時代の宿舎に比べて遥かに広く、設備も整っていた。


 ただ、ひとつだけ陸軍と変わらない点があった。先客が、すでに荷解きをしている。


「遅かったですね、少佐。」

 満面の笑みで迎えたのは、二階堂だった。


3.

 新京での五日間、河村は官庁街や公共施設を視察した。整然とした街並み。最新技術を取り入れた西洋風の建築。まるで模範的な近代都市のような光景――。だが、それは表向きの姿にすぎなかった。陸軍がこの地を足がかりに中国利権を拡大しようとする意図は、そこかしこに滲み出ていた。

 

 二階堂は陸軍の病院での応援勤務が始まり、夜にしか戻らなかった。河村はなるべく顔を合わせぬよう、早めに床につくのが常だった。だが、この日は違った。部屋に戻ると、すでに二階堂が先に帰っていた。

「これ、どうぞ。」

 書類を放るように寄越してくる。


「……これは何だ?」

「ここ半年の陸軍第一病院の外傷患者のまとめです。まぁまぁ、派手にやってますね、陸軍は。」


 河村は眉をひそめる。

「何のつもりだ?」

「僕たち、同じ海軍じゃないですか。どちらが報告しても同じでしょう? 少佐が本国に持ち帰ってください。」

 二階堂は言葉を続ける。

「飯くらいは奢ってくださいよ。近くに美味い日本食の店があるって聞いたんです。少佐はもうすぐ帰国でしょうけど、僕はもう少し居ますから。」

 二階堂は、半ば強引に河村と外へ出た。夜空には一番星が輝き始めていた。


4.

 件の日本食の店は、東京から来た店主が営んでおり、評判通り日本を思い出させる味だった。

「もう一軒、いいですか?」

 二階堂に連れて行かれたのは、酒場兼阿片吸引所だった。露骨に顔をしかめる河村。


「別に吸う必要はありませんよ。僕も吸いませんし。」

 仕方なく店に入り、ウイスキーの水割りを頼む河村。なるべく煙を吸わないようにしていたが、次第に頭痛と吐き気が襲ってきた。――限界だ。


「そろそろ出るぞ。」

 そう声をかけようとした時、二階堂がすっと立ち上がった。

「小便してきます。」

 奥へ消えていく二階堂を待つ間、河村はぼんやりと店内を見回した。その瞬間。


 「雪!」

 

 河村は思わず立ち上がり、グラスを落としそうになる。通り過ぎた女の横顔が、かつて懇意にしていた 遊女、雪にあまりにも似ていた。それは阿片の煙がもたらした幻覚なのかも知れない。それでも河村は……。その時だった。

 

 店の奥から、銃声が響いた。けたたましい悲鳴、物が割れる音。


「抓住那日本人!(あの日本人を捕まえろ!)」


 二階堂が店の奥から走り出てくる。反射的に、河村も外へ飛び出した。二手に分かれ、二階堂とは別方向へ走る。追っ手を振り切り、暗がりに身を潜めたところで、河村は限界を迎えた。膝をつき先ほど食べた夕食を盛大に嘔吐する。


 河村は宿舎に戻り洗面所に直行し嘔吐で酸っぱくなった口腔を漱いだ。部屋に入ると二階堂は涼しい顔で何か記録をつけていた。

「おかげで、すんなりいきました。」

 ふざけた口調に、河村の怒りが爆発した。二階堂の胸ぐらを掴み、力任せに引き寄せた。


「貴様……」

 しかし二階堂は、どこまでも飄々としていた。

「東京に帰っても、お元気で。」

二階堂は穏やかに微笑んだ。その笑みには背筋が寒くなるような美しさがあった。河村は何も言わずに手を離し、ただ冷えた視線を向けるだけだった。

 

 翌朝、宿舎を発つ際も、二階堂には一切の挨拶をしなかった。河村はそのまま、新京を後にした。


5.

 その頃、伊達と橘のもとに、一通の絵葉書が届いていた。送り主は河村だった。


 「橘くんは、学校の勉強を頑張っていますか?」


 橘と伊達はその下に書かれた数式に目を留めた。3つほど方程式が書かれている。1つ目と2つ目の式には訂正した跡が残っている。


 x + y + z = 36 x - y - z = -18 x + y - z = 6


「……何だこれ?」

橘が首をかしげる。伊達は無言で数式を解き始めた。数分後、解が導かれる。


9, 12, 15

22, 5, 11

21, 18, 5

  

「まぁ、数字から察するにアルファベットだろうな。」伊達は数字をアルファベットに置き換えていく。

 

I LOVE KURE


「KURE…くれ?……軍港のくれか?」

 橘がつぶやく。

「もうすぐ帰ってくる本人に聞けばいいさ。」 

 伊達はそう言って、葉書を机に置いた。


 その頃、河村は船の甲板で風に吹かれながら東京に思いを馳せていた。


 橘と伊達の元に届いた絵葉書の、HATE が LOVE に書き換えられていることに河村が気づくのは、それからかなり後ことだった。

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