初売り(3/4)
5.
河村は少女を伴い、橘と共にタクシーに乗り込んだ。途中、適当な場所で下車して市電に乗り継ぎ、さらに別のタクシーを拾って、ようやく官舎にたどり着いた。
官舎といっても、平屋建てのこぢんまりとした一軒家である。家具は最低限しかないが、電話も風呂も備えており、暮らすには不自由しない。
玄関を入ると、河村はまず火鉢に炭をくべ、部屋を暖めはじめた。それから風呂場に行き、たらいにぬるめの湯を張り、二人を呼ぶ。
「足を見せてくれないか。」
少女はおずおずと靴下を脱いだ。河村は静かに言う。
「お湯で、足をよく洗ってみて。」
足の裏に目立った傷はなかったが、脛にはいくつか青あざが浮かんでいた。河村は険しい表情でそれを見つめ、しばらくして口を開いた。
「……少し、触るぞ。」
少女がうなずくのを確かめると、河村は彼女の足首、そして腕へと手を伸ばした。左の前腕に、かすかな違和感がある。触れた感触から察するに、以前の骨折痕だろう……。
「とりあえず、飯にするか。」
正月も二日となれば、ぽつぽつ開いている店もある。河村は「出前でも頼むか」と腰を上げかけたが、そのとき、少女の腹が小さく鳴った。
気まずそうに目を伏せる少女に、河村は頭をかきながら台所の戸棚へ向かった。
「……米くらいしか無いぞ。」
言いながら、古びた土鍋を取り出すと、計量もせずに米を無造作に放り込む。水に浸す時間は無いが、空腹は満たせるだろう。そう判断して、鍋をガス台に置き、火を点けた。
「なあ、河村。この鍋、なんだ?」
火にかける前に一度、食卓にどけた小さなアルミ鍋を、橘が不審げに指差した。
「馬鹿、開けるな!」
河村が叫んだ時には、もう遅い。橘はふたを開け、中を覗き込んでいた。
「……なんだ、これ。デザートかよ?」
アルミ鍋の中で艶やかに煮詰められた林檎が、静かに光っていた。
「パイの中身だ。それより──あの子をどうする?」
ただの足抜けなら、修道院や保護団体に預ける手もある。だが、軍が絡んでいるとなれば話は別だ。
河村は黙って土鍋を見つめた。蓋の隙間から、ふつふつと湯気が立ちのぼる。河村は火を弱める。
「橘、おまえはどう思う?」
「ん?ああ、これ、けっこう美味いな。この林檎。」
振り返ると、橘が煮詰めた林檎をそのまま手でつまんでいた。
「……後でパイにしてやるから、素手で食うなよ。」
河村は額に手を当て、ため息まじりに言った。その顔には、いつになく張り詰めた陰が差している。
「河村、今日は随分荒れてるな。軍人の顔、隠れてないぞ。」
橘は手についた蜜をハンカチでぬぐいながら、どこか楽しげに言う。
「隠す余裕が無いんだ……今日は。」
土鍋からは、香ばしい炊き立ての匂いがゆっくりと漂い始めてせいた。
「──それで、どうするつもりだ?」
塩だけで握ったむすびを並べながら、河村が静かに問いかけた。
「……あそこには、帰りたくない。」
少女は、ぽつりと言葉を落とした。
河村は無言でたくあんの皿を添えた。
「秋田のか?」
隣で橘が尋ねる。河村は「ああ」と短く応じる。
「やっぱり、故郷は恋しいもんか?」
「まあな。」
そう返しながら、河村は少女のほうへと顔を向けた。
「戻らないなら──逃げるか、海軍に飼われるか、どちらかだ。逃げるなら止めはしない。ただ……きっと連れ戻される。」
少女は一つむすびを手に取り、勢いよく頬張った。飲み込んでから、そっと口を開く。
「はな……名前は、ハナです。」
そして軽く頭を下げるのだった。
6.
簡素な食事を終えると、河村は受話器を取り上げ、上司の竹内に電話をかけた。竹内は正月で酒が入っているらしく、声はやけに上機嫌だった。
河村が事情を手短に説明すると、竹内の声が二段階ほど低くなる。
「正月早々、ずいぶんと面倒なのを拾ったな……。事情は分かった。四日まではお前が預かっておけ。──まぁ、陸さんも明日までは寝正月だろうよ。」
「自分には荷が重いかと……」と言いかけたところで、受話器からはすでに切れた音が返ってきていた。
「で、上司は何て?」
居間から橘の声が飛んできた。
「明後日まで、保護しとけ、だとさ。……悪いが、付き合ってもらう。」
「へいへい。俺は年がら年中、正月みたいなもんですから。」
河村はふっと笑って言葉を継いだ。
「外に出て顔が割れたら厄介だ。今日明日は、大人しくしてた方がいい。……パイでも焼いて、風呂でも沸かすか。」
官舎の風呂はガスでもお湯が出るが、薪で焚くこともできた。河村は作り置きのパイ生地に煮詰めた林檎を包み、鉄鍋に収める。
庭に出て七輪を据え、炭を起こした。
鉄鍋を載せ、火の様子を見守りながら、薪をひと束抱えて風呂場へ向かう。静かな湯気の立つ音と、ぱちりと薪のはぜる音が、冬の午後を満たしていった。
風呂から上がり、清潔な衣服に着替えたハナは、目鼻立ちのはっきりした、まるで人形のように整った少女だった。言い方は悪いが──「上玉」という言葉がふと脳裏をよぎる。
一方の橘はというと、さっきから居間の隅で紙と筆を手に、なにやら熱心に作業していた。
「よし、できた!」
誇らしげに紙を掲げる。
「橘さま特製、ヤジキタ双六の完成だ。」
「……何をしてるのかと思えば。サイコロは無いぞ。」
河村があきれ顔で言うと、橘はふふんと笑い、懐から得意げに二つのサイコロを取り出した。
「ふふ、用意周到。遊び人の嗜み。」
橘の作った双六には、あちこちに悪戯めいた罠が仕込まれていた。
──このマスに止まった者は、顔に墨でバツ印を描かれる。
「……一気にやってくれ。」
河村が観念したようにため息をつくと、ハナは嬉しそうに笑いながら、その頬にバツを描いた。
「パイ、食べるか?」
ひとしきり遊んだあと、河村が尋ねると、ハナは「食べる!」と元気よく答えた。
「うまいな。……前に言ってた菓子屋の話、あれは本気か?」
橘がパイをフォークで切り分けながら、さりげなく訊ねる。
「ああ。できれば早めに予備役になって、恩給をもらいながら、のんびり店をやりたいって思ってる。」
鹿角から林檎お取り寄せしました。
美味しいのでオススメです。




