第九話 少年Aと鬼の秘密
テニスコートを囲むフェンス沿いに置かれた数個のベンチのうち、入り口に最も近いベンチに水野先輩は腰をかけた。
それに従い、俺もその隣にぎこちなく座る。
そんな間にも、桐春先輩のファーストサービスの快音は断続的に聞こえてきた。
時たまフェンスの外から、取りすがりの女子がその様子を遠目で覗いている。
隣に座った水野先輩は、昼食として持ってきただろうパンになぜか一切手をつけようとしなかった。
ベンチの下に置いてあったラケットを持ち、桐春先輩のいるコートの方を向いて、くるくると手のひらの中で回している。
「……」
俺は押し黙った。
呼び出されたのは良いが、その内容は知らなかったし、未だに謎だ。
数分といえども、延々と続くかのように思われた沈黙を破ったのは、無論水野先輩の方だった。
「そんなに身構えるなよ。ただ聞きたいことがあっただけだから」
「聞きたいこと?」
俺はそう言いながら、身構えるなと言われ、やはり姿勢を正した。
この先輩の前でリラックスすることなど、とてもではないが無理な話だ。
それにこんな穏やかな環境と調子で、この先輩と1対1で会話したことがまずない。
「仮入部期間中の新入生に、悩んでることがあるかとか、その他諸々の相談をこうやって一人ずつ聞いているだけなんだが」
「水野先輩が…?」
そうだよ、と水野先輩は何でもないように頷いた。
水野先輩はおよそ50人を擁するソフトテニス部の副部長である。
そのような新入生へのケアを、副部長直々に、しかも一人一人に訪ねているのだとすると、それは考えるまでもなく大変なことである。
他の部員や後輩に仕事を分配、もしくはマネージャーに委任することが普通なのだが、そのマネジメントといい、なんとも面倒見の良いというか。
少し過度な、という気もしないでもない。
本当にそれが呼び出しの理由なのだろうか、と少し疑問に残る。
すると、水野先輩が軽くこちらの方に首をひねった。
日本人離れの整った白いフェイスラインに、まっすぐ整った眉。
そのシャープな鼻筋には、普段の部活ではお目にかかれない黒縁のめがねがかけられていた。
レンズの奥から、大きな黒い瞳が俺の方を見ている。
桐春先輩とはまた異なる、隙のない強い光を湛えた視線だ。
この人、本当にあの鬼の副部長か?俺はふとそんな風に思った。
今この瞬間の副部長の口から、あの怒号が飛び出てくるとは思えない。
そう思ったら、今まで入れていた肩の力が自然と抜けた。
「今のところ入部は確定?」
水野先輩はそんなことを尋ねた。
おそらくこれが本題なのだろう。
しかし既にこの時期は、仮入部とはいえ部活は確定しているようなものだ。
それに高校生になれば勉学が厳しくなるのは重々承知済みであるし、部活との両立が大変なことくらい覚悟の上だ。
かといってレギュラーを目指したいとか、好成績を残したいだとかそんな目標を持って入部したわけではないのだが。
「はい」
俺は発声するだけの返事をした。
入部するか迷っていたわけではない。勿論このまま入部はするつもりだ。
しかしなぜか、その質問を聞いたとき、喉の奥で『はい』という返事は一瞬だけとどまった。
入部を確定するか否の脳内問答の途中、ふと、桐春先輩のことが頭を過ぎったのだ。
眠るように思考を巡らす俺をたたき起こすように、奥のコートから鋭いインパクト音が鳴り響く。
「そっか、ならいいんだ」
水野先輩は、俺の返事を聞いてそう頷いた。
なぜ、俺は今、返事をすんなり返すことができなかったのだろう。
…桐春部長。
なんとなく、俺はあの先輩に対して、何か義務のようなものを感じていた。
その内容は全くはっきりしないが、なんだか離れてしまうのがいやだった。
俺が仮に入部をやめたとしても、当たり前だが桐春先輩は何もなかったようにこれからも過ごすであろうし、あの鉄仮面は変わらないのだろう。
自己中心で傲慢な俺の勝手ではあるが、俺にはそれがいやだった。
何か変えられる気がする。
少々、思い上がりすぎだろうか。
それにいま、ようやく名前覚えてもらえたし。
「桐春、こっちだ」
いつの間にか練習を終え、ボールをカゴに入れていた桐春先輩に、水野先輩が軽く手招きした。
声に反応した桐春先輩がカゴを置き、急ぐこともなくゆっくりとこちらのベンチに向かってくる。
俺はベンチの上で背筋を伸ばし姿勢を正した。
するとベンチにたどり着いた桐春先輩が、ふとこちらを見た。
前髪からしたたる汗が右目に流れ落ち、桐春先輩は目を強く閉じてまた大きく開いた。
涙のように涙が頬を伝い、重力に従って地面に落下する。
癖なのだろうか。
鉄仮面の帝王は視線をこちらに合わせたまま、いつものように小さく首をかしげた。
「浅井か」
淡々と、俺を見下ろしたまま、桐春先輩はほぼ独り言のようにそう呼びかけた。
うん…、なんか、いいなこれ。
桐春先輩の声に反応して、単純に心の奥底が嬉しいと訴えている。
ちゃんと名前を覚えてくれている。それにあの大輔のアサイー呼びとは違い、しっかりとあざいである。
「珍しいな、お前が後輩の名前覚えているなんて」
「浅井の一人しか知らん」
もっといいな…。
謎の愉悦に顔がにやけそうになるのを止めるべく、俺は顔をしかめた。
「じゃあ知り合いか?中学の後輩…ではないよな」
その通り、出身中学の部活に二人はいなかった。
ちなみにこの二人の先輩はいわゆる同中というやつで、先日桐春先輩から知ったのだが、その当時からテニスペアだったらしい。
すると先輩は返事に困ったのか、黙って俺から視線を外し斜め上を向いた。
「……うん」
「…?関係はなにかあるのか?」
関係もなにも、ただ中華料理店で相席になってラーメン味見させてもらい、一緒に雨宿りして肉まんもらった(口に押し込められた)だけだ。
それと名前を覚えてもらった、ただの部活の後輩。
ってなんだこれ。改めてみるとすごい字面だ。桐春先輩が返答に困るのは当然である。
「……なにかありそうだな」
低い声でそう呟くと、水野先輩が何やらシリアスな表情で立ったままの桐春先輩の方を睨んだ。
水野先輩、違う。そんな複雑な事情などない。
ただどう説明がつくかわからないだけだ。
すると、この重い謎の膠着状態を破ったのは、桐春先輩だった。
「……そうだな」
そう呟いて立ち上がると、徐にハンドタオルを鞄から取り出して口にくわえる。
「「?」」
俺と水野先輩がぽかんとその様子を見ているのをよそに、桐春先輩は近くの蛇口でしゃがんで手を洗い始めた。
数十秒後、くわえていたタオルでしっかりと手を拭き再び立ち上がると、ベンチの上のパンの入った透明の袋を手に取る。
先ほど水野先輩が持ってきたのは、桐春先輩の昼食だったらしい。
水野先輩は不思議そうにその様子をじっと眺めている。
すると桐春先輩持っていた透明の袋から、長細いパイ生地のサンドイッチを取り出した。
きつね色に十分焼かれ卵黄でコーティングされた艶のあるパイ生地が、正午の白い光を反射している。
みずみずしい鮮やかな緑色のレタスと、クリーム色のつぶし卵が細切りのハムと共にその生地から控えめに顔を覗かせていた。
サンドイッチはこれまで数えきれぬほど食べてきたが、パイ生地のものは初めて見た。
それにそのパイ生地と言ったら、見ただけでその音が脳内で再生されてしまうほど、何層にも折り重ねられてある。
弁当を食べてほどよく満たされているはずの腹が、抵抗の悲鳴を上げた。
…いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
沈黙のテニスコートで、何をし出すのかと思いきや、桐春先輩はその取り出したサンドイッチを左手で優しく支えながら、右手でその一部をつかみゆっくりともいだ。
――まさか。
桐春先輩は俺の目の前に一歩移動し、一昨日のあのときようにこちらを見下ろした。
俺はベンチに腰掛けているので、その分重圧と迫力は倍である。
「浅井」
そう言ってそれを俺の口元に差し出した。
あああ…やっぱり…。
第三回不動の帝王絶対命令。インフロントオブ水野先輩…。
なぜ、あーん、なのか。手渡しをするという選択肢はないのか。
帝王のその言葉が、すべての選択肢を抹消する。
そしてもう一つ。先輩その目、もう恐喝にしか見えない。
シュール。あまりにもシュールすぎる。
その様子を隣でなぜか黙って凝視する水野先輩を横に、俺は抵抗することもなくおとなしく口を開けた。
「ん」
厚さ十センチほどのサンドイッチが、具が落ちないようゆっくりと口に差し込まれ、俺は挟むように歯でそれを噛み固定した。
そこで桐春先輩の手が離れ、俺は右手で口を覆った。
噛んだ瞬間、心地よいパイ生地の食感と共に、卵の甘みが口の中に広がる。
購買とは思えないほど食感のしっかり残った焼きたてクオリティー。
具が少し控えめなのは、このパイ生地の食感をより際立たせるためなのだろう。
……
終わった…。
水野先輩が何も言わない…。
おそらく文字通り絶句しているのだろう。
何を思い、何を言う、鬼の副部長水野先輩…。
いやどうにでもなれ。
とにかく早くチャイムが鳴ってしまえ。
と、俺が考えることをやめようとしたその瞬間。
水野先輩が突然ベンチから立ち上がり、なぜか桐春先輩の胸ぐらをつかんだ。
そしてドスのきいた低音で一言。
「桐春…お前まさか俺の子供に手出してるわけじゃあるまいな」
「――…はい?」
鬼の副部長と謳われた春城高校ソフトテニス部副部長水野涼太。
その正体は、後輩たちを文字通り『子供のように』溺愛する、新手の変人なのであった。




