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1.

 12月初めの寒さがいよいよ本格化したある夜、東京魔術倶楽部のメンバーの何人かが麻布にある田中の家に集まっていた。田中家は代々造り酒屋を営んでおり、明治から昭和にかけてその名を知らぬ者はいないほどだ。この夜も、家の広間には酒と鍋料理が用意され、熱気が漂っていた。


  暖かな灯りの下、伊達と橘も席についている。冬の寒さを忘れるような熱燗の香りが室内に満ち、田中の明るい声が響いた。

「いやぁ、今年も平穏に過ごしたいものですが、この前の浜口首相の狙撃事件で、どうもそうは言っていられないようで。」


 田中の言葉に、橘が苦笑を浮かべた。

「物騒な話ですね。でも今日はそういうのは無しにして、明るく行きましょうよ、明るく。」

「その通りです。」

田中は頷き、盃を手に取った。


 今日は河村の姿は見えない。首相の狙撃事件後、何かと忙しくしているらしい。


 田中家の奥では、賑やかな声が聞こえる。田中の妻が1歳の息子をあやしているようだ。

「ほら、たかちゃん、お客様にお出しするお魚だから触っちゃだめよ。」

 奥から妻の声が響き、伊達が微笑んだ。

「賑やかでいいですね。」

 田中がにやりと笑って返す。

「いやぁ、うるさくてすみません。まぁ、こうして家族が元気でいてくれるのはありがたいもんですよ。」


 やがて田中の妻と女中が、熱燗やあんこう鍋を持ってやってきた。鍋は湯気を立て、食欲をそそる香りが部屋いっぱいに広がった。それとは別に、アンコウの切り身も運ばれてくる。頭も尻尾も肝もたっぷり、まさに一匹を丸々捌いた様子だ。


「主人がお世話になっております。騒がしくてすみません。」

 田中の妻が丁寧に頭を下げた。橘が手を振り、同じく頭を下げる。

「いえいえ、こちらこそお忙しい時期にお邪魔してすみません。」

 田中の妻は一礼すると、追加の酒を取りに台所へと戻っていった。


「これ、追加の鍋に入れる前にアンコウをお見せしようと思いましてね。京橋市場で買ってきたんですよ。」

 田中が嬉しそうに切り身を指差す。

 伊達がアンコウの切り身をじっと見つめた。

「立派なアンコウですね。おや?」

 伊達はアンコウの口元に視線を向け、眉をひそめた。そして手を伸ばし、そっと口の中に指を入れると、小さな物体を取り出した。 


2.

「なんだこれは……?」

 伊達が手にしていたのは、真珠の指輪だった。それも、ぴかぴかと輝いている新品同様の品だ。一瞬、室内が静まり返る。

「奥様のですか?」

 伊達が尋ねたが、田中は首を振った。

「いや、見覚えないな。」


 女中がアンコウの切り身を台所へと運び出し、残った指輪を囲んでメンバーは顔を見合わせた。


 橘がぽつりと呟く。

「飲み込んでたってことか?」

「それにしては、妙だ。」

 伊達が指輪を見つめながら言葉を続けた。

「真珠の主成分は炭酸カルシウムで、酸に弱い。もしアンコウの胃の中に入っていたなら、こんなに綺麗な状態ではないはずだ。」

「そもそも、アンコウって深海魚だろう?」

 別のメンバーが口を挟む。


 田中が冗談めかして言った。

「誰かが咄嗟にアンコウの口に指輪を隠したってことはないか?」

「それは不自然だろう。」

 橘が笑いながら返す。

 ワイワイと指輪を巡る推理が始まる。「何かの暗号としてアンコウごと送る予定が手違いで売られてしまった」、「真珠を盗んだ窃盗犯が市場に逃げ込み咄嗟に隠した。」酒のつまみにちょうどいい話だった。


 そんな中、田中の妻が追加の酒を運んできた。指輪に気付くと、彼女は「あっ!」と声を上げた。

 田中が妻に向き直る。

「どうした?」

 妻は少し頬を赤らめながら答えた。

「たかちゃんが最近、色んなものを隠すのが好きみたいで……。」

「まさか、息子がアンコウの口に?」

 妻は恥ずかしそうに微笑む。

「そうみたいです。でもこの指輪、見たことないですね……あっ、そういえば!」

 彼女の目が輝いた。

「上野の松坂屋さんの催事で、ミキモトの指輪が素敵だなと思って見ていたんです。それとそっくりです。」

 妻の言葉に一同が吹き出した。どうやら田中に秘密で買ったもののようだ。


「それならば良かった。」

 橘が大きな声で笑った。

「いやしかし、1歳の子供がそんなトリックを仕掛けるとは思わなかったよ。」

「アンコウの口に指輪を隠すなんて、天才だな。」

 田中も嬉しそうに笑う。

 暖かな笑い声が広間に響き渡り、冬の夜は穏やかに更けていった。


3.

鍋を囲んだ宴は深夜まで続いた。話題は尽きず、酒も鍋も次々に空になった。深夜2時を回った頃、田中が気持ちよさそうに酔った顔で言う。

「今日は泊まっていって下さい。こんな時間に帰るのは寒いですし。朝食も用意しますよ。」

 しかし、橘は軽く首を振った。

「いえいえ、さすがに朝食までお世話になるわけにはいきませんよ。早めに出ますので。」


 その言葉通り、橘と伊達は翌朝6時に田中家を出発した。冷たい朝の空気が頬を刺すが、昨夜の酒が少し残っているのか、不思議と心地よい。橘がポケットに手を突っ込みながら、口を開いた。

「朝飯は銀座の定食屋でも行くか。いいところ知ってるんだ。」

「銀座までなら、歩こう。ちょうどいい運動になる。」


 二人は言葉少なに麻布の静かな朝の街を歩き始めた。新橋まで差し掛かる頃、橘がふと遊郭の門をちらりと見た。その瞬間、門の前から出てくる一人の男の姿に気づいた。

「……河村?」


 橘の声に伊達はぎょっとして顔を上げた。そこにいたのは、昨夜は姿を見せなかった河村だった。彼は着物の襟を整えながら、どこか眠そうな目をしている。


 伊達は咄嗟に目をそらし、気づかないふりをしようとした。しかし、橘は躊躇なく声をかける。

「おい、河村!こんなところで何してるんだ?」

河村は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに薄い笑顔を浮かべ、軽く頭を下げた。

「おはようございます。」


「まさかお前がこんな店に来るとはな。意外だな。」

 橘はにやにやしながら言う。

 河村はさらりと流すように言葉を返した。

「私も男ですからね。」


 その言葉に、橘はさらに楽しそうな顔をする。一方で、伊達は何とも言えない表情で河村を見つめていた。まるで「追及はやめてやれ」とでも言いたげだ。しかし橘は気にせず言葉を続ける。


「それより、銀座で朝飯でもどうだ?ちょうどいい機会だし。」

 河村は困ったように目を細め、少しだけ肩をすくめた。

「いや、今朝は遠慮しておきます。余韻に浸りたいのでね。」

 そう言って、軽く後ろ手を振ると、そのまま静かに路地へと消えていった。


 橘が小さく笑う。

「余韻だってよ。なんだか妙に色っぽいこと言うな。」

 伊達は小さく溜息をついた。

「からかうなよ、あいつにも色々あるさ。」

 そう言いながらも、伊達の口元にも微かな笑みが浮かんでいた。朝焼けが少しずつ街を照らし始め、二人は再び銀座に向かって歩き出した。


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