誘拐(前編)
1.
一月も終わりに差しかかったある夜、海軍の軍医である河村学少佐は、東京魔術倶楽部の片隅で、静かにウィスキーのグラスを傾けていた。隣に座っているのは、子爵家の次男、橘薫である。
「しかし、階段から落ちて骨折とはな。河村も案外、可愛いところがあるじゃないか。」
橘はナッツを放り投げ、器用に口で受け止める。実際には、河村は狙撃を受け、九死に一生を得たのだが、それを明かすわけにもいかず、黙ってナッツをつまんでいる。
「あの子、どうなった? ハナちゃん。」
河村がどう答えたものか迷っていると、倶楽部のドアが開き、東京帝国大学教授の伊達政弘が姿を現した。
「おお、伊達も久しぶり。まさか階段から落ちて入院してたんじゃないだろうな?」
橘の軽口に、伊達はにこりともせず、革の手袋を外しながら応じた。
「実験が立て込んでいただけだ。」
伊達は河村と橘のグラスに目をやり、軽く右手を上げる。
「私にも、同じものを。」
「俺ももう一杯……いや、オレンジジュースを。」
橘の注文に、河村がくすりと笑った。
「珍しいですね。たいして飲んでないのに。まさか、階段から落ちたんじゃ?」
橘は空になったグラスを、惜しむように眺めながら答えた。
「姪の送り迎えを頼まれててね。女中がぎっくり腰で休んでいるのさ。」
橘は明日、学校帰りの姪と買い物に行くつもりだと話した。
「その後、久しぶりに飯でも行くか?」
伊達が手帳を繰りながら、ふと顔を上げて橘に問う。河村がちらりと伊達を見た。
「よければ、河村も」
伊達の言葉に、河村はグラスを軽くあげて応じるのだった。
2.
翌日の夜七時、本郷の電停には冷え込む風が吹き抜け、伊達と河村は寒さに身を縮めていた。
待ち合わせからすでに三十分が過ぎているが、橘の姿はまだ見えない。伊達は苛立ちを隠しきれない様子で懐中時計を取り出した。
「五分前行動の意義について、今、深く考えているところです。」
河村が斜め上を見ながらつぶやいた。目が少し泳いでいる。
「しかし、姪っ子さんを送ってから来るにしても、ここまで遅れるもんですかね……」
河村が視線を伊達に向けて言った。
橘の実家は春日にあり、本郷までは歩いてもさほどかからない。寄り道するような場所も、とくに思い当たらなかった。
「守衛室で電話を借りるか。」
伊達はそう言い残し、大学の方へ歩きはじめた。河村は電停に残ろうかと一瞬ためらったが、冷えきった身体を少しでも温めようと、伊達の後に続いた。
守衛室の扉を開けると、ストーブで暖められた空気が一気に凍えた肌を溶かすように広がった。 伊達が所属を名乗り、電話を借りるあいだ、河村は部屋の隅に立っていたが、初老の守衛が椅子をすすめ、湯呑みに白湯を注いだ。
「ありがとうございます。寒い中、立っていたので助かります。」
河村は丁寧に礼を述べ、湯呑みにそっと口をつけた。冷えた身体に白湯の温かさが広がり、ようやく人心地が戻るのを感じた——その瞬間だった。
電話機の前にいた伊達が急に声を上げた。
「橘が誘拐されただって!?」
白湯を喉に引っかけて、河村は盛大に咽せた。
──ハナの件か?
河村の顔に、一瞬で緊張の色が走った。 受話器を置いた伊達が、振り返りざまに声を掛ける。
「走るぞ。」
短くそう言い残して、伊達は守衛室を飛び出した。河村は守衛に軽く頭を下げると、その後をすぐさま追った。
3.
伊達と河村は、橘の実家に十分足らずで到着した。呼び鈴を押すと、橘の兄、梓が玄関に現れた。いつもは陽気な彼も、さすがに表情は沈んでいる。
「……ああ、政弘か。すまないな。」
梓はそう言って伊達を屋敷へ招き入れた。河村も一礼して、その後に続く。
リビングでは、橘の姪、優子がベソをかいていた。
「薫おじさま、私を助けようとして、代わりに……」
その瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
──姪の代わりということは、ハナの線は薄いか。
河村は顎に手を当て、静かに考え込んだ。
「警察には連絡したのか?」
伊達の問いに、梓は大きく頷いた。
「ああ。優子が狙われたんで、身代金目的だとは思う。いまは刑事が電話の部屋に詰めているが、まだ何の連絡もない。」
梓は、自身が弁護士として裁判絡みで恨みを買った可能性、あるいは父が親英派の外交官だったことから、その筋による犯行も否定できないと語った。
伊達は、優子が泣きやむのを静かに待っていた。
「どんな車だったのか、どうやって連れ去られたのか……話してもらえるかな。」
優子の椅子のそばに片膝をつき、伊達は穏やかに声をかけた。優子は右袖でぐいっと涙をぬぐう。
「学校のお迎えに来るような、ちゃんとした車だったの。私が引っぱり込まれたところに薫おじさまが来て、私を車の外に出してくれたんだけど……その勢いで、逆に車の中に入っちゃって。そしたら、そのまま車が走り出して……」
優子の声がかすれる。伊達はそっと目を細め、言葉の続きを静かに待つのだった。




