誘拐(中編)
4.
泣き止んだ優子は、橘が誘拐された場所と時間を正確に伝えた。
その日、学校帰りに銀座で買い物をする予定で、女子学習院から百メートルほど離れたバス停を橘との待ち合わせ場所にしていた。下校時、校門を出てバス停に着く寸前で誘拐されかけたのだという。下校時刻は午後三時だった。
伊達が柱時計に目をやると、すでに午後八時。五時間が経過していた。
「現場に行ってみるか」と伊達が立ち上がりかけたとき、外から犬の鳴き声が聞こえた。
「そういえば、今日はまだキャンディの散歩に行っていなかったな。」
梓が窓を開けて中庭を覗くと、柴犬のキャンディが全力で尻尾を振っていた。
「梓、車は出せるか?キャンディと一緒に現場まで行って、夜の散歩といこうか。」
伊達の言葉に、梓はすぐ運転手に連絡を入れた。
「何か、橘の匂いのついたものはないか?」 伊達が尋ねると、梓がすぐに答えた。
「たぶん、部屋に靴下が脱ぎ捨ててあると思う。」
伊達と河村は橘の部屋へ向かい、床に脱ぎ捨てられた靴下をじっと見つめた。
やがて、伊達が意を決したようにハンカチを取り出し、それをつまみ上げた。
5.
現場へ向かう車の中、キャンディは伊達の膝の上で機嫌よく鼻を鳴らしていた。隣に座る河村のことも気になるらしく、ちらちらと様子をうかがっては、また伊達に甘えていた。
「橘さんのことですから、今頃、誘拐犯と意気投合してるんじゃないですかねぇ。」
河村の声には、そうであってほしいという期待がにじんでいた。そのとき、キャンディが前脚をそっと河村の膝にのせた。まるで「心配するな」とでも言うように。
「これは頼もしいワンちゃんですね。」
河村が前脚に触れようとすると、キャンディは慌てて脚を引っ込めた。そうこうするうちに、車は女子学習院の近くに到着した。
「さて、キャンディ。お前の出番だぞ。」
伊達が橘の靴下を取り出して、キャンディの鼻先に差し出す。キャンディはクンクンと匂いを嗅ぎ、少しむせた。
「だ、大丈夫ですか?」
河村が思わず声をかけると、キャンディは「余裕よ」とでも言いたげに尻尾を立て、鼻をひくひくと動かしたかと思うと、勢いよく走り出した。
キャンディに引きずられるようにして、伊達と河村も走り出す。
「俺は家で待機をしておく、何かあったらすぐ連絡をくれ!」
走る二人の背後から梓が叫んでいた。
キャンディはそれから走り続けた。
「嵐号事件を覚えているか?」
息を弾ませながら、伊達が河村に尋ねた。「ええ」と河村が頷く。
「海軍の細菌研究所を突き止めたのは、彼女だ。」
伊達はリードの先で走るキャンディに目をやりながら言った。
6.
キャンディが足を止めたのは、ある店の前だった。古びた看板には「質」の文字がある。
伊達と河村は息を整え、しばらく店の様子をうかがった。店内の電気はついているが、暖簾は下ろされている。どうするべきか二人が迷っていると、キャンディが店に向かって突然吠えはじめた。
その声を聞いてか、扉がガラリと開き、店主らしき人物が顔をのぞかせた。
遅い時間に、小さな犬を連れた長身の男二人組。店主は訝しげな視線を向けた。
河村は間を置かず、丁寧にお辞儀をした。
「すみません、橘薫さんのことで一つお伺いしたくて。」
「客のことを軽々しく話すわけにはいかないよ。」
河村は名刺を取り出し、店主に差し出した。
「私たちは、橘の友人です。食事に行く約束をしていたのですが、彼が現れず、心配になって——。実家の犬に手がかりを探させたら、こちらのお店の前で立ち止まったんです。」
そう言って深く頭を下げたあと、さらに続けた。
「夕方以降に立ち寄ったかどうか、それだけで結構です。どうか、お願いします。」
店主は小さくため息をつき、それから答えた。
「……五時頃に来たよ。犬に吠えられるのは迷惑だ。もう帰ってくれ。」
河村は店主に礼を言い、キャンディを抱き上げた。
キャンディは驚いたように二、三度吠えたが、すぐに河村の匂いを嗅ぎ、「仕方ないな」とでも言うように、その手をぺろりとなめた。
質屋から少し離れた場所で、河村はキャンディを静かに下ろした。
しかし、時間が遅いこともあってかキャンディは明らかにやる気を失っていた。
大きくあくびをひとつすると、猫のように河村の足に身体を擦り寄せる。
「さて、これからどうするかだな。」
伊達がしゃがみ込み、キャンディの頭を撫でながらつぶやいた。




