第九話
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宏は家に帰るとベッドにその身を投げ出した。
『中島美紀の事故は……虐めがエスカレートした結果、生じたんだ。そして由香はその一端を担った……だが顧問の副島洋子も見て見ぬふりをしていた……』
監督責任という点では顧問の副島洋子の罪はぬぐえない。
『副島洋子はなぜ中島美紀のいじめを看過していたのだろう……もしかして彼女が主犯なのか』
宏の中で素朴な疑問が浮かんだ。
『何か理由があるのか……自分の部活の生徒が優れていれば、普通の教師なら自慢してもいいはずなのに……』
宏はそんなことを考えながら鼈甲の髪飾りを眺めた。
『しかし、どうやって副島洋子の枕元にこれを置けばいいんだろ……』
しゃがれた声の言葉を思い出し、宏は考えを巡らせたがなかなか妙案が浮かばない。
『自宅に忍び込むのはリスクが高いし、由香の通う中学校に怒鳴り込んでも意味がない……どうすればいいんだ……』
宏がそんなことを考えていると、急に睡魔が襲ってきた。
『いろいろあったからな……とりあえず今日は休もう……』
疲労困憊の宏は深い眠りに落ちた。
*
翌日はすこぶる快調で、いままでのことが嘘のように爽快であった。宏は跳ね起きると早速、学校へと向かった。
自転車のペダルが実に軽い、つい先日まで夢魔に侵食されていた時とは全く違う足の運びに宏は気分を良くした。
クラスに入りカバンをロッカーにしまうとクラスメイトの鈴木浩二が話しかけてきた。中学2年に大阪から引っ越してきた少年である、その言葉遣いは標準語からは程遠い……
「よう、宏、どないや?」
浩二は軽快な口調で話しかけてきた。
「なんか、今日は元気そうやな?」
「ああ、妹の退院が決まったんだ」
「そうなんか、良かったな……最近、何か、ボーっとしよったやろ?」
夢魔に侵食された宏はどことなくおかしかったらしく浩二は元気そうな宏を見て安心した声をだした。宏は夢魔の話をするのもどうかと思い、それを伏せて心配してくれたことに感謝した。
「そうそう、部活やけど……今週末、発表会やで」
「えっ?」
宏はここ最近、部活に参加していなかったため『発表会』の事を忘れていた。
発表会とは10月の末にある全国高等学校演劇大会の予選メンバーを選ぶための選考会である。部員32人の中から、ひのき舞台に立つ7人とその演目の脚本を選ぶことになる。部員にとっては一番重要なイベントでこの選考会がすべてを決めると言ってよい。
「まあ、お前は休んどったから『役』はもらえんやろけど……大道具と小道具とかの仕事あるやろし……」
「ああ、そうだ…ね…」
宏は演劇部に入っているが演技センスは皆無で、どちらかというと脚本や演出の方に適性があった。だが宏は一週間以上やすんでいたため演出どころか、脚本の一行も書いていない……
一方、浩二の方は役者のほうに興味があるようで、ちょっとした小芝居をクラスで見せては自分の実力を試したりしている。
「とにかく、今週末の発表会は俺にとって、ガチやからな!」
浩二は一年生ながらも7人の中に選ばれるべく練習に身を入れていたようで発表会に対する意気込みは人一倍であった。
「それから、今回の発表会はうちの講堂ではやらんからな」
「えっ?」
宏が怪訝な表情を浮かべると浩二が答えた。
「模擬テストの会場にうちの学校が使われるから、『発表会』は浅間中学の体育館でやるんやって」
「浅間中学?」
「そう俺たちの古巣や」
浩二が嬉しそうにそう言った時である、宏の脳裏に一つの考えが浮かんだ。
『副島洋子に会えるかもしれない……』
由香の属するブラスバンド部も大会前の追い込みで練習しているのは間違いない。宏は思わぬチャンスが巡ってきたことに気が付いた。
「どうしたんや、変な顔して?」
浩二に尋ねられた宏は平静を装った。
「いや、なんでもない……それより『役』がとれるといいな」
宏はそう言って話題を変えると浩二の肩をポンとたたいた。
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時の巡り会わせとは不思議なもので、宏にとって『発表会』は渡りに船であった。必要な小道具を浅間中学の体育館に運んだ宏は発表会の本番まで暇になり、手持無沙汰になったのである。
『いましかない……』
宏はそう思うとトイレに行くふりをして副島洋子を探すことにした。
古巣の中学校だけあって勝手知る校舎内は庭のようで、目的の部屋に行くのに3分とかからなかった。
『練習中にいきなり、顔を出すのも……マズイな……休憩まで待つか……』
宏が第二音楽室の前でそんなことを思っていると、突然、後ろから声をかけられた。
「あなた、誰?」
不審者だとおもった声の主は宏に対し、厳しい声をかけてきた。
「どこから来たの!!」
宏は詰問口調で語りかける相手に対し、振り向いてその顔を見た。
『あっ……この人……』
なんと、声をかけてきたのは副島洋子であった。
*
宏はここがチャンスとばかりに話しかけた。
「田中由香の兄です。妹がお世話になってます。」
「あ、ああ、由香ちゃんのお兄さん……」
まさか由香の兄がいるとは思わず洋子は口ごもった。その様子は驚きだけでなく、明らかに平静を取り繕おうとする匂いがあった。
「今日、部活の発表会がここであるんで、ついでに妹が世話になってる先生に挨拶しようと思いまして」
宏はそつのない会話で副島洋子にコンタクトした。
洋子はそれに対し、教師としての威厳を前面に押し出した口調で答えた。
「えらいわね、わざわざ、挨拶なんて」
洋子の口調は本心を隠すためのカモフラージュに思えたが宏はそれを隠して続けた。
「おかげさまで、由香が退院できることになりまして……」
宏はそう言って洋子の目を見た。
「そう、良かった……」
洋子の口調は無味無臭なもので、言葉の裏側にある彼女の意図は隠されていた。
「妙な夢を見ていたようで、妹は苦しんでいたんですけど……それも見なくなって、明後日で退院です。」
「そう……」
副島洋子は宏を見ると落ち着かない様子で答えた。
「先生、中島美紀ちゃんの事なんですけど……妹は彼女のことで思い悩んでいたようなんです、先生、何かご存じ……」
宏が語尾を続けようとした時である、副島洋子はそれを遮った。
「あれは事故です。不幸な事故です!!」
一瞬にして目が血走り副島洋子は反論を許さぬ口調で宏に畳み掛けた。宏は副島洋子の剣幕に色を失った。
「もう、行かなきゃいけないから……」
平静を取り繕うと洋子は音楽準備室へ向かうべく踵を返した。宏は洋子が動揺しているのをその背中から感じると勇気をもって声をかけた。
「先生!」
呼びかけられた洋子は振り向いた。
「先生も、妙な夢を見てるんじゃないんですか?」
宏がそう言うと洋子は喉を震わせた。
「妹は悪夢に苦しめられ、命を落としかけました。先生も『アレ』を見ているんじゃないですか」
宏がそう言うと副島洋子はそれに答えず音楽室の扉を開けた。
*
副島洋子が扉の中に消えると、しゃがれた声が宏に語りかけた。
『相当、マズイな……侵食が進んでる……』
それに少女が続いた。
『ああ、芯のほうが喰われている……急がないと……』
その会話を聞いた宏は声を上げた。
「どうすればいいんですか?」
『あの女の夢の中に入らないと駄目だ……髪飾りをできるだけ近くに……』
しゃがれた声がそう言った時である、背中から声をかけられた。
「おい、宏、何やってんねん?」
大声を上げたのは浩二であった。
「荷物まだ残ってんねんぞ!!」
本番が近くなって浩二の口調には緊張感が滲んでいた。宏はそれを察するととりあえず誤った。浩二はそれを見ると『急げ!』と顎をしゃくった。
「すいません、しゃくれさん!」
宏が浩二の愛称を呼ぶと浩二が切り返した。
「誰が、しゃくれじゃ!!」
お笑い芸人張りのツッコミの切れに宏は舌を巻いた。
「関西人なめんなよ、お前!」
そう言ったところで浩二が口調を急に変えた。
「……ところでお前、今、誰としゃべっとったんや?」
浩二は不審な表情を見せた。
「誰もおらんけど……妙な声、しよったぞ」
宏はわざと首をかしげると子犬のような顔を見せてその場を誤魔化した。
部活の顧問、副島洋子と接触に成功した宏は彼女の状態が芳しくないことに気づきます。ですが彼女との会話は途中で打ち切られ、結局、髪飾りを渡すことはできませんでした。
さて、この後、どうなるのでしょう……