滓と為霊者
私が17年間で口にした食べ物のうち、最も好きなのは桃だ。
このような嗜好があるのが異常だと気づいたのはいつだったか。私と同じように異能を背負う人々は例外なく、米やパン、肉や魚、果物などを口にすること自体ができないそうなのだ。
当事者が食べられるのは異形の怪物たる『滓』のみである。
誰かの、あるいは不特定多数の人間の負の感情を種に形成される『滓』の性分は穏やかではない、一度現れてしまえば気まぐれに人を脅かし、広域に累を及ぼす。それでまた恐怖を植え付けるという悪循環だ。だから、食べる行為は皮肉にも理にかなっており、コイツらを手当たり次第潰すという天性の役回りを果たす主体的な動機の付与になっている。
そう、皮肉にも、だろう。……奴らの味わいなんてきっと美味とはほど遠いだろうに、あろうことかリスクありきで味わっているのだから。
◇
東京都・新宿区歌舞伎町一丁目。朝の6時だというのに澄んでいないこの地域での勤務に、あたしは少々気後れしている。
特に、さくら通り前の歩道を歩かなければ勤務地の詰め所に辿り着けないのが嫌だ。
「そこのインナーカラーの姉ちゃん、ちょっとちょっと」
こうして見知らぬ人から呼び止められたりするし、誰かの騒ぎも聞こえる。……飢えているのに、どうしてこんなやつらの相手をせねばならないのか。
「俺髪短い子好きなんだよね。どこ行くのこんな朝から」
「……」
男のナンパを無視して、早歩きで撒く。この街の治安はあえて述べるまでもない。腹痛がしてきてしまう。
(シフト交代まで20分。……引き継ぎの時間を考えると、遅くなってしまったわ。着いたら一言謝ろうか、それとも弁明をしようかしら……)
程なくして、勤務地の詰め所の前に訪れた。ここは違法の営業をしていた店を潰して建てられたそうだ。詰め所といっても、お手洗いは設えられているし、現場仕事のそれよりも多少快適な設備である。交番と表したほうが近しいだろう。
あたしはガラス戸をノックして開けた。中の長机の上で頬杖をついていた少年・唯織刃は、高校のブレザーのような上着とスカートというこちらの服装を見るや、顔を明るくした。
「お。……一ノ瀬、待ってたんだよ」
銀髪と琥珀色の目をした爽やかな顔立ちである。刃もまたあたしと同じ系統の隊服をしているが……返り血が目立つ。
その姿で彼は立ち上がり、近寄ってくると鍵を手渡してきた。血なまぐさい。
「お疲れ様。歌舞伎町の空気に腹痛を催して……遅れてしまったわ」
「いいんだよ、いつもは早いし。──それより、勤務中に狩ってきた『滓』の腕、是非食べてくれよ」
長机に、アルミで巻かれたものが置いてある。刃が言う通りその中身は、引き千切った生腕だった。灰色の肌で、刺がついている。
「これ……あなたの食べかけではなくて?」
「ちゃんと切り離してあるって。これから夜まで勤務する一ノ瀬を思って残したのに……いらないなら俺が平らげるけどよ」
「いいえ、そこまで言うならいただくわ。……それで、引き継ぎ事項は?」
「まずいつものほうからな。俺の見張り時間中に見つけた限りの『滓』は一掃して、死体処理班への報告も済んでる。午前は主に、『滓』の声を聞いて脅えた一般人のメンケアが中心になってくるんじゃないかな」
「視えてしまった人はいたのかしら」
「まだそれらしき人は見当たらない。新宿は人多いしな……ごめん、そこも一ノ瀬に頼む」
「わかったわ」
引き継ぎの主要事項は共有できただろう。続いて刃が机上にあったファイルを開いて、最新のページを指差した。
「んで。──このかわいこちゃんが例の人。さっき支部員の相澤さんが持ってきてくれたんだ」
写真が数枚。すべてある少女を対象に撮影したもので、フード店でパフェを頬張る様子や、上空に浮遊する様子など、様々なシーンを切り取っている。
そのうち一枚、都会の夜景を背景にバストアップで撮られたものが、最も彼女の特徴を明らかにしていた。あたしはつい、釘付けになった。
藍色の髪がしなだれている。超然とした切れ長の双眸は月明かりで見事なまでに紫紺に煌めいており、撮影者が複数枚撮って選り好んだ、というようないきさつさえ思わせた。鼻筋も整っていれば、口元まで蠱惑的である。
年の頃は17か18といったところだろうか。
「この子が那須愛瑠。静謐で……女優さんみたいだわ」
「いっそ女優だったらよかったな。顔バレなんか一瞬で、組織も、もっと早く尻尾を掴めてたはずだ」
那須愛瑠──彼女は、美しいだけの一般人ではない。異能を操れる「為霊者」である。あたしたちを組織の為霊者と位置づけるなら、対する彼女は野良の為霊者だ。
そしてなんといっても、彼女こそがこの世でただ一人、為霊者にあるはずの食性を逸脱した人物である。
「任務のあらましはとっくに聞いてるよな。既にSNSのDMで、この地域を指定して来るように謀ってるんだ。一ノ瀬は俺が帰ってくる夜まで、予定通り待ち伏せしていてもらいたい」
「彼女がどういった能力をした為霊者なのか……あなたの監視中に知れれば幸いなのだけれど」
「俺もできるだけそういうのは監視の過程で引き出せないかなと思ってる。ただ……大々的に活動してる癖して顔バレも遅かったし、手の内を晒してくれる隙があるかなぁ。飛べる為霊者ってだけで、霊力の扱いに相当長けてるのは見て取れるよな」
那須愛瑠はSNSで話題の渦中にある「おはらい活動」の草分けにして、執り行う唯一の人物である。その旨はファイルに挟まれたメモにも記されていた。
「……ねえ、刃。あなたは彼女をどう思う?」
「パフェの味を知ってて羨ましいなあ、って」
「失礼──言葉が足りていなかったわ。どっち派かという話」
組織では那須愛瑠の処遇に関する意見が二手にわかれている。刃は顎に手を当て、しばし逡巡した。
「……強制的に研究をしようとする派閥ってのは、結構身の毛よだつ方法を考案してるらしい。俺は人権剥奪みたいな扱いをするのには反対だな。かわいそうだ、シンプルに」
「もしかしたら那須愛瑠だけじゃなくて、家系の末代まで研究対象になるかもしれないそうね」
「な、それも加味してとんでもない。観察くらいにしとこうぜ、観察」
「組織には入れさせたい、ということね」
華があんじゃん、と刃は冗談めかしく笑った。あたしは「もし彼女が都会で勤務をすればキャッチに声をかけまくられるでしょうね」と現実を申し上げる。
「あたしも彼女に苦しんでほしくはないわ。今夜においても、できる限り平和的に要求を呑ませたいところよ」
刃はこの返答を快く思ったようだ。ガラス戸の引き手に手をかけた彼は「一ノ瀬からはなんかある?」と尋ねてきた。
あたしは机上の腕肉に目をやる。
「この肉……ありがとう。ちょうど我慢していて、お腹が空いていたの」
「相変わらず無理すんだな。まあ、『滓』になるリスク考えたら、そうだよな。──安心しろ。ほんとにそうなったら、すぐに帰ってきて俺が責任をもって一ノ瀬を殺す」
監視行ってくるな、と出ていった刃は、終始好いたらしい笑顔を絶やさなかった。この生業では珍しい、人格者である。
あたしは腕肉を手に取った。
空腹がこれを欲している。
静かに──齧り付いた。
「……不味い」




