隗囂
この頃、匈奴と盧芳が辺境を侵して止むことがなかった。
そこで劉秀は帰徳侯・劉颯を匈奴に派遣した。これに応えて匈奴も使者を送って来献した。
続けて中郎将・韓統に報命させ、金幣を贈って旧好を通じさせようとすると匈奴の単于は驕踞で、自分を冒頓単于と比べており、使者に対する辞語が悖慢(傲慢無礼)であった。それでも劉秀は以前と同じように匈奴に接することを心がけた。
それでも匈奴の姿勢は変わることはなかった。
劉秀に帰順してから馬援は隗囂が漢に対して二心を抱こうとしていると聞き、しばしば書を送って責譬(譴責して諭すこと)した。しかし書を得た隗囂は更に怒りを増すだけであった。
隗囂が兵を発して背くと、馬援は劉秀に上書した。
「私と隗囂は本来、誠に交友しており、初めて私を東に派遣した時、私にこう申しました。『元々漢のためになることを欲していたのだから、あなたに観察しに行ってほしい。汝の意が可であれば、専心することにしよう(馬援が観て問題ないようならば、専心して劉秀に仕えよう)』私は帰還してから赤心(誠心)によって報告し、誠に善に導くことを欲して、不義によって欺くことはできせんでした。ところが隗囂は自ら姦心を抱き、盗賊が家の主人を憎むように(盗賊は警備が厳しい家の主人を憎むという意味のことわざに近い言葉。悪人が善人を逆恨みするという意味)、怨毒の情を私に帰しました。私が詳しく説明しなければ、陛下に策を与えることができないため、行在所(皇帝がいる場所)を訪ねて滅囂の術を極陳(尽力して述べること)できることを願います」
劉秀は上林苑内から彼を招いた。馬援は謀画(策謀計画)を詳しく進言した。
それを聞いた後、劉秀は隗囂の支党を離散させるため、馬援に突騎五千を率いて往来遊説させた。隗囂の将・高峻、任禹らや下は羌豪に及ぶ者達にまで禍福を述べさせた。
隗囂の将・楊広にも書を送って隗囂を曉勧(諭して勧めること)させようとしたが、楊広は答えなかった。
西方の諸将は疑議がある度にいつも馬援に発言を請い、皆、とても馬援を敬重した。
馬援の行動により、隗囂に与する者が減る中、隗囂は劉秀に対して、上書を送った。まさか上書が今更届くとは思っていなかっただけに朝廷の群臣たちはその上書の内容に注目した。
内容は以下のようなものである。
「吏民が『大兵がすぐに至る』と聞いて驚恐自救(自衛)し、私はそれを禁止することができませんでした。兵に大利がありましたが(あなたの軍に大勝しましたが)、敢えて臣下としての節を廃すことはできず、自ら兵の後を追って還らせました(五月に劉秀軍が敗れた時のことを指す)」
劉秀の軍が攻めてきたのに対して防戦したのは自分の意思ではないという文章である。その後に彼はこういう一文を続けた。
「昔、舜が父につかえて、大杖なら走り、小杖なら受けたものです。私は不敏(聡明ではないこと)ですが、どうしてその義(道理)を忘れることがありましょうか。今、私の事は本朝にあります(朝廷の決定にかかっています)。死を賜えば、死に、刑を加えれば、刑を受けます。もし改めて心を洗うことができるのであれば、死んで骨になっても不朽です(死んでも忠心は変わりません」
最初の一文の部分は舜が父が自分を譴責する時、父が大杖を使おうとすると逃げて隠れた。父が小杖を使おうとしたら進んで罰を受けた。大杖から逃げたのは父に自分を殺害するという罪を犯させないためであるという故事が元である。
一見すると謝罪しているような文章であり、こちらと再び関係を修復したいという思いがあるように見える。しかしながらよくよく見ると戦でそちらが負けたことに対して追撃しなかったのはそちらのためであったという余裕を見せようとする文章であり、そちらがしっかりとした対応を行うならば、考えないこともないという明らかに上から目線の言い分である。
そのため朝廷の群臣は、
「隗囂の言は傲慢である」
と考えて人質になっている彼の子・隗恂を誅殺するように願い出た。
それに対して劉秀は隗恂を殺すことに対して良いこととは思わなかった。隗恂の人柄を気に入っているなどというよりは父に見捨てられ、死ぬということに対して哀れみを覚えたのであろう。
彼は再び来歙を汧に派遣して隗囂に書を下賜した。
「昔、柴将軍はこう申したものです、『陛下(劉邦)は寬仁ですので、諸侯で亡叛した者がいても、後に帰順したらいつも位号を戻して誅殺しなかった(柴武が韓王信に送った言葉)』今、手を束ねて再び恂の弟を闕庭に帰属させれば(隗恂の弟も人質として洛陽に送れば)、爵禄は全て獲得でき、浩大の福を得ることができましょう。私は年が四十近くなり、兵中(軍中)に十歳(十年)もいるので、浮語虚辞(中身のない虚言。巧言)を嫌います。隗恂の弟を送りたくないのならば、答える必要はありません」
(少年の優しさがある言葉だ)
あのような形で反旗を翻した隗囂に対して、ここまで譲歩した言葉を言えるのは中々無い。
(しかしながらあの男はこの言葉に耳を貸さないだろう)
事実、隗囂は自分の詐(偽り)を見抜いていると判断し、公孫述に使者を派遣して臣と称した。
それに対し、公孫述は彼を朔寧王に封じた。因みに「朔寧」は「北辺を寧静(安寧)にする」という意味がある。
「そうか……聞き入れなかったか……」
劉秀は報告を受けて首を振った。
「あなたはそこまでして私の下にいたくないのですか……それならば仕方ありません。しかしながらそのような人を騙すようなことをしていれば、いずれ己自身が騙されることにならないのでしょうか。人が離れていくのではないのでしょうか……」
彼が隗囂に抱く思いは憎しみや怒りというよりは哀れみの方が強かった。




