燕(後編)
3.
翌日、春の陽が差し込む神戸の洋館に、再び多くの科学者たちが集まっていた。この日の目玉であるフリードリヒ・ヴィルヘルム教授の特別講演は、午後2時からの予定であった。
日本化学学会の参加者の中には最前列を陣取り、教授の登場を心待ちにする者もいた。しかし、講演の2時間前となる正午を過ぎても、教授の姿が会場に見えない。控室にいるはずの教授を訪ねた関係者が、慌てた様子で戻ってきた。
「ヴィルヘルム教授がいません!」
この知らせに、学会長を務める京都帝国大学の田邊教授は顔面蒼白になった。
「な、なんだと?昨夜、宿に戻ったはずでは……!」
手の空いているものが総出で会場内をくまなく探しても、控室はもとより、教授の姿はどこにも見当たらない。
運営事務局は不穏な空気に包まれ始めていた。田邊教授は伊達を見つけるなり駆け寄ってきた。
「伊達先生!どうしましょう!このままでは学会の体面が……!」
田邊の声は震えている。普段冷静な田邊の取り乱した姿に、伊達も事態の深刻さを感じた。
「落ち着いてください。まずは教授の滞在先を確認し、手がかりを探しましょう。」
その時、会場の端から橘薫がのんびりと歩いてきた。
「何やら騒がしいね。ヴィルヘルム教授が行方不明だったりして。」
彼の無遠慮な言葉に、田邊はさらに動揺した。しかし、伊達は橘をじっと見つめ、静かに言った。
「橘、君に少し頼みたいことがある。」
伊達と橘は教授が宿泊している近隣のホテルへ急行した。フロント係に尋ねると、教授が昨夜、午後十時ごろにホテルに戻ったのは確認されていたが、それ以降の足取りが分からないという。部屋に入った形跡もないという話に、伊達は首をかしげた。
「部屋にも入らず、どこかへ出かけたということか……。」
橘はふとロビーの隅にある置時計に目をやりながら言った。
「このホテル、夜の十時以降は食堂も閉まるし、周辺もさほど賑やかじゃない。それでも外に出る理由があるとすれば……何か特別な目的があったのかもね。」
その瞬間、橘の目がロビーに飾られた一枚の絵画に止まった。それは、神戸港を描いた水彩画で、手前には夜の街並みが広がっている。「伊達、昨日俺たちが教授と別れた時、彼は港に興味を持っていたよね?」
伊達は思い出し、頷いた。
「確かに、彼は港の景色に感動していたな……まさか、そこに行ったのか?」
二人はタクシーを拾い、神戸港へ向かった。桟橋付近を歩きながら、橘が周囲の人々に聞き込みを始めた。彼の親しみやすい態度と流暢な英語のおかげで、外国人船員たちにも話を聞くことができた。橘の父は外交官をしていたことがあり、橘はドイツ語以外も堪能であった。
「昨夜、ドイツ人の学者風の人物を見ませんでしたか?」
橘の問いに、一人の船員が頷いた。「ええ、確かにいましたよ。とても丁寧な紳士でした。港を散歩していて、夜景が美しいと感動していましたね。」
その証言を得た二人は、さらに聞き込みを続け、教授が夜の十時半ごろに桟橋近くで目撃されていたことを突き止めた。
桟橋を訪れた二人は、その端にある古びた倉庫の扉が少しだけ開いているのを見つけ、中を覗き込んだ。すると、そこには埃まみれの木箱に腰掛け、興奮した様子で何かを書き込んでいるヴィルヘルム教授の姿があった。
「ヴィルヘルム教授!」
伊達の声に驚き、教授は顔を上げた。
「おお、伊達先生。どうしましたか?」
「どうしましたか、ではありません!講演の時間が迫っているんです。」
伊達の叱責にも、教授は満面の笑みを浮かべて答えた。
「申し訳ない、つい興奮してしまってね。昨夜、この倉庫で非常に興味深い鉱物のサンプルを見つけたんです。それが気になって、朝まで調べてしまいました。」
木箱の中には、神戸港の貨物船から流出したと思われる鉱物がいくつか並んでいた。教授はそれを熱心に観察していたらしく、周囲の状況をまったく気にしていなかったのだ。
伊達と橘は教授を急いで会場へ連れ戻し、何とか講演に間に合わせた。教授の登壇に会場は拍手喝采に包まれ、彼は少し寝不足ながらも堂々と講演を行った。その様子を会場の後ろから見守りながら、伊達は疲れた表情で呟いた。「まったく、研究者というのは手がかかる……。」
橘は微笑みながら肩をすくめた。
「伊達だってその一人だろう。まあ、こうして無事に済んだんだ。よかったじゃないか。」
4.
その夜、二人はホテルのバーで静かにグラスを傾けていた。
「それにしても、あの教授はとんでもない御仁だな。」
伊達がつぶやくと、橘は笑いながら答えた。
「まあ、伊達に似てるかもな。どんな状況でも、自分の興味を優先するところとか。」
「一緒にしないでくれ。」
伊達は苦笑しながらグラスを置いた。神戸の夜景が窓越しに輝いていた。




