燕(前編)
1.
昭和6年の初春、桜の蕾がわずかに色づき始めた頃。伊達政弘は神戸で開催される学会への出席のため、東京駅を発つ特急「燕」に乗り込んだ。
最新型の鉄道車両ががホームに止まる姿は、時代の進歩を象徴していた。「燕」は、東京と神戸を最高時速66kmで結ぶ特別急行列車であり、その車内は贅沢な設えで有名だった。
伊達はこの快適な移動を少なからず楽しみにしていたのだが、目の前の光景がその気分を少しばかり削いでいた。
「おい、伊達。随分早いな。席はここか?」ダブルのスーツに身を包み、鞄を肩にかけた橘薫が、満足そうな顔をして車両の入口から現れた。
「……君がここにいる理由を説明してもらおうか。」
伊達は軽く眼鏡を押し上げ、冷ややかな視線を橘に向けた。
「理由?学会というものに興味を持つのは不思議か?」
「そう言いながら君はいつも私の予定を嗅ぎつけて、まるで犬のように付いてくる。」
橘は伊達の言葉を気にする様子もなく、席の向かいに腰を下ろした。
「いやいや、伊達教授ほど知的な人間と長時間を共に過ごせる機会は貴重だ。それに、この『燕』にも乗ってみたかった。最新技術を肌で感じたいと思っただけだ。」
「皮肉にも聞こえるが、本気でそう言っているのか?」
「もちろんだとも。俺は純粋に、知的な刺激を求めている。」
伊達は深いため息をつき、鞄から本を取り出した。車窓から流れる東京の街並みを一瞥し、静かに読書に没頭しようとしたが、橘がそんな時間を許すはずもない。
「ところで、伊達は今回の学会でどんな発表をするんだ?」
橘の問いに、伊達は本から顔を上げた。
「電気化学的分析法の応用とその限界についてだ。」
「それはまた……難解そうだな。」
「難解と思うのは君が無知だからだ。」
橘は笑みを浮かべたまま、向かいの席で足を組み替えた。
「なるほど。化学を語る姿勢は素晴らしいが、俺はもう少し現実的な問題に興味がある。例えば、神戸牛の名店などどうだ?」
「……私の時間を無駄にする気か?」
「いやいや、そうは言っていない。学問も大事だが、美味しいものを味わうこともまた人生の醍醐味ではないかな?」
伊達は再び本に目を落としながら小さく呟いた。
「やはり君は来るべきではなかった。」
列車は静岡県に入り、車窓には富士山がその雄大な姿を見せ始めた。雪化粧をまとったその頂は、青空に映えて美しかった。橘はその光景を楽しげに眺めている。
「いい景色だな、伊達。本から少し目を離してみたらどうだ?」
「富士山の姿が目新しいとは思えないが。」「確かに、富士山は何度も見ているんだろう。しかし、科学者たるもの、何事も新鮮な目で観察することが必要ではないか?」
伊達はちらりと橘を見たが、それ以上言葉を発することはなかった。代わりに、車窓を眺めながら本を閉じた。
昼時になると、「燕」の名物である洋食ランチが運ばれてきた。銀のプレートに並ぶビーフシチュー、パン、スープの香りが車内を満たす。伊達は静かにナプキンを広げ、優雅に食事を始めた。橘はその様子を見ながら、自分の皿を興味深げに眺めた。
「列車の食事とは思えないほど豪華だな。」
「『燕』はその点でも他の列車とは一線を画す。少なくとも、遅刻して団子を食べるような庶民的な経験からは遠い。」
「伊達の皮肉もだいぶ洗練されてきたな。」
橘はパンをちぎりながら軽く笑った。
列車が神戸に近づくと、橘が突然口を開いた。
「到着後、まずは神戸牛の店を案内してもらおう。」
「……君は私が何のために神戸に行くと思っているんだ?」
「それならば、学会の後でいい。せっかくここまで来たんだ。少し余暇を楽しむのも悪くないだろう。」
伊達はまたしてもため息をつきながら眼鏡を押し上げた。
「君が無駄にする時間を、どう埋め合わせるか考えながら付き合うとしよう。」
橘は満足そうに微笑み、列車の窓の外に広がる街並みを見つめた。
2.
早春の神戸。清々しい陽気が街を包む中、日本化学学会の会場となった豪奢な洋館には、国内外の科学者たちが集まっていた。
その日の座長を務める伊達政弘は、白い手袋を外しながら、会場内を慌ただしく歩いていた。
「橘、どこに行ったんだ……」
橘の姿が見えない。会場入りの際には、珍しく正装を整えた橘が、面倒そうにネクタイを締め直しながら
「暇だからうろちょろしてる。」
と言い残していたのを思い出す。
「やることがないからと言って、会場で迷惑をかけなければいいが。」
そうつぶやいた伊達は、廊下を歩きながら、顔なじみの研究者たちに軽く会釈を送る。座長という立場もあり、皆に礼を欠くわけにはいかない。
その頃、橘は会場内を気ままに歩き回りながら、展示されている最新の化学装置や、各ブースの研究発表に目を通していた。
「これがアルデヒドの新しい合成法か……。」 軽い興味を抱きながらも、彼の足取りはどこか浮ついていた。場違いなほど明るい笑顔を浮かべた橘は、他の出席者たちとは明らかに雰囲気が異なっていた。
「橘さん、興味がおありですか?」
後ろから声をかけてきたのは、東京帝国大学の若い助手で、橘と伊達を知る人物だった。
「いや、正直なところ化学のことなんてちっとも分からないよ。ただ、あの伊達が座長なんて大役を果たすところを見逃すわけにはいかないからね。」
助手は苦笑しつつ、
「伊達先生もあなたがここにいると気が気でないでしょうね。」
と一言添えた。
一方、伊達は学会の目玉でもあるドイツから招聘されたゲストスピーカー、フリードリヒ・ヴィルヘルム教授の元を訪れていた。教授は、世界的な名声を誇る化学者で、今回は「有機合成の新たな潮流」と題した講演を行う予定だった。
「ヴィルヘルム教授、本日は遠路はるばるお越しいただき感謝いたします。」
伊達はドイツ語で挨拶し、教授と握手を交わした。教授は恰幅の良い体型に白髪の頭、温和な笑顔を浮かべた人物で、伊達に対しても親しげに応じた。
「日本の学会に招かれるのは初めてですが、非常に興味深い経験です。会場も素晴らしいですね。」
二人が談笑していると、遠くから聞き覚えのある声が響いた。
「おや、伊達先生。ここで国際交流ですか?」 伊達が振り返ると、そこには橘が立っていた。学会の重厚な雰囲気にそぐわない軽やかな態度で近づいてくるその姿に、伊達は眉をひそめた。
「橘、君は少し黙っていなさい。」
しかし、ヴィルヘルム教授の目が橘に向けられた瞬間、状況は一変した。
「おや、あなたも研究者ですか?」
教授がドイツ語で問いかけると、橘は驚きもせず、流れるようなドイツ語で応じた。
「いえ、私は化学のことなどまるで分かりません。ただ、友人がこちらで座長を務めておりまして。」
教授の目が輝いた。
「なんと!非常に流暢なドイツ語ですね。まるでベルリンで育ったようだ。」
橘は笑いながら答えた。
「幼い頃、父の仕事の関係でベルリンに住んでいました。そのおかげで、こうして会話ができるわけです。」
伊達は呆れたように溜息をつきつつも、その場の雰囲気を壊さないよう黙って二人のやり取りを見守った。
しばらく談笑が続いた後、ヴィルヘルム教授がふと時計を見て言った。
「そろそろ昼食の時間ですね。お二人もご一緒にどうですか?」
「ありがたいお誘いですが、橘はともかく、私はまだやるべきことが……。」
伊達が断ろうとすると、橘が間髪を入れずに口を挟んだ。
「ランチは大切だぞ、伊達。教授もこうおっしゃっているんだ。一緒に行こうじゃないか。」 伊達は仕方なく了承し、三人で学会場近くのレストランへ向かうこととなった。
洋館風のレストランに入り、三人は窓際の席に案内された。ヴィルヘルム教授はメニューを眺めながら、日本の食文化について興味深そうに質問を繰り返した。
「日本では、昼食に何を食べるのが一般的ですか?」
橘が間髪入れずに答える。
「うどんや、おにぎりなどの軽いものが多いですかね。ここ神戸では、洋食も盛んです。ビーフシチューやオムライスなど、教授の口に合うものも多いですよ。」
伊達は少し皮肉っぽく笑いながら、橘を見た。
「君が案内役に向いているとは思わなかったな。」
「なんだ、それは。こう見えて俺は社交上手なんだよ。」
教授は二人の軽妙なやり取りに楽しそうに耳を傾けていたが、ふと真面目な表情で橘に言った。
「あなたのような若者が日本にいることを、とても嬉しく思います。これからの時代、国際的な視野が非常に重要になりますからね。」
橘は少し照れくさそうに頭を掻きながら答えた。
「それほどの人間ではありませんよ。ただ、いろいろな人と話すのが面白いと思うだけです。」
その言葉に、伊達は珍しく橘を評価するような視線を送った。
昼食を終えた三人は、それぞれの予定に戻っていった。




