第七章 第一国民
黒い球体が空を覆い尽くしていた。
その球たちは空を飛ぶ鳥の目線から見てみると、上からやってくる太陽の光を黒真珠のように上品な光で反射して、明るさの強い昼間に、星々が輝いている夜の景色のようなものを見せてくれる。
しかし、そのような景色を見ることができる者は、パンデモニウムの壁の窓から、気まぐれに中に入ってくる鳥や飛べる虫ぐらいである。
それらの動物は言語による情報伝達手段を持たない。ゆえに、このような美しい光景が人に知られるようなことは当分ないであろう。上空では輝いているこの黒球たちは、右の事実が知られるまでの間はただの物として、またある者には楽しみを奪う邪魔者として、認識されるであろう。
閉ざされた湖にて集団で暮らし、誰かに押されても誰かを押しても気にせずに、プカプカとたゆたうクラゲたちのような黒の球の集まりであったが、そのうちの一つが群れから離れ、ヘリウムが抜けたゴム風船のように、ゆっくりと地に向かって落ちてきた。
その球体が地面に触れると、それはシャボン玉がはじけるようにあっけなく消えてしまった。しかし、そこに何も残らないというわけではなかった。
黒の球が消えた所にあったのは、一人の人型の姿であった。
それの姿は地球に生息する人間という種族の雌に似ていて、もっと詳しく描写するならば思春期の女性に近しい。身体が成体に近づいていて、対称である雄との違いがはっきりと表に現れている。その身体の特徴は肩にさがった大きな胸と、括れた腰、それから子供のものとは違う、すらりと伸びた長い足であった。肌は砂砂漠に敷かれている柔らかい砂のような薄茶色をしていて、その肌には潤いと張りがあり、老いに先立つ、若々しさというものを感じる。髪は人間が自然に生やすことのできない、淡い桃色を帯びていた。眉の高さまで切った前髪と左右にはねた癖のある後ろ髪が、色が存在しない場合での彼女の髪の特徴であった。
ここまでならば、彼女は__少なくとも姿形は__人間の女性の範疇に収まっていて、容姿が似ている人間ならば、彼女の姿をある程度まで再現できるようになっていた。
だが、彼女には人間には存在しない特徴がいくつも表側に有った。
彼女の頭には、ケラチン質に覆われた二本の立派な角がこめかみ辺りから前に突き出るように生えていた。顔の横にも人外の特徴がある。彼女は長方形に収まる人の耳とは違う、鈍角三角形の先端が尖った耳を持っていたのだ。その長い耳は普段は横向きに伸びていて、後ろに付いた筋肉を使うと、前後左右に、音がする方を向かせることができる。これらの特徴ゆえに、彼女の頭は、人のものよりも一回り大きなシルエットになっていた。
極め付けは、彼女の腰椎辺りに生えている一対の羽であった。その羽は蝙蝠のものと同じく、とても長く伸びた指の間に薄い皮膜が張られていて、支えとなる骨もまた蝙蝠に似て、軽くしなやかで且つ丈夫にできていた。大きさは腰から肩甲骨ほどであり、羽を横に広げたとしても、両手を横に伸ばした時と同じくらいの長さにとどまっていた。
もし、彼女が人の形をしていなくて、尚且つ身体が小さければ、背の羽によって飛行能力を有することができたであろう。しかし、体重の重い二手二足の身体に付いた小さな羽は、飛行能力を施すことの出来ない、無用の長物となっていた。
有翼の獅子が人間の住む世界に誕生したとしても、その翼は獅子が生きている間、ずっと力を発揮することなく身体にくっ付いていて、生きるための一助しないのと同じだ。そして、それは次の代になる頃には、無くなってしまうものに違いない。むしろ、子孫を残せたのならば良い方で、大抵の場合はその翼を有していたが故に、狩りを満足に行えず、飢えて死んでいまい、かの系譜を途絶えさせてしまう一因になる。
そんな彼女は、その使わない羽と、普段使う両手をめいっぱい広げて、体に流れる血を全身へと送り出していた。先ほど弾けた黒い球体と、小さく唸り声をあげて、気持ち良さげに口元を緩ませている彼女の様子から、彼女が長いこと狭い空間内に居て、今やっと解放された状態であることが伺える。
彼女はゆっくりと目を開け、視覚を目覚めさせていた。瞼の奥にあった、瞳は深い真紅の色をしていた。
開いた目の中に太陽の光が入ってくると、彼女の容態は一変した。
有翼の女は立ちくらみを起こし、めまいと吐き気が同時に襲った。彼女はこのままではいけないと思い、体が動かなくなるその前に、急いで日陰の方へと避難した。
安全地帯であるビルディングの根元まで避難すると、彼女は腰鞄に入れた懐中時計を一目見て、大きく溜息を吐いた。
(あぁ……予定よりも三時間も早く降りてきちゃったよ……。まだ太陽が出てる時間だし、他のみんなはまず降りて来ないだろうから、やることなしに、三時間も日の照る街に居ないといけなくなっちゃったよ。嫌だなぁ……)
この角持ちの女は、実のところ友達と待ち合わせをしていたのだが、黒い球に含ませる上昇用の気体の分量を間違えてしまい、意図せずに、まだ日が出ている時間帯に降りてきてしまったのである。彼女の思っていた通り、街には彼女以外の人影が見当たらず、害をもたらす、力持つ太陽がまだ天空にましましている。
三角耳の女はビルディングにできた日陰の中に居て、そこに座りこんでいた。やることのないそのまちぼうけは、彼女に欠伸を誘発させた。
角持ちの女が退屈そうに日陰でぼんやりとしている時、彼女は前方に、熱い日差しを受けながら道路を進んでいる、若い男の姿を目にした。その男は青い髪をしていて、前頭部には二本の上に伸びた角が生えている。
彼女はこの男を奇妙に感じた。彼は日射を避けるようなことをせずに、わざわざ明るい方の道を選んで、そこに居るのだ。
彼女はそんな男を目で追っていた。そして意を決して、彼に気付いてもらえるよう、大声で呼びかけたのだ。彼のいかがわしさは否めなかったが、今は話し相手がほしいと思ったからである。




