第5話 後醍醐天皇陛下の想いから、南北朝時代に
ともかく後宇多上皇陛下は、後醍醐天皇陛下に様々な枷を嵌めることで、自らの嫡長孫になる邦良親王殿下とその子孫が、大覚寺統を受け継げるように図りました。
例えば、大覚寺統の最大の財政基盤と言えた八条院領の荘園群ですが、後醍醐天皇陛下が崩御された後は、邦良親王殿下とその子孫が継承するように、と遺言を残しています。
これは更なる皇統分裂を避けるべきという現実的観点からも、当然の話です。
ですが、後醍醐天皇陛下にしてみれば、自分の甥になる邦良親王殿下よりも、自らの息子に皇位を継承させたい、というのが人情、父親としての想いです。
更に言えば、邦良親王殿下(というより、その支持者達)は、速やかに後醍醐天皇陛下を退位させて、自分を即位させようと図る事態が徐々に起きて、叔父甥の関係は険悪になる一方になりました。
(尚、結果的に義兄弟(?)になった恒明親王殿下と後醍醐天皇陛下との関係は良好だったようです)
更に言えば、後醍醐天皇陛下は即位されたときに、既に30歳になられており、複数の皇子がおられる身でもありました。
(唯、細かいことになりますが、「元弘の変」以前に生まれていた複数の皇子の内、後述する世良親王殿下以外の生母は皆が摂家、清華家出身ではなく、その為に世良親王以外の皇子全員が皇位に遠い身で、そうしたことが、この後に付きまとうことになります)
ともかく、こうした背景が、様々な軋轢を引き起こすことになります。
例えば、平成以前の旧通説では、「正中の変」は後醍醐天皇陛下の討幕の陰謀とされていましたが、令和以降の新たな有力説では、それに多大な疑問が呈されて、邦良親王周辺か、又は持明院統による陰謀に後醍醐天皇陛下が巻き込まれたとされています。
(これについては、北畠親房が「神皇正統記」において、「正中の変」は後醍醐天皇陛下自身が、自らの策謀に因ると自分に語ったとしていることから、当事者の証言なので間違いない、という説が従前は強くて通説化していましたが。
新たな有力説は、様々な反証を挙げて、それに疑問を呈しています。
(この辺り、深掘りすると数千字は掛かるので、敢えて省略します)
実際問題として、当事者の証言が常に信じられるでしょうか?
それこそ現実の裁判でさえ、偽証があるのが現実では?
そうしたことからすれば、新たな有力説が間違っているとは言い難い、と私は考えます)
ともかく「正中の変」で疑惑が掛けられたこともありますが、後醍醐天皇陛下としては、自らの中宮になる西園寺嬉子の子か、世良親王殿下を大覚寺統の皇位継承者にしたい、と考えていたようですが。
西園寺嬉子との間に皇子は産まれず、世良親王殿下は1330年に夭折されます。
そうしたことが、このままでは自分の子孫は皇位継承者になれない、という想いを後醍醐天皇陛下に募らせることになり、1331年の元弘の乱につながった、と今の私は考えています。
そして、この元弘の乱を、一旦は鎮圧できたように見えた鎌倉幕府ですが。
後醍醐天皇陛下の挙兵は失敗したものの、護良親王殿下や楠木正成らはしぶとくゲリラ戦を展開し、此れを見せられた反鎌倉幕府勢力は、此れは鎌倉幕府打倒の公算があるのでは、と考え出します。
こうしたことが、足利尊氏等の決起を引き起こすことになり、鎌倉幕府打倒という結果になりますが。
これは、ある意味では革命が起きたということであり、フランス大革命やロシア革命と同様に、酷い社会の混乱を引き起こすことになります。
そして、フランス大革命等と同様に、そういった社会の混乱を鎮めようとする混乱が長期間に亘って続くことになって、「南北朝時代」を日本は突入することになりました。
これで、本編(?)を終えて、明日、南北朝時代になって以降の後醍醐天皇陛下の子孫以外の大覚寺統に関する話を1話、余談として投稿して完結させます。
本当にこの辺りの話ですが、深掘りしだすと幾らでも転がる話で、すぐに数万字で済まず、十万字を軽く超えるエッセイになりそうで、敢えて軽めのエッセイでまとめることにしました。
もっと描け、と圧力が掛かって当然ですが、平にご寛恕を願います。




