彭寵
このごろ、彭寵の妻はしばしば悪夢を見たり、多数の怪変(怪異。異変)を見るようになった。不安を覚えて、卜筮や望気の者に相談すると皆、
「兵が中から起きる」
と言った。
彭寵は子后蘭卿が劉秀の人質になってから帰ってきたため信用しておらず、兵を率いて外地に駐留させていた。それによって内部に彭寵と親しい者がいなくなった。
ある日、彭寵が便室(休憩用の部屋)で斎戒を行った。
彭寵が臥して眠りにつくと、蒼頭(奴隷)の子密ら三人がその隙に寝床の上で彭寵を縛り、外の官吏に、
「大王は斎禁(斎戒)しているため、全ての官吏を休ませることにした」
と告げた。
また、彭寵の命と偽って奴婢を縛り、それぞれ別の場所に置いた。
その後、彭寵の命と称してその妻を呼んだ。部屋に入った妻が驚いて。
「奴(奴隷)が反した」
と叫んだため、子密らは妻の頭をつかんで頰を打った。
彭寵が急いで叫んだ。
「速く諸将軍のために辦装せよ」
「諸将軍」は子密らを指す。「辦装」は旅の仕度であり、彭寵は子密らに家財を与えて逃走の機会を与え、命を助けられることを望んだのである。
二人の奴隷が妻を連れて正室に入り、宝物を奪い、一人の奴隷が彭寵を見張った。
彭寵が見張りの奴隷に言った。
「まだ幼い汝のことは私は以前から愛してきた。今回は子密に迫劫(脅迫。強制)されただけである。私の縄を解いたら、娘の珠(彭珠)を汝の妻とし、家中の財物を全て汝に与えようではないか」
小奴は心中で彭寵の縄を解こうと思ったが、戸外を見ると子密が彭寵の話を聞いていたため解けなかった。
金玉・衣物が集められ、彭寵がいる場所で荷造りがされた。被馬(鞍等の馬具をつけた馬)も六頭準備された。
子密らは彭寵の妻に二つの縑囊(絹の袋)を縫うように命じた。
妻は渋々縫っていき、昏夜の後(日が暮れてから)、子密らが彭寵の手を解き、城門の将軍に命令を告げる記(文書)を作らせた。そこにはこう書かれていた。
「今、子密らを派遣して子后蘭卿がいる場所に到らせる。稽留(停留)してはならない」
書ができると子密らは彭寵と妻の頭を斬り、妻が縫った囊(袋)の中に入れ、記(文書)を持って馳けた。城を出て洛陽の宮闕を訪ねた。
翌朝、閤門(宮殿の門)が開かないため、官属が壁を乗り越えて中に入った。彭寵の死体を見つけて驚き恐れた。
彭寵の尚書・韓立らが共に彭寵の子・彭午を王に立てたが、国師(彭寵が置いた官)・韓利が彭午の首を斬り、祭遵を訪ねて降った。その後、彭寵の宗族は皆殺しにされた。
こうして漁陽が平定された。
劉秀は子密を不義侯に封じた。
『資治通鑑』はこれに対して、権徳輿(唐代の政治家、文学者)の評価を載せている。
「伯通(彭寵の字)の叛命(謀反)も子密の戕君(君主殺害)もどちらも乱臣の行為である。その罪は隠すことができず、それぞれに法を行って王度(王の制度)を明らかに示すべきであった。しかしながら逆に五等の爵を与え、しかもまた『不義』を侯名としている。不義によって挙げるのならば侯にしてはならないはずである。このように侯にしてもいいのならば、漢の爵位は善を勧めるに足らなくなってしまう」
今までも同じような政治的な判断はあったが、今回は不義侯という侯名を名づけているのが問題であるということである。
劉秀は皮肉を込める言葉をよく発することが多いがそのためこのような非難を浴びることもちょいちょいある。また、興味深いのは『資治通鑑』がこの評価を載せていることである。この史書の筆者である司馬光は劉秀に対しては絶賛に近い評価を与えている人である。
司馬光は劉秀に高い評価を与えている一方、どうしても非難したくなる点に関しては非難するところがある。
劉秀は彭寵の代わりに扶風の人・郭伋を漁陽太守に任命した。
郭伋は離乱(離散混乱)の後を受け継ぎ、民を養い、兵を訓練して、威信を開示(顕示。広く示すこと)した。そのおかげで盗賊が銷散(消散)し、匈奴が遠迹(遠くに離れること)し、在職した五年間で戸口が倍増させた。
混乱にあった地域を治めたことで郭伋は劉秀に大きな信頼を受ける文官の一人となる。
劉秀は光禄大夫・樊宏に命じ、符節を持って長い間、彭寵と対峙してきた上谷の耿況を迎えさせた。
耿況を迎え入れると、劉秀は言った。
「辺郡は寒苦ですので、久しく住居するに足らないでしょう」
耿況に甲第(上等の邸宅)を下賜し、奉朝請(春と秋の朝会に参加する特権)を与えて牟平侯に封じた。
大司馬・呉漢は建威大将軍・耿弇と漢忠将軍・王常を率いて平原で富平、獲索の賊を撃ち、大破し、その余党を追討して勃海に至り、四万余人を投降させたところで、彭寵の死を知った。
「愚かな人であった」
かつての上司であったことから呉漢としてはあまり厳しくない言葉であった。
「彼は何をしたかったのでしょうか?」
耿弇が問うと呉漢は答えた。
「何をしたかったのか途中でわからなくなったのだろう。志が無いからだ」
この時、耿弇は劉秀からの詔を受け、騎都尉・劉歆と太山(泰山)太守・陳俊と率い、張歩を討伐を命じられていた。
「汝の志を果たす時が来たということだ。汝の志のままに戦うと良い」
「はい」
こうして耿弇は出陣した。




