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銅馬が征く  作者: 大田牛二


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班彪

 岑彭しんほう傅俊ふしゅんが夷陵を攻めて攻略し、田戎でんじゅうは逃亡して蜀に入った。田戎の妻子や士衆数万人が捕えられた。


 蜀の公孫述こうそんじゅつは田戎を翼江王に封じた。


 岑彭は蜀討伐を謀ったが、長江両岸は食糧が少なく、水の勢いがはげしいため水運も困難であった。


 そこで威虜将軍・馮駿ふうしゅんを江州に、都尉・田鴻でんこうを夷陵に、領軍・李玄りげんを夷道に留めて駐軍させ、自信は兵を率いて還り、津郷に駐屯して荊州の要会(要衝)に当たることにした。


 また、諸蛮夷を諭して投降を誘い、帰順した君長には上奏して賞賜を与えることを告げて味方にしていった。


 その頃、隗囂かいごう班彪はんひょうに問うた。


「かつて周が亡んで戦国が並争し、数世の後に定まったものだ。故に今からまた合従連衡の戦国時代になるのではないか。それとも一人が天命を受けて復興するのだろうか?」


 この言葉の面白いことは彼が今の乱世の状況を春秋戦国時代を当てはめて考えていることであろう。他の者たちはどちらかと言えば、楚漢戦争を念頭に置くものが多い。


 班彪は答えた。


「周の廃興と漢は異なります。昔、周は爵を五等し、諸侯が政事を行ったため、本根(王室)が微弱になり、枝葉(諸侯)が強大となって、その結果、末流(晩期)には従横の事が起きたのです。これは形勢と天命による必然の結果と言えます。漢は秦制を受け継ぎ、周制を改めて郡県を立てましたので、主(天子)に専己(専制。独断)の威があり、臣には百年の柄(長久の大権。世襲による権勢)がありませんでした。成帝に至ってから、外戚の権勢を借り、哀・平が短祚(在位時間が短いこと)で、国嗣が三絶したため、王氏が擅朝して(朝廷で専横して)、号位を窺うことができましたが、漢の皇室が危難を招いただけで民が害されたわけではありませんでした。そのため即真の後に(王莽が天子の位に即いてから)、天下の民が漢の治世を望んで溜息しないものはいませんでした。その結果、十余年の間に中外が騷擾し、遠近が共に発し、假号(偽の名号)が雲合して皆が劉氏を称し、謀らなくても辞を同じにしたのです。今の世は、雄桀(英雄豪傑)で州域を擁す者も皆、六国の世業の資(戦国時代の六国のような代々積み重ねた資本)がなく、しかも百姓が謳吟思仰しているので(百姓が漢の徳を歌い、思念敬慕しているので)、漢が必ず復興するのは明らかでございます」


 乱世に至った敬意があまりにも違うというのが彼の論理である。しかしながら隗囂が言った。


「先生が言う周・漢の形勢はその通りである。しかしただ愚人が劉氏の姓号に習識していることを見て(民衆が劉氏の統治に慣れているのを見て)、漢が復興すると言うのは疏(完全ではないこと)ではなかろう。昔、秦がその鹿(天下の比喩)を失い、劉季(劉邦りゅうほう)が逐ってそれを捕まえたが、当時の民も漢を知っていたとでもいうのか?」


 秦が滅んでから漢が天下を取ったが、当時の民が漢の存在を知るよしはなかったのだから、王莽が滅んだ今も、民が知らない新しい王朝が開かれてもいいのではないかということである。


 班彪は『王命論』を著して風切(厳しく諫めて諭すこと)した。


「昔、堯が舜に禅譲した時、こう申したそうです。『天の暦数は爾躬(汝の身)にある』と、舜もこれを禹にも伝えたものです。稷・契の代は皆、唐・虞(堯・舜)を輔佐しましたが、湯・武(商王・成湯と西周武王)に至って天下を有しました。劉氏は堯の祚(帝位)を受け継ぎ、堯が火徳に拠ったため漢もそれを継承して、赤帝子の符があったのです。よって鬼神に福饗(鬼神が祭祀を受け入れて福を与えること)されることになり、天下が帰往(帰順)するところとなったのです。これを元に言うならば、世局を変える基礎がなく、功徳が記録されていないにも関わらず、屈起(興起)してその位(帝王の地位)にいることができた者は見たことがありません」


 簡単に言えば天命を受けた者が必ず、現れるということである。


「俗人は高祖が布衣から興ったのを見ても、その理由に達しておらず(その理由を理解できず)、ひどい場合は天下を逐鹿に喩え(天下を取ることを鹿を逐うことに喩え)、幸いにも駆けるのが速かったからこれを得たと思っており、神器(帝位)には命があり、智力(智慧と力)では求められないということを知らないのです。悲しいこととしか言えません。これが世に多くの乱臣賊子が現れる原因なのです」


 それだけ劉邦が天下を得た経緯は誤解を生みやすいとも言える。


「餓饉の流隸(流亡する卑賎な民)は道路で飢寒に苦しんでおり、彼等が願うのは一金に過ぎませんが、その一金すら得られずに最後は溝壑(谷や川)で死んで屍が棄てられています。それはなぜでしょうか。貧窮にも命があるからです。天子の貴(尊貴な地位)、四海の富、神明の祚(帝位)に至っては、なおさらそれらを得て妄りに処す(その地位にいる)わけにはいきません。よって、たとえ災難に遭遇しようともその権柄を盗み取り、勇が韓信、英布のようであって、強が項梁、項籍(項羽)のようで、成(成果。成功)が王莽のようだったとしても、最後は潤鑊(釜茹での刑)・伏質(腰斬、斬首)、亨醢(「亨」は釜茹での刑、「醢」は死体を肉醤にされる刑)・分裂(分肢)の刑を受けることになるのです。幺麼(微小)で数子(韓信、英布等)にも及ばないにも関わらず、天位に対して闇奸(陰謀による簒奪)しようと欲する者ならなおさらと言えましょう」


 天命が無い者はやがて報いを受けるのであって、その天命の無い者が高貴になろうとも意味はなく、


「昔、陳嬰の母は陳嬰の家が世々貧賎だったために富貴は不祥と考え、陳嬰が王になることを止めさせました。王陵の母は高祖が必ずや天下を取ると思い、剣に伏して死ぬことで王陵の意志を堅固にさせて励ましました。匹婦(庶民の婦人)の明によってでも、なお事理の致(精緻。真髄)を推しはかり、禍福の機(要)を探ることで、宗祀を無窮に全うし(保ち)、策書(書籍。記録)を春秋(史書。歴史)に垂らすことができるのです(歴史に功績を残すことができます)。大丈夫の事(事業)ならばなおさらです。このようであるので、窮達(困窮と顕達)には命があり、吉凶は人によるのです(吉凶は人がどう行動するかで決まります)。陳嬰の母は廃(失敗の道理)を知り、王陵の母は興(興隆の道理)を知っていました。この二者を明らかにすれば、帝王の分(名分)が決し、誰が帝王に相応しいかが分かるのです」


 そのことは低い身分のものも知ることができるのである。


「そのうえ、高祖は寬明かつ仁恕であり、人を知って善く任使(任用)しました。食事の時でも口から食べ物を吐き捨て、子房(張良)の策を受け入れ、足を洗うのを止めて酈生(酈食其)の説に揖礼し、韓信を行陳(陣中)で挙げ、亡命中の陳平を収めましたので、英雄が陳力(貢献。尽力)し、群策がことごとく挙げられました。これは高祖の大略であり、帝業を成した理由なのです。霊瑞・符応に至っては、そのような事は非常に多数あります。だからこそ淮陰(韓信)や留侯(張良)はこれを天授であって人力ではないと言ったのです。英雄が誠に覚寤(覚悟。覚醒。道理を悟ること)を知り、超然と遠くを眺め、淵然(淵の底のように深いこと)と深くを認識し、王陵、陳嬰の明分(本分を明確に把握すること)を収め、韓信、英布の覬覦(野心)を絶ち、逐鹿の瞽説(妄言)を拒み、神器が天授されているかを明らかにし、望むべきではないことを貪ろうとせずに、二母(陳嬰と王陵の母)に笑われることがなければ、福祚(福禄)を子孫に流し(伝え)、天禄(天が与えた福)が永終(長久)になりましょう」


 劉邦が天下を得ることができたのは多くの人材を活用できるだけの器と天命があったからこそ天下を得たのである。


 しかしながら隗囂はこの班彪の諫言をしっかりと聴くことはなかった。


 困惑したのは班彪である。漢王朝復興を名代にして、立ち上がったにも関わらず、漢王朝の復興ではなく、春秋戦国の世のような乱世を望んでいる。そのことは自らの野心を表していることに等しい。


(ここは離れるべきだな)


 そう思った班彪は隗囂から離れ、河西の竇融とうゆうの元に身を寄せることにした。竇融は班彪を従事に任命し、とても礼重した。


 この後、班彪は竇融のために画策し、専心専意、漢に仕えるように勧めるようになった。


 


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