その4
*
「***は、昨夜――……」
ドサリ、と荷物が落ちる音がした。手に持っていた袋が異様に軽くなった。それもそうだ。少年自身が手放したからだ。
真白な床に、カラフルなビーズが散った。飴玉みたいに、コロコロと転がってリノリウムの上を駆けていく。
少年は、とある少女とアクセサリーを作る約束をしていた。毎日のようにここで顔を合わせて、他愛もない話をしながら少女の願いを叶えてあげるのが、少年の日課であり、幸せだった。
それは、ある日突然終わりを告げた。
理由は単純明快で、中学生の少年にも理解できた。
彼女が、帰らぬ人となったのだ。
少年は涙した。
静かに、はらはらと雫を零しながら、彼女の名前を呼んだ。白い布を被った彼女は、そこに居るのに遠い世界に居た。
「これ、君宛てに……」と、少女の両親が少年に手紙を差し出した。泣きはらした少年は、ゴシゴシと目を擦ってそれを受け取る。
封筒には、少年の名前が書かれていた。中学生にしては随分と整った、綺麗な字だった。
「少し、二人きりにしてくれませんか。我儘を言ってすみません」
少年は手紙を握ったまま、大人たちに頼みこむ。最低な我儘だとは自分でも理解していたが、家族よりも長い時間共に笑い合った彼女との別れを、二人きりで済ませたかったのだ。
少女の家族は少年の気持ちを汲み、部屋の外へと出ていく。少年は、口を開くことのない少女の前で、その手紙を開いた。
内容は、感謝と謝罪であった。
そこに綴られた今までの思い出は、少年に再び落涙させる。少女は、少年との時間がこの世の何よりも幸せだったのだ。自分の運命を呪うこともなく、短い生涯の中で多くの幸福を手に入れられたと綴られていた。
だが、少女にはたった一つ後悔があった。
それは、手紙の最後に震えた文字で綴られている。もう二度と叶うことのない願いが、そこにはある。
少女の願いを見て、少年は唇を噛みしめた。
そこに書かれていた願いは――……
*
パチッと音がして瞼が開いた。
妙に鮮明な視界に飛び込んできたのは、絵の具をそのまま溶かしたような、鮮やかな青だった。宙を揺蕩う綿雲は、ふわふわと笑いながらどこかへと流れていく。
体中が痛い。それに、なんだか感覚が変だ。
俺は不思議に思ってゆっくりと上体を起こした。
だが、そこにあった光景に再び気を失いそうになる。
「お、折れてる……⁉」
俺の右足は、あらぬ方向へと曲がっていた。それを自覚した途端、ジクジクと熱を持った痛みが右足から湧き出てくる。
おまけに上体を起こすときに地についた手も傷だらけで、指がいくつか動かない。なんだか、頭もすごく痛い気がする。
何があったんだっけ、と俺はボーっとする頭で考える。そうすれば、意外にも簡単に事の経緯は思い出せた。
俺は、三階の窓から投げ出された。抗う術なんてなくて、そのまま地面に落下した。全身を砕くような痛みが走ったのも覚えている。そういえば、最後に一吹が降ってきたような……。
「い、一吹っ!」
俺はすぐ横に倒れていた一吹をようやく視界に捉え、慌てて名前を呼んだ。彼の体を揺さぶろうとしたところで、異変に気が付いた。
「う、うわあああっ⁉」
彼は頭から血を流して地面に倒れていた。顔はうつぶせになっていて見えない。投げ出された手は俺の足みたいに歪に曲がっている。
よく見れば、俺が寝転んでいた場所も赤い液体がペンキをぶちまけたみたいに広がっていた。
明らかに致死量だ。
それなのに、俺は生きている。痛みも感じるが、見た目にしては痛みが少なすぎる。
「ん……繋……?」
俺の叫び声を聞いて、一吹が居眠りから目覚めるようにのんびりと起き上がった。
「い、いい一吹、それ大丈夫なの⁉」
「へ?いや大丈夫って何……は⁉繋、お前どうした⁉」
「なに⁉」
「むりむり、ハロウィンの仮装か⁉怖いからやめろよ!」
一吹は半泣きになりながら、俺から後ずさる。青ざめた顔に、俺は嫌な予感がした。
「……俺、どうなってるの?」
「あ、頭から大量の血流してる……顔血まみれだぞ……」
「マジかぁ……」
俺は額を押さえて溜息を吐いた。
三階から、しかも頭から真っ逆さまに落ちればこうもなるだろう。何故生きているのかは不明だが、かなり酷い状態のようだ。
「……俺、生きてる?」
「生きてる。オレは?」
「生きてる」
「そうか」
二人してそう確認し合うと、何とも居心地の悪い沈黙が満ちた。
「いやいやいや、これどうなってんの⁉世界の秘密とか以前に一番ヤバイことになってない⁉」
「お、落ち着け繋……!やっぱオレたちは不死身の実験させられてんだって!」
「……一吹の言うこと、なんか正しいように思えてきたな」
頭がクラクラする。
俺は顔についた血を拭いながら再び溜息を吐いた。
何がどうなっているのだろう。一吹の仮説を聞いて、実験体云々の話も頭の片隅にはあったが、いざそれが現実味を帯びてくると混乱する。俺たちは本当に死なない体になってしまったのだろうか……?
そう思った時、ザザッと音がして視界が乱れた。何の音かと首を傾げていれば、視界に映る折れ曲がった自分の足がみるみるうちに元に戻っていった。小さな光の粒子が足の先端から太ももの方まで迫り、折れた足を治していく。
それは一吹も同じようで、血まみれの体が光の粒子によって元通りになっていった。
「……本気でなにこれ」
「オレにもわかんねぇよ……一瞬で怪我が全部治っちまった」
「血の跡も少しずつだけど消えてくし……もう、何が起きてるのやら……」
俺たち二人がありえない事象に混乱しながら話しているうちに、落下して完全に死を迎えたはずの体は元通りになった。ゲームによくある回復魔法を受けた気分だ。
俺も一吹も北原も、怪我をしてもすぐに治癒された。今まで何度か軽い怪我はしたことがあったが、こんなに早く治っただろうか。いや、よくよく考えれば、怪我の治りは異常なくらい早かったかもしれない。それも世界の常識とやらの一部だったから今まで何の違和感も覚えなかったが、今となっては違う。
「……」
「一吹、どうかした?」
黙り込んで掌を眺めている一吹に問いかけた。
「いや、さっき思い出してさ」
「え、ホント?」
「あぁ。繋を助けなきゃって思って飛び降りた時、走馬灯みたいな感じでさ。同じことが、昔にもあったなって」
「え……?」
俺は目を見開いた。
同じこと。つまりは、あんな高い窓から一吹は飛び降りたことがあるのだろうか。それとも、別の誰かなのか。
「光牙がさ、上級生の怒りを買った時だよ。ちょっとした喧嘩みたいになってな、廊下で言い争ってたんだ。光牙は確かに問題児だけど、人を傷つけるようなヤツじゃなかった。たぶんな、それが上級生を余計に苛つかせたんだと思う」
俺達と共に落ちてきたであろうアルバムを拾いながら、一吹が懐かしむように語った。きっと、自分で口に出しながら記憶を確認しているのだろう。一吹の顔は、ひどく悲しそうに見えた。
「オレが止めに入ろうとした時だった。上級生が罵声を浴びせながら光牙を突き飛ばしたんだ。ドラマのワンシーンみたいだった。光牙は受け身をとれなくて、そのまま開いてた窓から外に放り出された。その時のこと、今やっと思い出したよ」
一吹は俺達が飛び出した窓を見上げ、悔しげに歯を鳴らした。
「初めて、光牙の焦った顔を見た。助けを求めてた。でもオレは、動けなかったよ。あまりに衝撃的すぎて。……そこからは、よく覚えてない。葬儀には出たし、長い時間を経て学校生活にも復帰した。……ずっと、何かが足りない生活だったけどな」
「……一吹」
「そんな顔すんなよ繋。オレ、大事なダチを思い出せてよかったと思ってんだ。あんな衝撃的な別れ方したくせに忘れたままとか、アイツに怒られちまうからな」
一吹はへらりと力なく笑う。見た事もないくらい、一吹は泣きそうな顔をしていた。
「オレ、アイツと約束したんだよ。一緒にレギュラーになって、全国大会で優勝しようって。ありきたりだけど、青春って感じがしていいだろ?」
「……うん」
「それなのにアイツは早くに逝っちまうなんて……」
一吹はそこまで言って口を噤んだ。
返答に困った。ここで励ますのも違う気がするし、ましてや一吹のせいじゃないよと言うのは禁句のような気がして。
自分の目の前で友人が死ぬなど、考えたくはない。だが、なぜか俺にはその気持ちが痛いほどわかってしまった。
さっき意識を飛ばしていた僅かの間に見た、奇妙な夢のせいだろうか。あの白い部屋で見た夢の続きのようなものだった。
あれが本当に俺の記憶ならば、俺は誰か大切な人を亡くしている。おそらくその人との思い出か何かが、俺の大切な記憶なのだろうが、肝心なあの少女の顔と名前が思い出せない。
「なぁ、繋。光牙のヤツ、怒ってるかな?」
「へ……?」
「なんで助けなかったのかって。オレがもっと早くに止めに入っていたら、今頃は光牙もここで一緒に楽しくバカやってたかな?」
助けを請うような顔をして、一吹が俺に訊ねてくる。
俺は彼から目を逸らした。話したこともない相手のことなど、正直言ってわかるわけない。だけど、もし俺が二見の立場だったら、一吹にそんな感情を抱かない。
窓から放り出された後、意識を失う直前に見えた一吹の顔はかなり焦っていて必死だった。そんな必死な顔をして手を伸ばしてもらえるほど、俺は彼に友達として想われていたのだろうと、あんな状況ながら嬉しくなった。
……二見も、そうであればいいのに。
「俺は二見じゃないからわからない。でもさ、怒ってないと思うよ。一吹と二見は親友なんでしょ?」
「そうだけど……」
「なら、信じてあげなよ。怒ってないってさ。一吹はそう思いたいでしょ?二見のことは一吹が一番わかってるんだから、一吹が思ったことが正解なんじゃない?」
上手く言葉にまとまらなくて、話しながら俺自身が混乱してしまった。言いたいことは、ちゃんと伝わっただろうか。そう心配しながら顔を上げれば、涙を滲ませて静かに微笑んだ一吹と目が合った。
「……そうだな」
乱暴に涙を拭って、一吹はいつものように眩しい笑顔になった。
「ははっ、何かいろいろ思い出したらスッキリした。ありがとな、繋」
「俺は何もしてないよ」
「記憶を取り戻すきっかけをくれたのも、悩むオレを励ましてくれたのも繋だろ?オレ、お前が友達で本当に良かった。最高の親友だよ」
「なんだよ、急に照れくさいね」
「なんか、早めにそう伝えておかないといけない気がしてさ」
一吹は悲しみを混ぜたような微笑を湛えると、消え入りそうな声で言った。
幼馴染で親友の二見の死を思い出したから、そう不安になるのも仕方ないだろう。一吹はきっと、二見にもそう言いたかったはずだ。
「あれ……」
「ん?どうした、繋?」
一区切りついて、俺は違和感に気が付いた。二見は、一吹の話では少なくとも一年前以前に亡くなっているはずだ。上級生との喧嘩が原因と言っていたが、三年生であるオレたちに上級生はいない。
だが、二見は既にこの天明高校を卒業している。全国大会に行く前、おそらく高校一年か二年、もしくは中学生の時に二見は亡くなっているはずなのだが、卒業したというデータが残されていた。
「……一吹、何度も確認するようでごめんね。二見とは同い年なんだよね?」
「おう。幼稚園から一緒だから間違いねぇ」
「……聞きにくいんだけど、二見が亡くなったのはいつ頃?」
「あー……中学二年の終わりだったはず。三年が進路も決まってあとは卒業するだけだったのに、大きな事件になっちまって、いろいろ大変だったって話聞いたから」
中学生の時に亡くなっているのに、高校を卒業している?
一体どういうことだ。何だろう、明らかにおかしいのに異常だと捉えられないこの感覚。
「一吹、変だよ」
「え、何がだよ」
「だって、二見は高校には行けなかったんでしょ?それなのに、卒業生の冊子に載ってるって……」
俺が告げると、一吹が青ざめた。彼にもようやく理解できたらしい。
「おいおい、どういう……?あれ、二見じゃなかったとかそういうオチ?」
「名前は確かに二見光牙だったよ。見た目も、一吹が持ってるアルバムの写真に写ってた人と同じだよね?」
「……あぁ」
「二見は、生きてる……?」
「そんなわけねぇよ。オレ、あいつの葬儀でてるし、この目で死んだところも見た」
「……じゃあ」
答えは導き出せなかった。
死んだはずの人間が、この学校で青春を送り、無事に卒業している。一吹の言う人体実験の話が、さらに信憑性が高まってきた。不死身の実験は生きている俺たち、死者蘇生の実験は死んだ二見に。
でも、そう仮定するとこの年齢の差はなんだろう。単純に生き返った時点から高校生として生活させられていたのかもしれないが、それでもどこかで俺たちは遭遇していたはずだ。
俺は学校で一度も二見の姿を見かけたことがない。
この違和感の正体が、あと少しで掴めそうで手が届かなかった。
「……んだよ、マジでどうなってんだ」
「あと少しで分かりそうなんだけど、まだ手が届かない気がする」
「光牙……」
一吹は小さく二見の名を呼んだ。
彼が帰らぬ人だというのは、分かっている。だが、この学校を卒業したというデータは確かにあった。
もしかしたら、なんて夢みたいなことも考えてしまう。
「……このこと、何か分かればいいのにな。一応情報は探してみる」
「うん。俺も何かあれば協力する」
「ありがとな。……その前にさ、繋は記憶取り戻せたのか?」
「いや、まだだよ。でも、あと少しのとこまで来てる」
「そっか。そっちこそ何かあれば協力するからな」
「ありがとう」
すっかり元通りになった体で、俺達は協力の意味も込めてグータッチを交わした。
きっと、真実はもうすぐそこにある。
俺達が置かれているこの状況は、映画のクライマックスシーンに近い。そんな予感がしている。
「後は繋とこころだけか。全員が記憶取り戻せたら、行くべき世界ってのにいけるんかな」
「どうだろう……。今のところ何も起きていないのなら、そうかもしれない」
「そういや、肝心のこころを見かけてねぇな」
「言われてみれば俺も、今日は一度も見かけていない」
一吹に言われて記憶を辿る。夕凪はいつも、用事はなくても俺に挨拶をしにくる。今日は俺が随分と早く登校して、校内を歩き回っていたから遭遇しなかったのかもしれない。
けれど、連絡の一つもないのは初めてのことだった。会えなかった時はメッセージで挨拶を交わしていたこともあったのに。
……何かあったのだろうか。
「繋、大丈夫か?」
「え?あぁ、まぁ……」
「こころのことか?」
「うん。何かあったのかなぁって」
そう口にすれば、一吹が複雑そうに目を逸らした。
「アイツは何かあっても自分で対処できるだろ。オレたちの誰より賢いし、アイツの判断はだいたい正しいしな」
「夕凪のこと信頼してるんだね」
「そりゃあ、ダチだからな。……正直、不思議なことがありすぎて疑ってる部分もあるけどよ。それでも、アイツはオレの大事な友達の一人なんだよな」
一吹が照れくさそうにそう言った。
昨日、あんな風に冷たく言い放っていたが、結局のところ一吹は夕凪のことを信頼しているのだ。それ故に、正面からぶつかるような真似をしたのかもしれない。
「さ、どうせ一限サボっちまってるし、何かないか探しに行こうぜ」
「そうだね」
後でまた説教だろうなぁ。
死んだ目でそう思いながら、俺たちは秘密を探りに校舎内へと戻っていった。




