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銅馬が征く  作者: 大田牛二


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各地の動き

 王莽の時代、天下の人々が漢の徳を思念していた。


 そこで、左谷に住んでいた安定郡三水の人・盧芳ろほうが自分は武帝の曾孫・劉文伯であると偽り、こう言った。


「私の曾祖母は匈奴渾邪王の姉である」


 盧芳はしばしば安定一帯でこのような事を言って人々を惑わしていた。


 匈奴渾邪王は紀元前121年に武帝に降った。盧芳の言によると渾邪王の姉は武帝の後宮に入って子を産んだと主張したが、事実かどうかは不明である。


 王莽の末期、盧芳が三水属国の羌・胡と共に挙兵した。


 更始帝が長安に入ると盧芳を招いて騎都尉に任命し、安定以西を鎮撫させた。


 しかし更始帝が敗れたため、三水の豪桀は共に盧芳を擁して上将軍・西平王に立てた。


 盧芳は使者を送って西羌や匈奴と和親を結んだ。


 単于は、


「漢氏が中絶して劉氏が帰附しに来た。私も漢が呼韓邪単于を助けたように盧芳を助けて、私に尊事(尊んで仕えること)させるべきであろう」


 と考え、句林王に数千騎を率いて盧芳兄弟を迎えに行かせた。


 盧芳兄弟が匈奴に入ると、単于は盧芳を漢帝に立てて盧芳の弟・盧程を中郎将に任命し、胡騎を率いて安定に還らせた。










 また一人の群雄が出現していた頃、劉秀りゅうしゅうは関中がまだ平定できないでいる鄧禹とううに対して、長安へ兵を向けるよう譴責する書を送った。


「司徒(鄧禹)は堯である。亡賊は桀である。長安の吏民は遑遑(恐慌して不安な様子)として依帰(帰順)するところがないため、適時に進討し、西京を鎮慰して百姓の心を繋ぐべきである」


 しかし鄧禹はやはり以前の意見を堅持し、別方向の上郡諸県を攻撃した。更に兵を集めて穀物を運び、大要に還った。


「慎重過ぎる」


 劉秀は鄧禹の行動を聞いてそう呟いた。現在、関中での鄧禹の名声は高まっている。しかしながらそれは赤眉を恐れ、助けてもらいたいという民衆の思いによるもので、鄧禹だけによるものではない。それにも関わらず、赤眉と戦うの避ける動きをしていれば、やがて民も諦め始める。


(長安に少しでも攻めるという意思を見せなければ……)


 多少の被害は仕方ない。その行動にこそが価値がある。劉秀はそう考えているために鄧禹へ長安を攻めるように言ったのである。


 そんな時、劉秀の元に報告が来た。


 この頃、積弩将軍・馮愔と車騎将軍・宗歆が栒邑を守っており、権力を争って互いに攻撃していた。


 やがて馮愔は宗歆を殺し、その機に反して鄧禹も攻撃し始めた。


 鄧禹は使者を派遣して劉秀に報告した。劉秀は群臣の前で、使者に問うた。


「馮愔が親愛しているのは誰であろうか?」


「護軍の黄防です」


 劉秀はそれを聞いて、馮愔と黄防が久しく和すことができず、必ず対立することになると予測した。そして、鄧禹にこう伝えた。


「馮愔を縛るのは黄防であろう」


 劉秀は尚書・宗広そうこうを派遣し、符節を持って投降を呼びかけさせた。果たして、一月余経つと黄防が馮愔を捕え、部衆を率いて帰順し、謝罪した。


 更始帝の諸将だった王匡、胡殷、成丹等も皆、宗広を訪ねて投降した。


 宗広は彼らと共に東に帰ったが、安邑まで来た時、彼らが道中で逃亡しようとした。


(今度は失敗するわけにはいかない)


 宗広は彼らを全て斬って殺した。


 馮愔が謀反した時、彼は兵を率いて西の天水に向かった。


 しかし隗囂かいごうが迎撃して高平で破り、輜重を全て奪った。


 馮愔が平定されたから、鄧禹が承制(皇帝の代わりに任務を行うこと)によって符節を持った使者を派遣し、隗囂を西州大将軍に任命した。隗囂は涼州と朔方の政事を専制できる権限を持つことになる。


 劉秀公認で自由に隗囂は涼州と朔方を動き回れるようになったのである。


 隗囂はにやりと笑った。













 十二月臘日(年末の祭祀の日)、赤眉の樊崇はんすうらが音楽を奏でて大きな宴会を開いた。皇帝・劉盆子りゅうぼんしが正殿に座り、中黄門が武器を持って後ろにおり、公卿が皆、殿上に並んで座った。


 ところが酒が行き届かないうちに、公卿の一人が刀筆(刀は字を書き間違えた時に木簡や竹簡を削るために使う)を出して謁(書き付け。ここでは祝辞を書いた木簡・竹簡)を書き、祝賀しようとしたため(皇帝に酒を勧めて祝杯を挙げる時に祝辞を書いた謁を献上することがある)、他の文字を書けない者達も立ちあがって代わりに書くように請うた。


 所々で人のかたまりができ、それぞれ他のかたまりに対して背を向け合った。


 大司農・楊音ようおんが剣に手を置いて罵声を上げた。


「諸卿は皆、老傭(老いた使用人、下僕)である。今日、君臣の礼を設けたにも関わらず、逆にますます殽乱(混乱)させた。児戲でもこのようにはならない。皆、格殺(撃殺)するべきだ」


 楊音の罵声をきっかけに公卿群臣が互いに辯闘(争論)を始めた。


 その隙に兵衆が次々に皇宮の壁を越えたり関(宮門)を破って侵入し、酒肉を奪い、互いに殺傷し始めた。


 衛尉・諸葛穉がそれを聞いて兵を指揮し、宮内に入って百余人を格殺(撃殺)したため、やっと収束した。


 この惨状に劉盆子は恐れて不安になり、日夜啼泣した。従官が皆これを憐れんだ。


 この後、劉盆子は中黄門だけと卧起(起居)を共にし、ただ観閣(楼閣)に登るだけで外事(外の事。朝廷の政事)には耳を傾けなくなった。


 ある意味、皇帝としての職務を放棄したことになるが、彼の幼さと即位の経緯を見ると彼を責めるのは酷であろう。


 当時、掖庭(後宮)の宮女はまだ数百千人(数百から千人)おり、更始帝が敗れてからも殿内に幽閉されていた。庭の中で蘆菔根(大根)を掘ったり、池の魚をとって食いつなぎ、死者はそのまま宮中に埋められた。


 かつて甘泉を祀った楽人達がおり、まだ共に鼓を叩いて歌舞していた。衣服は鮮明であったが、劉盆子を見ると叩頭して飢餓を訴えた。


 劉盆子は中黄門を送って一人当たりに数斗の米を与えた。楽人だけでなく宮女全てに与えたと思われる。


 後に劉盆子は長安を去ることになるが、宮女は皆、餓死しても宮中から出なかった。


 恩を思ったための証明なのか。どうかはわからない。











 以前から劉秀は宗正・劉延りゅうえんに天井関を攻撃させていた。


 劉延は田邑でんゆうと連戦して十余合に及んだものの、なかなか前進できないでいた。


 後に更始帝が敗れたため、田邑は使者を送って投降を請うた。


 劉秀は田邑を上党太守に任命した。


 次に劉秀は鮑永ほうえいを招くために諫議大夫・儲大伯しょだいはくに符節を持たせて派遣した。


 しかし鮑永は更始帝の存亡を知らなかったため、劉秀の招きを疑って従わず、逆に儲大伯を逮捕してから使者を長安に駆けさせて虚実を探らせた。


 またこの時、劉秀は新野に傅俊ふしゅんを送り、陰麗華いんれいかを招いていた。


「来てくれるかな?」


「皇帝の命令には従うだろう?」


 何を言っているんだとばかりに朱祐しゅゆうが言うが劉秀はそういうことじゃないんだよなあと思いながら陰麗華を待った。因みにこの時、最近、夫を亡くしている姉の劉黄りゅうこう李通りつうと彼に預けておいてちゃっかり妻になっている妹の劉伯姫りゅうはくきも招いていた。


「よくもまあ妹なんぞを妻にしましたなあ」


 劉秀は李通にそう言う。因みに妹への兄たちの評価は騒がしいであり、二人の姉からの評価は甘えん坊である。


「いやいや、あなた様に預けられてから身の回りの世話などをよくやって下さった。大変助かりましたよ」


「それは良かった」


 李通は挙兵前に家族が殺されている。その悲しみへの癒しに妹の明るさがなれたのであれば良かったと思えた。


 劉秀は李通を衛尉に任命した。


 さて、陰麗華である。彼女は使者が来るとあっさりと同意してやってきた。ついでに兄・陰識いんしき、弟の陰興いんこうもやってきた。


 劉秀は彼女らを歓迎し、陰麗華を自室に招いた。


「来てくれて良かった」


「来ないと思っていましたか?」


「いや……」


「嘘はいけませんよ」


 呆れる陰麗華に劉秀は苦笑する。


「来ないと思っていたよ」


「他に女を作りましたからね」


「あはは」


「でも、だからと言って私を皇后にするというのは無しです」


 陰麗華の言葉に劉秀は目を細める。


「既に男子が産まれているのでしょう。ならばその方は長子。皇后となる権利は実母になるわ」


 彼女は劉秀の手に手を乗せた。


「そのところを間違えてはいけません」


「わかった」


 こうして陰麗華は貴人とされた。








 かつて更始帝が王閎を琅邪太守に任命したが、張歩ちょうほが郡を占拠して拒んだ。


 王閎は各地を諭して投降させ、贛楡かんゆらの六県を得てから兵を集めて張歩と戦ったが、それでも勝てなかった。


 張歩は劉永りゅうえいの官号(輔漢大将軍)を受けてから、劇(地名)で兵を整え、将を派遣して泰山、東莱、城陽、膠東、北海、済南、斉郡を攻略させた。これらの地は全て劉永の支配下に入った。


 王閎は張歩に対抗する力がないため、自ら会いに行った。


 すると張歩は大軍を並べてから王閎に会い、怒ってこう言った。


「私に何の罪があって、君は以前あれほど甚だしく(激しく)攻撃したのか」


 すると王閎が剣に手を置いて言い返した。


「太守が朝命を奉じたにも関わらず、文公(張歩の字)が兵を擁して拒んだため、私は賊を攻めただけだ。何を甚だしいというのか」


 張歩は立ちあがってから跪拝して謝罪し、共に宴飲した。王閎を上賓として待遇し、この後、郡の政事を全て王閎に掌管させた。


 

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