番外編、ちっちゃい手
コミカライズ2巻発売記念の番外編です。
ふたりが再会して沖縄旅行に行くまでの間の、付き合いそうで付き合わないモダモダ期間の話。
「それで桐原、お前まだ付き合ってねえの?」
そう尋ねられ、蛍明はパソコンの画面から顔を上げた。
蛍明の斜め向かいから声をかけたのは、先輩同僚の須田だ。
事務机を七台並べた部屋には、彼とあとふたりの女性社員が向かいで仕事をしている。彼女たちも興味津々にこちらを見ていたが、蛍明は眉尻を垂らし弱りきった声で言った。
「まだっていうか、無理ですよ俺なんか……」
もちろんそれは、日花の話だ。夏に再会して秋も深まりきってとうとうコートが手放せない時期になったというのに、一切なんの進展もない日花との関係の話だった。
「いけると思うけどなぁ……」
須田の声に、女性社員もうんうんと頷いている。
飲みの席で片思いをしている女の子がいると言ったのは蛍明だったが、その片思いにアドバイスをしたり娯楽にしていた彼らにも、最近はこうやって呆れたような顔をされることが増えた。
「海外俳優好きの面食いって言っても、そんなレベルの男なんて身の回りにいないでしょう?」
女性社員の疑問に、ふるふると首を横に振る。
「詳しく言えないんですけど、周りにイケメンうようよしてるんです」
イケメンに見える幽霊だけではない。日花は時々両親の仕事に付き添って、一般市民には一生縁がないような華やかなパーティに参加することがあるらしい。そこに芸能関係者や映画ドラマに出ているような俳優もいると知ったのは、つい最近彼女にカメラロールを見せてもらっている時、蛍明でも知っているような俳優とのツーショット写真を偶然見たからだ。聞くと写真を撮ったあとに連絡先を聞かれたり食事に誘われたりしたらしいが、彼女は素気無く断ったそうだ。パーティに参加するような友人に、あの俳優は女遊びが激しいから気を付けろと教えてもらっていたらしい。女遊びが激しくなければ連絡先を教えたのか、とは聞けなかった。
「え……芸能人とかではないよね?」
「違います。本人は。でもめっちゃ美人です」
その言葉で都合よく解釈してくれるだろう。
須田が体を乗り出す。
「なあ、好きな子の写真見せろよ」
「嫌です」
「なんで?」
「写真見せて美人って言われたらヤキモチで殴りそうだし、美人じゃないって言われたら普通に殴りそうなんで」
「めんどくさ……」
「桐原くん、どれくらいの頻度で会ってるの?」
目の前に座る女性社員の問いに、うーんと顎に手を当てる。
「最低でも……週に一回は」
「それもう付き合ってる回数じゃん」
須田はそう言うが、蛍明は項垂れながら首を振った。
「そういう次元じゃないんです。まず男だと思われてないかも。平気で俺の部屋くるし、自分の家に呼ぶし」
「……」
「俺の前でこたつで寝こけるし」
「……お前惚気てんの?」
「惚気たいんすよ!」
必死に叫ぶが、ただただ呆れた視線が三組飛んでくるだけだ。
「いや分かってるんですよ、別の子やったらいけるって確信するレベルなんは! 俺だって別に女の子とおてても繋いだことないわけじゃないですから! でもあの子はなんかちゃんうんですよ……! 俺は恋愛対象じゃなくて、なんか、人畜無害な犬とか猫とか、そういうのに分類されてる……!」
日花は人間と深く関わりたがらない。それは幽霊が見えるという体質がそうさせていることは、彼女自身から聞いていた。あまり詳しく語りたがらないが、幽霊が一切見えない次兄との確執も関係していそうだ。
そんな彼女が、蛍明の前でだけ素を見せる。
もし出会い方が違えば、心を許してくれたと喜んだだろう。しかし蛍明は幽霊として彼女と出会った。彼女は出会ったその日にひとり暮らしの部屋に蛍明を招き入れ、寝室に入れ、触れられない手を握って、そして寄り添ったまま眠ったのだ。その頃と今と、何も変わらない。
同僚の手前犬や猫と表現したが、彼女の中ではまだ自分は人畜無害な幽霊なのかもしれない。今なら触れられることも、しようと思えば赤子の手をひねるくらい簡単に組み伏せられることも、忘れているのかもしれない。
「ああ、まあ、桐原くんっておっきい犬っぽいよね。その好きな子と会った時に尻尾ぶんぶん振ってそうなのが目に浮かぶ」
「じゃあその犬猫扱いから男にカテゴライズされりゃいいんだろ?」
「そういうことですね」
「女性陣、女の人ってどんな時に男にドキッとする?」
須田の質問に、彼女たちは顔を見合わせてうーんと唸る。
「そうだね、体格差とか?」
「手が大きくて節ばってたらドキッとするかも」
「手……」
キーボードを打っていた手を持ち上げる。女性に比べたらもちろん大きいが、特筆することもないごくごく平均的な大きさの手だ。
まじまじと見つめる蛍明の向かいで、同じように自分の手を眺めていた女性社員が手荒れが気になったのだろう、おもむろにデスクからハンドクリームを取り出す。
蛍明もささくれた指先を眺めながら手入れをしたほうがいいのかと考えた時、女性社員が「うわ」と声を上げた。
「出しすぎた。ちょっともらってくれない?」
「いいですよ」
返事をした隣の女性社員と、ふたりは握手をするようにクリームを分け合っている。
その様子を見て、ずどんと頭に天啓が落ちた。
「それや」
その場の視線を集めながら、蛍明は高らかに叫ぶ。
「それで合法的に手ぇ繋いで手の大きさアピールすればええんや……!」
「関西弁出てるよ」
もらったハンドクリームを指の先まで塗り込みながら、若い女性社員が眉を顰めたまま言う。
「正直に言いますけど、その片思いの子が桐原さんのこと好きじゃなかったら、ただの男友達に手をベタベタ触られるとか普通にないし普通にキモいですからね」
キモいという言葉に打ちのめされて、それからふと思い出して言い訳がましく言う。
「手、繋いだことあるし……」
「どんな時に?」
「めちゃくちゃ久しぶりに会った時、お互いテンション上がってずっと手繋いどった……」
須田がぐわっと目を剥く。
「もう付き合えよ! それはもう付き合えよ!」
「桐原くん、大丈夫? 言っちゃ悪いけど、都合のいいように利用されてない? よく奢ったり色々買ってあげたりしてるんでしょ?」
それはプライベートの友人にも同じことを聞かれたことがある。しかし疑ったことはない。
「や、それはないです。あっち実家太いから金になんか困ってないし。俺が奢るのと同じくらいよく料理作ってくれて食べさせてくれるし」
「もう付き合えよ……!」
叫んでから須田はそのままデスクに肘をつき、両手に顔をうずめてしまった。それに言い返そうとした時に、部屋がノックされ別の同僚が顔を出す。
「須田さん、ご来客です!」
「了解でーす!」
飛び出していった須田に続くために用意していた資料をがさがさとかき集める。
「まあ桐原くん、私は止めないよ、ハンドクリーム作戦。面白そうだし」
「私は応援してますよ桐原さん。面白そうだし」
完全に面白がっているふたりをじっとり睨んで、資料を両手に抱えて蛍明も部屋を飛び出した。
*
その日の帰り、蛍明は早速ドラックストアを訪れていた。初めて見たハンドクリームのコーナーには思っていた十倍の商品が陳列されていて、効能も匂いも価格も様々で眺めていると目が回りそうだ。
ふと目についたのは、蛍明でも見たことのある青いパッケージのハンドクリームだ。名前も聞いたことがあるくらい有名だということは、良いものではないだろうか。値段が周りよりもひと回り安いことが気になったが、小さいチューブタイプのものをカゴに入れる。あとは酒と、日花がこの間ばくばくと食べていたつまみのナッツをいくつか。
何か買うものはなかったかとスマートフォンの買い物メモを眺めていると、ぱっと画面が切り替わる。
バイブと共に画面に表示されたのは、これから家に来る予定の日花の名前だ。口の端がムズムズと持ち上がるのを我慢しながら通話ボタンを押す。
「はーい」
『蛍明、今どこにいる?』
「マンションの近くのドラッグストアやで」
『分かった。あと五分くらいでマンションに着くから、前で待ってるね』
「オッケー、すぐ帰るわ。なんか欲しいもんある?」
『ううん、大丈夫』
「ん、分かった」
電話を切ってからすぐにレジに向かう。店を出ると、自然に駆け足になった。
角を曲がればすぐにマンションが見える。そのオートロックの自動ドアの前に日花を見つけて、体の中から喜びが溢れて一瞬空を飛んだ気がする。
「日花!」
思わず声を上げる。彼女もこちらに気付いたようで、その顔に満面の笑みが浮かんだ。
「おかえり、蛍明」
何度見てもその笑顔に心臓を締め付けられる。あまりにも愛しすぎて、だ。
「ただいま」
今のやりとりは新婚のようだった。にやけそうな顔を我慢しながらふたりで部屋に入り、寒い寒いと体をさすりながらエアコンとこたつのスイッチを入れる。
脱衣所でスーツから部屋着に着替えている蛍明に、扉の向こうから日花が声をかけた。
「お酒買ってきたの? 冷蔵庫に入れておくね」
「頼むわ」
スーツをハンガーにかけて脱衣所を出ると、彼女はつまみのナッツを買い物袋から取り出したところだった。
「これ、美味しいよね」
お前のために買った、と正直に言えば、蛍明の奢りグセをよく思っていない彼女にまた呆れられてしまうだろう。「うまいよな」とだけ答えた。
酒の缶は冷やしてナッツはこたつまで持っていって、彼女は買い物袋に残ったハンドクリームに気付いたようだ。それを顔の前まで持ち上げる。
「蛍明、手荒れひどいの?」
「あー、うん。最近料理凝りだしたから、すぐカサついて」
料理にはまっているのは嘘ではないし、水仕事で手が荒れているのも嘘ではない。
差し出されたそれを受け取る。今だ、とチューブからクリームを多めに手に取り、指先まで塗っていく。狙い通りクリームが多すぎて全然手に馴染んでいかない。
「あかん、つけすぎてもたわー……日花」
「はい、ティッシュ」
もらってくれへん?を言う暇もなくティッシュを手渡される。
「……ありがとう」
絶望のままティッシュを受け取り、余分なクリームを拭い取る。
もちろん一度の失敗でへこたれるような繊細な人間ではなかったが、決死の覚悟で行った次の挑戦は「もっとしっかり塗り込まないと。爪の付け根も、マッサージするみたいに」と懇切丁寧に指導を受けただけだった。
これ以上同じことを繰り返せば不審に思われるかもしれない。指はしっとり滑らかになったが、計画は失敗だった。
それを、須田を含めたこの間のメンバーに報告する。
面白がって聞いていた若い女性社員が、蛍明が取り出した青いハンドクリームを見た途端に眉を吊り上げた。
「それってかなり安いものでしょう!? もっと試しにつけて見たくなるような、珍しくて付加価値があるものにするべきですよ! そんなので釣れると思ってるんですか!? 舐めてるんですか!?」
「……すみません」
彼女はハッと何かを思い出したようにスマートフォンを取り出して、何やら検索したようだ。蛍明の前にずいっと差し出された画面には、見たことのないブランドの、いかにも高そうな見た目のハンドクリームの写真が載っていた。
「ハンドクリームと言えばこれ! っていう定番ブランドの、明後日発売の期間限定数量限定商品です。これなら試しにつけてみたいって思うかも!」
「おお……!」
「確実に手に入れるのならオンラインじゃなく実店舗のほうがいいです! 女だけじゃなく転売屋も並ぶから、覚悟して行ってください!」
「分かりました……!」
「ラインにURL送っときました! 応援してますからね! ついでにひとり二個限定なので私の分も買ってきてください! これお金です! お釣りはとっておいてください!」
「うわっ、ずるっ!」
揉める女性社員ふたりを尻目に、送ってもらったURLを見る。ハンドクリームが有名な化粧品のメーカーで、蛍明が最初に買ったハンドクリームの十倍程の値段はするが、服飾がメインの高級ブランドが出しているようなものに比べたらずっと良心的な価格だ。
これを使えば日花に体格差のある男だと認識され、あわよくば手を繋げるかもしれない。
両腕を振り上げる。
「頑張って男見せつけてきます!」
「いったれ桐原!」
「目にもの見せてやれぇ!」
はやし立てる須田と女性社員の隣で、もうひとりの女性社員に「男ってバカだなぁ」としみじみと言われたが、聞かなかったふりをすることにした。
*
「お邪魔しまーす」
「どうぞ」
ここ数日で一番の上機嫌で、蛍明は日花の部屋を訪れていた。上機嫌な理由はいくつかある。ひとつは、鞄の中に昨日苦労して手に入れたばかりのハンドクリームが入っていることだ。そしてもうひとつは、玄関まで漂っている美味しそうな匂いだ。
「うわー、めっちゃいい匂いする」
「座ってていいよ。すぐに準備するから」
「はよ食べたいから手伝うわ」
無事にハンドクリームを手に入れて、いつ彼女に会いに行こうか考えている蛍明の元に、日花から連絡があったのは今日の昼過ぎだ。蛍明の好物を大量に仕込んだので食べにおいでという連絡だった。
誘ってくれて嬉しい。好物を覚えてくれていて嬉しい。明日はふたりとも仕事と大学なので遅くまではいられないが、一時間でも二時間でも、彼女に会えることが嬉しかった。
鍋の火を消す彼女の隣でもう何度も使っている皿とカトラリーを取り出しながら、今日のハンドクリーム作戦を練る。
何度も同じことを繰り返せないので、一発勝負だと言っても過言ではない。
今回は手の届く範囲からティッシュを排除し、食後のソファにゆったり座った、立ち上がるのも面倒くさい状況で仕掛ける。完璧な作戦だ。
日花が準備した食事をトレーに乗せて、食卓まで運ぶ。
「ヤバい、腹めっちゃ鳴っとる」
「ふふ、早く食べようか」
「せや、な……」
思わず言葉を切ったのは、キッチンに立つ日花を見ようとして、その間にあるカウンターの上にあるものを見つけてしまったからだ。
見覚えのあるブランド名に、見覚えしかないパッケージ。
蛍明が持っているものと全く同じハンドクリームだった。蛍明の物はまた鞄の奥底にあるはずだ。ということはこれは、日花のものだ。
「これ……」
「ん? ああ、知ってるの? 人気のハンドクリームらしいよ」
彼女はそれを持ち上げてみせる。
「兄さんが仕事関係で何個か貰ったらしくて私にもくれたんだけど、匂いがあんまり合わなくて」
キャップを外して自分の鼻に近付けて、彼女は少し顔をしかめてから蛍明に差し出す。嗅いだことのある匂いだったが、鼻を近付けてみせる。
「えー……いい匂いやと思うけどなぁ……」
「あ、蛍明、前にハンドクリームつけてたよね? 匂いが大丈夫そうならあげるよ」
「……でも」
「もったいないから、もらってくれたら嬉しいんだけど」
食卓に座り、日花は窺うように上目遣いで蛍明を見上げる。この顔に弱いことを彼女は知っていてやっているのだろうか。
「……じゃあ遠慮なく。ありがとう」
「うん。じゃあ、食べよっか」
日花の手作り料理はそれはもう美味かったが、またしてもハンドクリーム作戦は実行する前から失敗だ。
その週末、職場のいつものメンバーとさらに数人がいる珍しく人の多い事務室で、蛍明は苦労して買ったハンドクリームを頭上に掲げる。
「というわけで、俺が買った期間限定数量限定ハンドクリーム、箱なし未開封未使用、誰かもらってください……」
蛍明の心境とは裏腹に、大盛り上がりのじゃんけん大会が開催される。なかなか白熱していたようだが、結局いつも相談に乗ってくれる女性社員が勝ち抜けしたようだ。彼女に手渡す。
「さすがにただじゃ悪いから、お金払うよ」
「いやいや、いいっすよ」
「じゃあ今日のお昼ご飯おごるよ」
「やったー……はぁ」
このハンドクリームを教えてくれた女性社員に「なんかすみません」と慰められていると、いい匂いをさせてモテたいという不純な動機でじゃんけんに参加していた須田に肩を叩かれる。慰めてくれるのだと思っていたのに、彼は日花がくれたほうのハンドクリームを指差した。
「桐原、そっちも使わないなら売ってよ。定価で買うから」
「嫌ですぅ! 好きな子に貰ったやつですぅ!」
ハンドクリームをぎゅっと抱きしめて、しっしっと須田を追い払う。
女性社員の間でハンドクリームお試し会が始まったようで、甘い匂いが部屋に充満しはじめた。蛍明も真似をして、ショックでまだ一度も使ったことがないクリームを指先に塗り込んでみる。
「さすが高いやつ……すぐサラサラなるのすごいな……」
白魚とまではいかないが、ささくれもカサつきもなくなった滑らかな指先を眺めながら、はあ、と特大のため息をついた。
「なんも上手いこといかへんな……」
「桐原さん」
声をかけてきたのは、いつもは雑談などには参加しない物静かな隣の席の女性社員だ。さすがに騒ぎすぎたと謝ろうとした蛍明に、彼女は無表情のまま言い放つ。
「そうやって下心満々だから、上手くいかないんじゃないですか?」
心臓をひと突きするような言葉だった。
胸を押さえて、低く呻く。
「急所に当たった……」
「ポケモンいるじゃん」
須田の冗談にも反応できない。あまりの攻撃的な正論にやんわりと彼女を窘めようとする他の同僚を止めて、顔を手で覆った。
そうだ。日花に男として意識してほしいと思いながら、彼女の体に触れたいという下心が混じっていた。
「清く正しく生きます……」
こんな回りくどいことをせずに、直接言葉で伝えるべきなのだ。——今はまだそんな勇気は出ないが。
死に際のような呻き声を上げながらパソコンに向き合う。さすがに哀れに思ったのか、ずっと茶化してきていた須田が優しく肩を叩いた。
「桐原、今日飲みに行くけど、どう?」
奢りの気配を察したが、残念ながら先約があった。
「すみません、せっかくなんですけど、先約が……」
「片思いの子?」
「そうです」
「クソ、心配して損した。飯でも行くの?」
「いや、食材持ち寄って鍋しよって話してて」
「……絶対突っ込まねえからな」
「それつつきながら俺ん家で一緒にドラマ見る約束してます」
「もう付き合えよ……!」
「俺目当てじゃなくてこたつ目当てなんですよ、最近家よう来るの!」
「うるせえもう黙ってろお前!」
椅子の背もたれを掴まれ嫌がらせのようにガタガタと揺らされ、須田は「もう一生奢らねえからな!」と捨て台詞を吐いて席へ戻っていった。
*
「あつ……」
呟いて、目を開く。体は熱く火照っていて、額には汗がにじんでいる。
明かりのついていない自分の部屋を見渡して、蛍明はようやくこたつで寝てしまったことに気付いた。
外はもう真っ暗で、テレビのスクリーンセーバーだけが部屋の中を照らしている。ドラマはいつの間にか終わってしまったようだ。
日花の推しが出るワンシーズン打ち切りのB級ドラマだったが、それはもうひどい出来だった。彼女の推しは顔はいいのに、こんな仕事ばかりだ。
こたつ布団をめくって冷たい空気を求める。喉がもうカラカラだ。
こたつのスイッチを探して手を伸ばそうとしたが、すぐに指先に何かがぶつかる。それがこたつ布団越しの日花の体で、三十センチ隣に目をつぶって寝息を立てている彼女がいることに気付いて、蛍明は思わず体を固まらせた。
じっと見つめるが起きた気配はないようだ。詰めていた呼吸を再開して、体を日花の方へ向けた。
目はしっかり閉じられていて、唇はほんのり開いている。
できれば朝までその寝顔を眺めていたかったが、このままこたつで寝ると風邪を引いてしまうだろう。
「日花……起き……」
肩に触れようとして、下心満々という言葉を思い出して手を引く。
「にーちーかっ」
大きめの声を出すとようやくその目が薄っすらと開かれる。辺りを見渡して、それからぼんやり宙を見て、彼女はようやく状況を把握したらしい。
「泊まっていっていい……?」
「あほ。送ってくから、準備しい」
「やだ……」
「やだやない」
「じゃあこたつ持って帰る……」
「お前の部屋絶対こたつ似合わんやろ。また今度入りにきい」
こたつの中に潜り込んで抵抗する彼女から布団を引き剥がそうとする。ふたりで笑いながら攻防を繰り返していたが、その拍子に蛍明の中途半端に上半身を起こしていた体がぐらりと揺れて、彼女の顔の隣に手をついた。お互いの顔が近付いて、指先に長い黒髪が触れて、蛍明は動くことができなくなった。
見下ろす彼女の顔はまだ眠たそうで、微笑むようにその目が細くなる。そのままゆっくり閉じて、まるで誘われているように錯覚した。
これがドラマなら、今、キスをしても許されるのだろうか。蛍明がそんなことを考えているなんて、彼女は想像もしないのだろう。
ゆっくりと顔を近付ける。彼女の吐息が頬に触れて、ゆっくりとゆっくりと、こたつの中へ逆戻りした。
自分の頬を撫でながらじっと衝動を耐えていると、日花が動く気配がしてびくりと目を開く。彼女は気だるげな動きでこたつから上半身を出して、蛍明と同じように汗ばんでいる額を撫でた。
「あー……全身干からびた」
「せやな」
彼女は手を持ち上げる。指先の荒れが気になったらしい。
「ハンドクリーム貸して」
「青いやつ? お前がくれたやつ?」
「青いやつ」
確かこたつの上に置いていたはずだ。寝転がったまま手探りで見つけ出しそのまま手渡そうとしたが、まだ半分目を閉じている日花は手の甲をずいっと差し出した。眠い時の彼女は、こうやってへたくそな甘え方をしてくる。
「お姫さまめ……」
蓋を取ってその手の甲に三センチほど出してやると「ありがとう」という感謝と、少しして「多いな……」という不満そうな声が返ってきた。
「それくらいしっかり塗らな」
「私の手、蛍明の手よりも面積が狭いんだから……ちょっとあげる」
伸びてきた手が、ふいに蛍明の手を握り締める。
一瞬の間の後、蛍明は汗ばむほど熱いこたつの中で、凍り付いたように体を固まらせた。
喉の奥から潰れたカエルのような悲鳴も漏れたが、日花は気にした様子も見せずに蛍明の両手を包み込んで、肌をこするように何度も滑らせる。
こんなことを、他の男にも平気でするのだろうか。それとも、もしかして。
指先を摘む。嫌がる様子はない。むしろ力が抜けて、完全に蛍明に身を任せたようだ。指を絡めてするりと手のひらを合わせる。
「ほんまや、ちっちゃい手……」
手の大きさの違いでドキドキさせてやりたかったのに、今真っ赤になっているのは蛍明だ。
柔らかくて、そして熱い手だ。細くて、色が塗られた小さな爪がかわいい。
胸が苦しい。この手をひとり占めしたい。ずっと、一生。誰にも渡したくない。
また寝息を立て始めた日花の顔を見つめながら、もう少しだけとその小さな手を握り締めた。
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