二人の梟雄
隗囂は天水に帰ってから再び部衆を集め、故業(元の基礎、基盤)を新たに興した。
隴右(隴山以西。皇帝は北に坐って南を向くため、西が右、東が左になる)で割拠して自ら西州上将軍を称した。
三輔の士大夫で乱を避けた者の多くが隗囂に帰順した。元々名声があったというのも関係している。隗囂はへりくだって彼らを引接し、布衣の交り(地位にこだわらない平民同士のような関係)を結んだため志ある者は彼の態度を喜んだ。
平陵の人・范逡を師友に、元涼州刺史・河内(または「河南」)の人・鄭興を祭酒に、茂陵の人・申屠剛と杜林を治書(「治書」は「治書侍御史」)に、馬援を綏徳将軍に、楊広、王遵、周宗および平襄の人・行巡、阿陽の人・王捷、長陵の人・王元を大将軍に、安陵の人・班彪らを賓客にした。
ここから隗囂の名が西州を震わせ、山東にも聞こえるようになった。
賓客になった班彪は王莽に従わなかった一人である班穉の子である。また、『漢書』を書いた班固、西域の守護神となる班超、中国史初の女性歴史家である班昭という子供たちを持つことになる人である。
綏徳将軍となった馬援は字を文淵という。
先祖に趙奢というが趙の名将がおり、その彼が馬服君と号したため、子孫が馬を氏にした。
武帝の時代、馬援の先祖が二千石の官吏として邯鄲から遷された。
馬援の曾祖父・馬通は功績によって重合侯に封じられたが、兄・馬何羅の謀反に坐して誅殺された。
そのため馬援の祖父と父の二世は顕官に就けなかった。
馬援には三人の兄がいる。馬況、馬余、馬員といい、それぞれに才能があったため、王莽の時代に三人とも二千石になった。
馬援が十二歳の頃に父を失った。
諸兄は幼い頃から大志を抱いていた馬援を奇異に思っていた。
馬援はかつて潁川の蒲昌に師事し、斉詩を教わった。しかし馬援は詩の一章や一句にこだわる学問には志が向かなかったため、兄・馬況に別れを告げて辺郡で田牧をすることを欲した。
馬況が馬援に言った。
「汝の大才は晩くに成就するはずである。良工は朴(加工していない木材)を人に見せることはない。暫くは好きなことをせよ」
彼を愛してくれた兄・馬況はしばらくして死んでしまったため、馬援は一年の喪に服し、墓所から離れなかった。
嫂を敬い、恭しく仕えて、冠を被らなければ(正装しなければ)廬(嫂の部屋)に入ることもないというほどであった。
後に郡督郵になり、囚人を司命府(司命は王莽が置いた官)に送った。
ところがこの時、囚人に重罪の者がいたが、馬援はこれを哀れんで逃がしてしまった。そのため北地に亡命することになった
やがて大赦があったため、その地に留まって牧畜を始めた。多数の賓客が馬援に帰附し、役属が数百家になったという。
馬援は隴・漢の間を転遊し、常に賓客にこう言った。
「丈夫足る者が志を立てれば、困窮したらますます堅強になり、老いたらますます壮健になるべきである」
その地で田牧を始めて数千頭の牛・馬・羊と数万斛の穀物を有すようになったが、感嘆して、
「財産を増やすことにおいて、貴いのは賑施(施し。救済)ができることである。そうでなければ守銭虜に過ぎない」
と言うと、財産を全て散じて兄弟や故旧(旧知)に分け与えた。自分自身は羊裘・皮絝を身につけるだけであった。
王莽の末年、四方で兵が起きると、王莽の従弟にあたる衛将軍・王林が広く雄俊の士を招いた。馬援や同県の原陟を召して掾に任命し、王莽に推挙した。王莽は原涉を鎮戎大尹に、馬援を新成大尹に任命した。
しかし王莽が敗れたため、当時、増山連率だった馬援の兄・馬員が馬援と共に郡を去り、再び涼州の地に逃げた。
劉秀が即位すると、馬員は先に洛陽を訪ね、劉秀は馬員を再び郡に復帰させた。後に馬員は官に就いたまま死んだ。
一方、馬援は西州に留まっていた。
どういう心境であったのかは史書に記載は無い。兄と同僚になることで兄の出世を妨げるようなことがあってはならないという思いがあったのかもしれない。
隗囂はそんな馬援を甚だ敬重し、綏徳将軍に任命して共に籌策(策略。計策)を決するようになった。
平陵の人・竇融はかつて王莽に仕えており、波水将軍になった。そして、更始政権の韓臣らと戦い、敗れた。
王莽が破れると竇融は軍を挙げて更始政権の大司馬・趙萌に降った。趙萌は竇融を校尉に任命して甚だ重んじた。竇融は代々河西で仕宦(仕官)しており、土俗(風俗)をよく知っていたため、その辺に行きたいと考えていた。そこで竇融は秘かに兄弟達に、
「天下の安危はまだわからない。河西は殷富(富裕)だから、河(黄河)が接して固い守りとなっている。張掖属国(漢が辺郡に属国を置いて都尉に管理させた地)には精兵が万騎おり、一旦緩急(変事)があれば、河津(黄河の渡し場、港)を杜絶して自分を守るに足りる。これは種(子孫)を残す地だ」
と言い、趙萌を通じて河西に行くことを求めた。
趙萌が更始帝に竇融を推挙し、竇融は張掖属国都尉に任命された。
竇融は張掖属国都尉として河西に入ると、雄桀(英雄豪傑)を慰撫して関係を結び、羌虜を懐柔していき、広く人々の歓心を得ていった。
当時、酒泉太守・安定の人・梁統、金城太守・庫鈞、張掖都尉・茂陵の人・史苞、酒泉都尉・竺曾、敦煌都尉・辛肜が州郡の英俊として名声があった。
竇融は彼らと厚く交わって関係を深めた。
更始帝が敗れると、竇融は彼等と計議して言った。
「今、天下は擾乱(混乱)しており、まだ帰するところが分からないでいる。河西は羌・胡の中に斗絶(孤立)しているため、心を一つにして尽力しなければ、自分を守ることができなくなるだろう。また、それぞれの権力が等しくて力が同等であると、統率することもできない。一人を推して大将軍とし、五郡を共に守って時の変動を観るべきだと考える」
大将軍を立てることで議論がまとまったが、それぞれ謙譲しあい、地位の高低から皆が梁統を推したが、梁統は固辞した。
最後は竇融が推されて行河西五郡大将軍事(河西五郡大将軍代行)になった。
武威太守・馬期、張掖太守・任仲も孤立して党がなかったため、竇融らは書を送って河西の形勢を告知した。
二人はすぐに印綬を解いて去った。
そこで竇融は梁統を武威太守に、史苞を張掖太守に、竺曾を酒泉太守に、辛肜を敦煌太守に任命した。庫鈞は金城太守のままである。竇融は張掖属国におり、今まで通り都尉の職務を行ったが、従事を置いて五郡(武威・張掖・酒泉・敦煌・金城)を監察した。
河西の民俗は質樸で、竇融らの政治も寬和だったため、上下が互いに親しみ、安定して富を増やした。
竇融は兵馬を修めて戦射を習わせ、烽燧を設けて火を灯した。羌・胡が塞を侵せば、すぐに竇融自ら諸郡を率いて援けに行き、符要(檄文で約束した期日)に遅れたことがなく、常に敵を破った。
(初陣は無様に負けたが、そのおかげかな)
竇融は一度も自分が優れた人物であると思ったことがない。そのため勝利を得ても驕ることがない。
この後、羌・胡は皆震撼し、竇融に服従して親しんだ。
また、内郡の流民で凶饑を避けて来た者も竇融に帰順して絶えることがなかった。




