黒
1.
東京魔術倶楽部が珍しく休業という知らせが、常連の間に事前に回されていた。休会の理由は曖昧だったが、噂好きたちの間ではすぐにある一つの話が飛び交った──古くから呪術師の家系として知られる一族の人物が倶楽部に招かれ、極秘の儀式か何かが行われるのだと。
その噂話を理学部教授である伊達政弘は軽く流した。しかし、その日付を忘れていた彼は、ふとした瞬間の気まぐれで倶楽部を訪れた。
「倶楽部は本日お休みでございます。」
出迎えた給仕が頭を下げて告げたとき、伊達は不覚にも日付を間違えたことに気づいた。
「そうか。では、ホテルのラウンジで時間をつぶそう。」
彼は踵を返すと、隣接ホテルのラウンジに向かい、窓際の席に腰を下ろした。
そこは心地よく静かで、客もまばらだった。伊達は持ち歩いていた分厚い化学論文集を取り出し、コーヒーの香りを楽しみながらページをめくる。静寂を破るのは、時折響くスプーンの音や控えめな会話のみ。その穏やかな空間に身を預けているうちに、彼はすっかり時間を忘れ、論文の内容に没頭していた。
どのくらい時間が過ぎたときだろうか、不意に肌に刺さるような視線を感じた伊達は顔を上げ、何気なく横を振り返った。そこには黒いベールを顔に掛けた女性がいた。
長い喪服のような黒衣身を包み、ベールで覆われた顔はほとんど見えない。後ろには、彼女の荷物を抱えた従者らしき男数人が控えている。その一団が、ゆっくりとラウンジを横切って歩いていた。
彼女の動きは極めて静かで、まるで床を滑るかのようだった。その異質な雰囲気に、伊達は胸の奥で何かがざわつくのを感じた。彼女がこちらを向いたわけでもない。だが、なぜか彼女の存在感だけが鮮烈に意識の中に焼き付いていく。
彼女は突然足を止めた。ちょうど伊達の座っている席の横で。ラウンジの空気が振動をやめた気がした。従者もまた動きを止め、主の指示を待つように背筋を伸ばして立っている。
伊達は顔を上げ、黒いベール越しにこちらを見つめているはずの女性と視線を合わせる。いや、実際に視線を感じたのかどうかは分からない。ただ、その見えない目が、自分を凝視しているという確信があった。
「また会いましょう。」
女性は低く柔らかい声で言った。それはどこかしら抑揚がなく、夢の中で聞こえる声のようでもあった。
彼女はそれ以上何も言わず、伊達に背を向け、従者とともに静かに歩き去った。その黒いベールと衣装がラウンジの奥に消えるまで、伊達はただぼんやりとその後ろ姿を見つめていた。
「……なんだったんだ。」
女性が去ったあと、伊達は思わずそう声に出した。脳裏には、先ほどの光景が鮮明に蘇る。ベールの奥に隠れて見えないはずの彼女の目の奥に、何か言い表せない感情が宿っていたように思える。その目が「また会いましょう。」という言葉と共に残した印象は、偶然の一言では表現できないように感じられた。
しかし、合理的で科学的な思考を重んじる伊達は、その感覚を軽く頭を振って振り払った。「単なる偶然だ。気にするほどのことじゃない。」
彼は再び本に目を戻したが、読んでいる文字はなぜか一向に頭に入ってこなかった。追加で頼んだコーヒーの湯気が消えていくのを眺めながら、伊達は再び彼女の言葉を反芻していた。「……また会いましょう、か。」
それが、始まりだった。
2.
翌日の夜、伊達はラウンジの片隅に陣取り、橘薫とチェスをしていた。橘は魔術倶楽部の中でも伊達と気が合う数少ない人物で、伊達にとっては肩肘張らずに付き合える相手だった。
「今日も伊達に勝つ。」
橘は微笑みながら、ポーンを動かした。
「前回の二勝で気が大きくなっているな。いいだろう、受けて立つ。」
伊達は淡々と駒を指し、橘の攻めを受け流していく。
ふと、視界の端に人の動きが映った。奥の秘密の部屋に、香炉やキャンドル、その他の道具が次々と運び込まれているのが見える。数名のスタッフと会員が、無言のまま儀式の準備をしている様子だった。
「何をしているんだ?」
橘が興味を示して目を向ける。
「魔術の儀式だろう。」
伊達はほとんど関心を示さず、駒を進めた。
「伊達は冷めてるな。」
橘は肩をすくめた。
チェスは進み、伊達の二勝目が確定したころで倶楽部の支配人が静かに近づいてきた。
「伊達様、こちらを。」
支配人は封筒を差し出した。
伊達は一瞬目を細めたが、特に気にせず封を切る。中には簡潔な一言だけが記されていた。
──Lack of oxygen
「酸欠……?」
伊達が低く呟いた瞬間、奥の部屋から叫び声が響き渡った。
3.
ラウンジにいた会員たちは、異様な気配に顔を見合わせた。伊達はすぐに椅子を蹴って立ち上がり、叫び声の聞こえた奥の部屋に駆けつけた。橘や他の会員も彼に続く。
ドアを開けると、室内は異様な光景だった。燻る香炉の煙が部屋を満たし、数名の会員が嘔吐したり、頭を抱えてうずくまっている。何人かは顔色が青白く、息をするのも困難そうだった。
「すぐに外に出ろ!」
伊達は大声を張り上げ、動ける者たちに指示を出した。
「窓とドアを全開にしろ! 橘、急げ!」
橘は急いでラウンジの窓やドアを開け放ち、外の新鮮な空気を入れる。
「動ける者はできるだけ部屋から離れるんだ!」
伊達は息を止めて、うずくまっている男性に近づいた。肩を貸し、慎重に部屋の外へ連れ出す。吐しゃ物や倒れた香炉の灰が床に散らばる中、濃い煙がまだ残っていたが、換気が進むにつれてそれは次第に薄れていった。
4.
騒ぎが落ち着き始めた頃、医師でもある会員の一人が状況を説明した。
「これは狭い部屋に大人数が入って火を焚いたせいだ。おそらく酸素が不足し、さらに香の影響が重なったんだろう。だが命に別状はないと思う。」
伊達は額の汗をぬぐいながら、支配人に向き直った。
「先ほどの手紙だが、誰からのものだ?」支配人はわずかに眉を下げ、申し訳なさそうに頭を下げる。
「申し訳ございませんが、送り主の詳細はお答えできません。」
「そうか。」
伊達は仕方なくそれ以上追及せず、上着の汚れをハンケチで拭うのだった。
4.
数日後、伊達はある大学から講演の依頼を受けた。来年度より専門部女子部の卒業生に法学部の門戸を開くため、伊達に科学の可能性について語ってほしいというのだ。
「法学を学ぶ学生に対して科学で良いのか?」とも思ったが依頼を引き受けた伊達は、講演の日に女子学生たちの前で熱弁を振るった。
「科学の進歩は、性別に関係なく皆が貢献できるものだ。たとえば、マリ・キュリーのように。彼女の努力と探求心が、科学の可能性を大きく広げたことを忘れてはならない。」
講演を終えると、聴衆の拍手が鳴り響いた。
その後、学生たちが伊達のもとに集まり感想を伝えたり、質問をしたりする中、一人の女性がゆっくりと歩み寄ってきた。
20歳前後に見えるその女性は、艶のある黒髪を肩で切り揃え、整った顔立ちは知性と意志の強さを感じさせる。
彼女は深い瞳で真剣な表情を浮かべ、伊達の顔をじっと見つめた。
「また会えましたね。」
その言葉に、伊達は眉をひそめた。その顔に見覚えは無いが何かが引っかかる。
彼女は伊達の横を通り、教室の黒板にチョークで一言だけ書いた。
──Lack of oxygen
その瞬間、伊達の頭の中に、あの日のラウンジで見たベール越しの女性の姿が蘇った。黒い服に包まれ、深い視線で自分を見つめていたあの目……。
「君は……誰だ?」
彼女は微笑み、答えずに教室を後にした。黒板に文字だけを残して。




