討伐開始
35年
三月、劉秀は南陽を行幸し、故郷の章陵(元春陵郷)に還り、故郷の様子を懐かしんでていた。
宴を開き、お世話になった近所の人々も招いた。
「ここでは皇帝ではなく、普通の文叔です」
そう言って無礼講の宴となった。その宴の中で近所の女性がこう言った。
「文叔さんは若い頃、慎み深く、あまり人と打ちとけて付き合う事がなかったわね。生真面目で優しく子だったのが、今やこのような皇帝になるとはねぇ」
劉秀は苦笑するとこう言った。
「僕は天下を治める上で、そのようであろうと思いますよ」
故郷から洛陽に戻ると
病を患った劉祉が城陽王の璽綬を返上し、列侯の身分で先人の祭祀を奉じることを願い出た。劉秀はお世話になったこともあり、自ら劉祉の看病を行ったが劉祉は世を去った。
「長い間お世話になった方々もだいぶいなくなってしまったなあ」
劉秀はそう呟いた。
「さて、蜀との戦いはどうなっているかな?」
朝廷で劉秀はそう問いかけた。
「津郷に駐屯しております岑彭将軍が田戎らを攻めておりますが、良い結果を出せていないということです」
この年になってから劉秀は蜀の公孫述との戦いを開始し、先ずは東から岑彭に蜀を攻めさせていた。
「よし、岑彭の元に援軍を派遣する」
劉秀は大司馬・呉漢を派遣し、誅虜将軍・劉隆、輔威将軍・臧宮、驍騎将軍・劉歆の三将を率いさせ、荊州兵合計六万余人、騎馬五千頭を動員させ、荊門で岑彭と合流させた。
「援軍感謝致します」
岑彭は呉漢らを迎えている。彼はこの時、数千艘の戦船を準備させていた。
「大量に用意し過ぎてはいないか?」
呉漢は岑彭が諸郡から集めた棹卒(船を操る兵)は多くの糧穀を消費すると考えて舟師を解散させようとした。
「これほどのものを用意しなければ蜀の東の防衛線を破れないのです」
岑彭は蜀兵が盛んであり、必要であると解散させるべきではないと判断し、劉秀に上書して状況を報告した。
劉秀は岑彭に答えた。
「大司馬(呉漢)は歩騎を用いることに慣れており、水戦には明るくない。荊門の事は一律、征南公(征南大将軍・岑彭)の意見を尊重する」
「大司馬よりも岑彭を上にするということですな」
この劉秀の答えを伝え聞いた劉隆がそう言った。
「余計なことを申すな」
呉漢はそう言った後に僅かに目を細めて言った。
「文官たちの粗を探して、それを陛下に伝えていると聞いている」
「粗とは人聞きの悪い、私は王朝にとって無用なことをしているのを伝えているに過ぎません」
劉隆は肩を竦ませる。
「まあ良い……そのことについて咎めるつもりは無い。ただ忠告しておくがやがてやり返されるぞ」
「その時は助けて頂ければと……では、失礼致します」
呉漢の陣から劉隆は去っていった。
「まあ良い。あれも忠義の形であろう……」
呉漢はそう呟いた。
劉秀の言葉を受けて呉漢は後方に周り、岑彭は三将軍を率いて軍中に令を出し、浮橋を攻める者を募った。先に橋に登った者には上賞を与えると約束した。
偏将軍・魯奇が応じて前に進んだ。
この時は東風が激しく吹いていた。魯奇の船は長江を逆流して川上に向かい、直接、浮橋にぶつかった。しかし江中に立てられた欑柱(密集した木の柱)に反把鉤(外を向いた鉤)がついていた。
船が欑柱で進路を塞がれ、鉤が船に刺さったことで、退却もできなくなった。
進退に窮した魯奇らは勢いに乗って決死の覚悟で戦い、炬を放って浮橋を焼くと、風が強くなって火が燃えあがり、橋楼が焼け崩れた。
「崩れた。今だ」
そこで岑彭の全軍が風に乗って並進を始めた。向かう所で抵抗する者がなく、蜀兵は大乱に陥り、溺死者が数千人に上った。漢軍は任満を斬り、程汎を生け捕りにした。
田戎は逃走して江州を守った。
岑彭は劉隆を南郡を守らせるため南郡太守に任命するように上奏した。
(あの人は扱いづらいからな)
劉隆の良くない噂を聞いていたため、岑彭は彼を遠ざけつつ自身は臧宮、劉歆を率いて、長駆して江関に入った。
軍中に虜掠(略奪)を禁止したため、経由した地の百姓が皆、牛酒を奉じて迎労(迎え入れて労うこと)したが、岑彭はそれも辞退して受け取らなかった。百姓は大いに喜び、争って門を開いて投降していった。
劉秀はこれらの報告を受けて詔を発して岑彭を守益州牧(益州牧代理)に任命し、攻略した全ての郡で太守の政務を兼任させた。
岑彭が郡界から出る時は、後から来た将軍が太守の号を受け継ぐことになる。
また、岑彭が官属の中から州中の代理の長吏(守州中長吏)を選んだ。
岑彭は江州に至った。
江州は城が堅固で食糧も多く、すぐに攻略するのは困難であった。
そこで岑彭は馮駿を留めて江州城(田戎)を包囲させてから、自ら舟師を率いて公孫述討伐を開始した。戦勝の勢いに乗って、直接、墊江に向かい、平曲を攻め破って米数十万石を収めていった。
一方、呉漢は夷陵に留まっており、露橈(戦船の一種。人は船中で守られており、櫓だけが外に出ている船)を準備していた。装備が整ってから岑彭に続いて進軍を再開しようとしていた。
「東からの攻撃は順調だな」
劉秀は順調であることを確認すると次に北から蜀へ軍を派遣することにした。大将は中郎将・来歙とした。
「あの人ならば問題は無いだろう」
そう思っての起用である。しかし、これが来歙との永遠の別れとなるとは思いもしなかった。




