生きたい。
死ね、なんてあんなにも冷たく言われたのは、初めてだった。死のうがどうなろうが、本心から興味のない風だった。私の死体が転がろうが、歩き回ろうが気にもしないのだろう。
こんなにも、傷ついたことはない。
父親に捨てられようが、荒れた母親に捨てると脅されても、重い問題が足を引っ張っても、どこか他人事に捉えていた。現実と心にワンクッション置いて、本格的に壊れてしまうことを防いでいた。
本当に死ぬ。苦しみながら、死ぬ。殺されるんだ。
ドクドクと嫌な鼓動が、身体中を駆け巡る。音を立てれば、死ぬ。身を引き裂かれて食われて、同じにされてしまう。こんな場所に、居続けるなんて、持たない。
どこか、安全な場所……と口を押さえて考えたら、映画館が浮かんだ。あそこなら、防音だ。閉じこもれば、多少は安心もできるはず。中に、なにもいなければ……。
チケット売り場がこの上の三階、映画館内は四階。鞄は外に落ちたままだし、元から身を守れるようなものは持っていない。丸腰の上にこの怯えきった身体で、辿り着ける自信はない。でもここには居られない。
そうだ。キッチンになにか役に立つものがあるかもしれない。ゾンビ映画でも、身の回りの物を武器にして戦うシーンはよくある。あった方がいい。
レストランの中にはなにもいないと信じて、出口を見張りながら後退りしてキッチンに向かう。近付くにつれて、悪臭は強くなる。暗くとも銀色だとわかるキッチンには、作りかけの料理があったから臭いの原因だろう。ゴミ捨て場にいる気分だ。
物陰に”ソレら”がいないことを確認してから、包丁を手にする。これで対抗するなんて、無謀だ。ガクガクと震えた手で、頭蓋骨を突き刺せるわけがないだろう。
フライパンでぶっ叩くなんて、音が大きそうで怖い。
なにか見つけておかなくては。静かに探ってみれば、銀の肉叩き棒を見つけた。これを使うとなると、ゾッとしてしまう。ステーキ用のナイフも何個かスキニーのポケットにしまい、レストランを出ることにした。
壁に背中を這わせるようにしなくては、怖くて堪らない。重たい肉叩き棒を手に握ったまま、動いていないエスカレーターを上る。
ガラスの窓から、道路が見えた。一瞥するだけで、上の階と下の階に意識を集中させる。腐った死体が歩き回っていないか、注意しなければ。パンプスで足音を鳴らさないように慎重に、慎重に進む。チケットとポップコーンが売られている三階に到着した。
死体はない。いたら、車が落ちた音に反応して、下に下りているはずだろう。息を飲みながら、手摺りにぴったりと寄ったまま、そっと上を覗き込んだ。
問題は、この上だ。音が届かずに、留まっている可能性は高い。四階には窓ガラスもないから余計に暗いはず。なにもいないと願って、もう一度エスカレーターを上る。
四階を見るなり悲鳴を上げてしまいそうになって、私は必死に口を押さえた。死体が一体、歩いている。目を合わせられず、震えも堪えて俯く。
足を引きずって通路を歩くソレは、私に気付いていないようだった。
恐る恐る、顔を上げる。首筋に噛みちぎられたような黒ずんだ傷口があって、ズタボロの服装はサラリーマンらしき安っぽいスーツ姿。食い殺されたんだ。私もそうなるかもしれないと思うと、涙が込み上がってしまう。
お願いだから、落ち着いて。声出したら、バレてしまう。死体に、目はない。私の姿は見えてない。
エスカレーターを上りきって、隅に身を寄せてステーキナイフを一つ取り出す。頃合いを見計らって、下に向かって投げた。
カランッ!
音が響くなり、死体は感電したかのように震えて反応した。死後硬直をしているらしい身体は、ギシギシと不気味な音を出す。血肉を求める口をあんぐり開けて、喉を締め上げたような呻き声を上げた。
足を引きずった死体はエスカレーターを下りれず、転がり落ちる。物凄い音がして、周囲を確認した。いるなら、まだ出てくるはず。
落ちた死体は、足が折れて首が折れて骨がむき出しになったというのに、それでもなにかを求めるかのように、もがいている。その状態のまま、這っていく姿はおぞましい。
頭の中になにか寄生虫がいて、それに操られているのか。なんで、それでも動けてしまうの。映画だけの話なら、ゾンビだからって理由で納得するけども。
これが映画だったのならいいのに。スクリーン越しなら、ただホラーを楽しむだけだったというのに。現実のホラーなんて、勘弁してほしい。恐怖のあまり泣き出す登場人物の気持ちが、今なら痛いほどわかる。
竦みそうな足を動かして、映画館内に向かう。足音を立てないように、けれども早歩きで進む。普段なら係員がチケットを確認する入り口。そこを曲がろうとした。
「グガァ‼︎」
「⁉︎」
ソレが飛び出してきて、私は悲鳴を上げかける。そんな余裕も暇もなく、バタンと押し倒された。私の肩を握り締めて、噛みつこうとする。両手で顎を押し退けようとしたけれど、かなり強い。
眼球がなかった。黒に塗りつぶされたみたいに真っ黒な穴。青白い肌も、黒ずんでいる。猛獣のような呻きを出す口の中も、真っ黒。歯に引っかかっているのは、人間の皮膚だろう。口臭は、喰らったもののせいか、それともこの死体そのもののせいか。あるいは両方。
ガジッ!
噛み損ねた歯の音に、ゾクッとする。
ガジッ!
私を喰らいたがっている音に、力が抜けてしまいそう。掴まれている肩に指が食い込んで痛い。でも足は自由だった。脇に膝蹴りを入れれば、やっと突き放せた。
奥にいたらしいその死体は、柄のシャツでラフな格好をした女性だ。すぐに起き上がって私を捜すように、顔を左右に揺らしている。私は口を閉じて、動きを止めた。息も止める。やり過ごしたかった。
でもーー…カチ、カチ。
歯を鳴らして、目が視えない状態で把握しようとしている。おぞましい人食い死体を目の前にしてじっとできるわけなかった。耐えるなんて、できない。
肉叩き棒が丁度、間にあった。手を伸ばそうかと思った。
そこで、彼女と目が合った気がした。
私をじっと見ている気がする。視えていなくても、私がここにいることに気付いたとわかった。
肉叩き棒を掴めば、大口を開いた。その頭を殴打する。軽すぎて、すぐに猛獣みたいな叫びを上げて襲いかかろうとした。阻止するために、横に振って叩きつける。今度は倒れた。
死体とはいえ、殴った罪悪感が腕に広がる。痺れてしまっただけだろうか。
強打したところが抉れて黒い血を流すのに、彼女はまた起き上がろうとした。頭をかち割らなければ、動き続ける。
ーーやらなければ、殺られる。
決断した私は、踏み潰して押し倒す。それから、大きく棒を振り上げてーー文字通り、叩き潰した。
最悪な音だった。スイカを叩き割ったみたいだなんて、そんな生易しいものとは違う。確かにこの腕に頭蓋骨を叩き割った感触がある。陥没して肉叩き棒が、額に食い込んだ。どす黒いものが、骨の破片とともにそこに散乱していた。酷い臭い、酷い光景。吐きそうになっても、堪えた。壁に凭れて、エスカレーターと角の奥を見る。外の明かりが届かない真っ暗な奥には、もういないみたい。でもエスカレーターを、さっきのリーマンの死体が這ってきていた。
泣くことを堪えて、黒い血肉がついた棒を持って歩み寄る。か細く呻くその頭にまた叩きつけて、トドメをさした。
喉に込み上がるものを飲み込んで、角を曲がってドアの開いた一番スクリーンに入る。開いていたなら、恐らく中にはいないはず。そう信じたい。
ゆっくりと重たいドアを閉じて、うっすらとした灯りがついたその先に向かう。スクリーンに光が照らされている。何故だろう。
どうか、座席満員に死体がぞろっと並んでいませんように。
悪い想像が浮かんでしまい、またドクドクと嫌な緊張が身体中を巡った。呼吸をする度に胸が痛い。自分から危険な場所に飛び込んだわけではないと信じて、その目で確認する。
一番スクリーンは、ガラガラだった。それはそれで、不気味だ。薄暗いそこに、潜んでいないかを確認する。足元の灯りもついていたから、転ばずにすんだ。座席の間に横たわっていないか、一列ずつ確認する。最上の列にも、死体はいない。
ここには危険はない。一先ず息をつけると、力を抜いて座り込む。あの死体達が重たいドアを押し開けることはないだろう。
なにも再生されないスクリーン。私と同じく映画館の中に立てこもろうとした人が、つけたのかもしれない。無事に帰れたかは定かではないけれど。
座席を枕代わりにして、うとうとする。意識が薄れてきた。極限状況に疲れ切ってしまったせいだろうか。なにも迫っていないことを、この目で見張っていたいのに、瞼が下がってしまう。
”ソレ”に腕を引っ張られた気がして、ハッと目を覚ます。
呼吸が乱れて、慌てふためくけれど、そこにはなにもいない。
ガラガラの映画館の中で、座り込んでいる。悪夢でした、という落ちではないみたい。腕時計を確認すれば、九時を過ぎていた。三時間も、気を失っていたのだろうか。それとも、もう朝になったのか。わからない。携帯電話は、鞄の中だ。
すすり泣く。ここに立てこもってどうするんだ。解決にはならない。いつまでも、立てこもってはいられない。
頭を抱えて、深呼吸をする。気持ちが悪い。
ここは午後五時から十時の間に、現実世界が繋がる扉が開くという。不規則。妖怪が人をさらうという逢魔が時のように、人間をさらっては食らう世界。広さは、市内。
ある者にはなにも異変は起きらないが、ある者はこの世界に入った瞬間に変異する。ゾンビのように徘徊し、人間を食らう。死んでいて、目が潰れている代わりに、音に敏感になる。噛まれれば、同じ変異が起きるという。
犬のような怪物もいる。異形な姿になった男の人もいる。
名前も聞きそびれた彼に、見た目はともかくいい人そうだったけれど、見捨てられた。
彼も目が視えていない。でも、音で開いた扉を見つけられると言っていた。今日中に見つけられなければ、また明日……とも言っていた。絶望的だ。
扉は恐らく、蠢めくような煙の塊。もしも目で見つけら れたとしても、それを通れるかはわからない。私が潜ったのは、空中に出来た扉だったのだから。扉というよりも、亀裂といった方が正しいかも。
見つけるためには、外に出なくてはいけない。奴らに食い殺される末路しか、思い浮かばなかった。
かといって、ここに飢えで死ぬまでいることもできない。助けなんて当然来るわけもない。期待もしない。
似たような悪夢を、何度も見たことがある。大量のゾンビが迫ってきても、不思議と逃げ切った夢。あとはゾンビを倒していく夢。そして、無事に目を覚ます。
夢の中ではいつだって、逃げ切っていた。夢のように上手くいけばいいのに。
「……」
閉じこもり続ける夢は、必ず見つかってしまっていた。
きっと、閉じこもり続けられない質だ。この極限状況を耐え続けられない。
それで、私は死にたい気持ちになっていたんだ。もう限界だって、飛び出したくなった。
この状況もーー耐えられない。
夢のように、倒してしまえばいい。無謀だろうけれど、餓死よりも足掻いて食い殺される方を選んでやる。いや全部倒して、ゆっくり出口を見つける。
冷静な判断じゃないだろう。でも、自棄を止めてくれる人はいなかった。今までも、これからも。
震えながらも、息を深く吸ってから吐いた。
そして、肉叩き棒を握って階段を下りていき、一番スクリーンを出ようとする。開いたら、そこにいるかもしれない。警戒をしながら、押し開ける。隙間から、覗くけれど黒一色で見えやしない。まだ夜だ。じゃああれから三時間経っていて、運が良ければあと一時間以内に扉を見つけられる可能性はある。
しかし、外が真っ暗なら動けない。確認するだけしてみよう。
耳をすましても、呻き声は聞こえなかったから、出てみた。自分さえもわからなくなる闇の中に、何かがいるかもしれない。闇に一飲みされてしまったよう。その闇から逃げるように、エスカレーター方面へ走った。
幸い、仄かな明かりを見つけられる。早足で私が潰した死体を横切って、エスカレーターの元に戻った。ガラスから外を見れば、かろうじて見える。月明かりみたい。元々暗いところにいたから、視界は十分だった。
確認できるだけでも、十人近くは道路を彷徨いている。三階にはなにも寄ってきていないようで、静かなものだった。
喉が渇いた。販売店のところに飲める物はあるだろうか。下りていって、ポップコーン売り場のカウンターに乗り込んだ。ポップコーンすら腐っているから期待はしていないけれど、適当に押してコップに注ぐ。匂いを確認したけれど、だめだと直感して諦めた。でも氷ならまし。溶けてしまっているそれを飲んだ。美味しくはないけれど、喉を潤すには十分。そう言えば、レストランにフルーツ缶があったはず。欲しくなって、レストランに戻る。油断しないように、周囲に気を配りながら。
なにもいないキッチンの作業台に座って、フルーツの缶を食べた。ここはゴミ臭いし、フルーツは生温い。でももう恐怖で感覚は麻痺してしまったようで、ただ噛んで飲み込む。
ま、私の人生の大半こんな食事ばかりだった。悲しいほど、母親の美味しい料理を食べた記憶がない。母の手料理より、このレストランのチキングリルを選ぶ。生きる気力がなさすぎて、絶食状態だった時期もある。それに比べたら、まだましだ。
ここを無事出られたら、美味しいものが食べたい。想像はあとにしよう。なにを想像しても、このゴミ捨て場のような臭いに満ちたキッチンでは台無しだ。
包丁をあるだけ取る。鍋掴みの手袋。フライパン。落ちていたエプロンに包丁を包んでフライパンに入れた。軽く準備運動をして、意を決す。
椅子を一つずつ、レストランから運び出した。歩道橋の先に、なにもいないことを確認してから、椅子を一つ全力で放り投げた。十字路の真ん中に落ちて、椅子は壊れる。
外にいた”ソレら”は反応して、椅子に集まった。私は身を乗り出して、黒い煙を探す。地上にも、空中にも、それらしきものは見つからない。目を凝らしても、なかった。
真っ暗な空には、大きな満月があるだけ。
反対側を向けば、駅のホームが見えた。煙の塊はない。私の運は、なかったみたいだ。
やるしかない。私に危害を加えそうなものを、全て排除する。
もう一つの椅子を運んで、今度は一箇所に集まったそこに、全力で投げた。二体に当たれば、巻き添えでもう三体が倒れていった。怒って叫び声を上げるけれど、私を見つけられない。ざまーないわね。
また一つ、椅子をお見舞いしてやった。
満月に照らし出された不気味な駅通りに、死体の叫びが木霊する。
最後に、フライパンをブーメランのように遠くへぶん投げた。カラン、と金属音が響く。そして包丁が音を立てて散乱した。次にそっちに集まっていく。
肉叩き棒を片手に、歩道橋を下りる。足が折れていて動きが鈍い”ソレ”の頭を叩き潰した。椅子の残骸を拾って、パーキンの自転車にぶつけるために投げる。パーキングにぞろぞろと向かう”ソレら”の注意を自分自身に向けないように、落ちた包丁を拾う。
近すぎて、私に気が付いた一体が、振り返る。飲んだくれたあとのような乱れたワイシャツとズボン姿の男。
黙れよ。猛獣の叫びを上げる口に、包丁を脳に向かって深々と突き刺す。
こっちに”ソレら”が注目してきた。でも死体を盾にしているからなのか、確信が持てなさそうに顔を揺らしている。足元にフライパンがあったから、パンプスに引っ掛けて歩道橋に向かって滑らせた。動くものを追いかける。本当に単純。
ゆっくりと包丁を刺した死体を置く。別の包丁を拾って、更に遠くに”ソレら”を誘導するために、適当に投げた。回転した包丁が、一体の背中に突き刺さって転がる。ナイス私。
もう一本、包丁を投げた。今度はただ落ちていく。
背後に迫っていると足音で気付いて、私は振り返ると同時に肉叩き棒を叩きつけた。顎が砕けたけれど、”ソレ”が起き上がろうとする。離れて椅子の足を拾って、図書館前の植木に当てて枝を揺らしておく。引きつけたことに成功したあと、椅子の背もたれを持って、顎なし死体の肩を踏んで押さえた。背もたれの砕けた先を頭にそえたあと、もう片方の足で全体重をかけて潰す。
それから、その背もたれをスイングさせるようにぶん投げた。膝裏に当たって、倒れる。ドミノのように、三体が並んで倒れた。
一番上の”ソレ”の頭に、包丁を突き刺す。下の二体がもがくけれど、立ち上がれないでいる。思いっきり、肉叩き棒を叩き落とせば、一石二鳥。
六体、倒した?
残りが十数体いる。私をようやく見つけた”ソレら”が、一直線に向かって手を伸ばしてきた。
のろまな”ソレら”を倒すなんて、超楽勝。身を隠すために抑えていた呼吸を、遠慮なくする。力を入れるために、呼吸は必要だ。けれども、五階から無事着地するほど、身体能力が上がってしまた気がする。私にも彼のような変異が少なからずも起きたということかも。または火事場のバカ力というやつを発揮しているのだろうか。
落とした鞄の中から携帯電話を取り出して、大音量でお気に入りの音楽を鳴らして滑らせるように放り投げた。先頭だけが私に向かい続けるけれど、他は音楽に吸い寄せられる。ほら、楽勝。
迫る一体の頭に一撃食らわせると、倒れたそれの背中に包丁が刺さっていた。引き抜くと、別の一体に両腕を掴まれる。悪臭が吐かれる醜い口が、ガジガジと噛もうとした。もう一体も右から、私を捕まえようとする。蹴り飛ばして、包丁を耳の穴に目掛けて深く刺した。
呆気なく引き抜けた包丁も手も、黒の血塗れになる。それを蹴っ飛ばしたソレの目の中に突き刺す。殴り倒した死体の上に、倒してやって動きを封じた。
音楽から私に気が逸れた”ソレら”が何体か向かってくる。ギシギシ、身体を大きく動かしながら呻いて手を伸ばす。道連れにしてやると、言っているようなもの。
銃が欲しい。こんなにも欲しく思ったのは、自分の頭を撃ち抜きたくなった時だ。もちろん、今は死体の頭を撃ち抜きたいから。
ふぅー、と息を吐く。背後にいないことを確認してから、椅子の破片を拾ってまた投げる。数体足留めしてから、椅子の残骸でぶっ叩いて転がす。踏みつけて、コンクリートに顔を叩きつけて、包丁を突き刺して、肉叩き棒で叩き潰した。掴もうとした手を切り落として、近付く顔を殴り倒す。砕いて、潰して、刺した。
目まぐるしい中、息がつけない。音楽はいつの間にか消えた。死体が耳を塞ぎたくなるほどの叫びを上げる。それを掻き消すように、骨を砕ける音を響かせた。悪臭のせいか、疲れのせいか、意識が遠くなる。
黒い血に滑りかけて、息をつく。
残りは……三体? 四体?
上下に肩を動かして、呼吸を整える。酷い臭いで最悪だ。よろよろと歩いて、距離をとる。一体は、足が砕けていた。足を叩いた覚えがないけど、大した問題ではないか。
あと三体倒せば、いい。悪夢のゾンビが一掃できる。
満月に向かって深呼吸をしていたら、とんでもない音を聞く。死体の叫びなんかじゃない。遠くから聞こえるのは、カンカンとリズミカルに弾む音。点滅する赤を思い出す。それとは別に、ガタンガタンと次第に大きくなって近づいてくるーー…これは……これは……。
歩道橋の向こうにある駅のホームに、それが悲鳴を上げるかのようにレールを擦る音を響かせながら入った。ーー黒ずんだ電車が一つ、停まる。
ガバッと開かれたドアから、呻きながら二十体もの死体が降りた。
こうのとり伝説が頭に浮かんだ私には、黒の大蛇が災いを運んできたかのようにしか思えなかった。大蛇を追い払って災いをなくしてくれるこうのとりはどこだ。
何故電車が現れた? どこから? どうして?
呆然としたけれど、わかったことがある。
彼が駆除していた。私がこの数で楽勝なら、俊敏で強靭なあの彼にはあっさり一掃できたはず。でも何体も彷徨っていた。私が犬に襲われるほど、”ソレら”の数が増えて溢れるほど。増え続ける。
それもそうだ。この数の行方不明者がいたら、大事になっている。”ソレら”は他所から投入されているんだ。
ぼんやりする視界で、すぐ横にきた”ソレ”を捉えた。左足を蹴り上げて転倒させる。うつ伏せになったそれの首の後ろを踏んづけた。枝をへし折るように首を折ることに成功。
でも周りを見ると、”ソレら”が増えていた。十字路の先からも、スクランブル交差点からも、ぞろぞろと死体が行進してくる。電車の音に、引き付けられて湧いてきた。他にないのだから、街中に届いただろう。
数え切れないほどの人食い死体の足音が、うるさく聞こえてしまう。不揃いで引きずった足音。お腹を空かせた獣の叫びや呻きを上げて、近付く。耳元で聞いているかのように、うるさい。うるさい。
私の人生って、こんなもんだ。
逃げたり倒したりして、生き苦しくなるような問題を解決しようとしても、問題が投入されてしまう。今まで見てきた悪夢は、それを象徴していたのかも。
もう一度映画館にこもるって手もあるけれど、行けそうにない。四階まで上れない。そんな体力はもう残っていなかった。
足が折れた死体が私の足首を掴もうとしたから、肉叩き棒で叩き潰す。もう私は”ソレら”に見つかっている。映画館に逃げ込めば、二度と出でこれなくなるだろう。追い込まれた。
大きく深呼吸して、満月を見上げた。
もう、死ぬのならばーー…
「ーー…っ生きたい!!!」
声の限りに叫んだ。久しぶりに出した声だった。
死にたい気持ちを引きずり続けた私は、ずっと生きたい気持ちになりたかった。
「生きたいっ!」
生きたいに決まっている。
苦しく思いなんてせずに、楽な人生を送りたい。ずるだろうが、息が詰まるより、ずっといい。楽をしたかった。普通の人生がほしかった。普通の人生を送りたい。両親が揃って安心できる家庭で生きたかった。ただそれだけがあれば、まともに生きられるはずなのに。死にたい気持ちになる根源を消すために、自分自身を殺したくなることもなかった。過去ごと葬って、己を消してしまいたかった。それでも今まで死ななかったのは。
「生きたいっ‼︎」
最期の時でも、これが叫べればいい。死にたくない、でも食い殺されたくない、でもない。生きたい。
涙を込み上がらせても、最後の力を振り絞って叫ぶ。最期の時ぐらい、生きたい気持ちでいっぱいにしたかった。
苦しむ死が迫ってこようとも、この気持ちを手放さない。最期まで死にたい気持ちに蝕まれてたまるか。足掻いてやる。生きたい。生きたい。生きたい。
私の叫びを掻き消そうとする死者の合唱は、耳をつんざくしビリビリと肌が痺れる。私を食いちらかそうと大口開けて、ボロボロの手を伸ばす。グルグルと回る視界には、飢えた死人しかいない。ホームの方にも柵を叩いて、喰らいたがっている。私の末路が浮かんだ瞬間、十字路の先から、別の猛獣のような叫びがしたかと思えば、犬の怪物が”ソレら”を蹴散らして来た。そのガーゴイルみたいな風貌の怪物と、睨み合う。食い殺されている間だって、抵抗してやる。
でも、黒で染まった。強風にさらわれたかのように、乱暴に引っ張られる。私を包み込むそれが、ふさふさした毛に思えたけれど、触れると溶けて消えたみたい。
スクランブル交差点の青信号の音が耳に届いて、顔を上げた。黒い顔がある。パーカーの大きなフードを深く被っていたから、輪郭がわからないくらい真っ黒だ。でも、彼しかいない。
また私を、助けてくれた。
どうやら、私達は元の世界に戻ったらしい。駅通りの灯りや、車のライトがある。当然、人々は抱き合うように立っている私達を避けて過ぎていく。
スクランブル交差点に、扉が開いて連れて出てくれたみたい。悪夢から、逃げ切った。悪夢から、目覚められた。
「ありがとう……」
ポロポロと涙を零しながら、私は震えながらお礼を伝える。彼のパーカーを握り締めて、喉が痛むけれど言い続けた。
「ありがと、ございますっ」
力が抜けそうで抜けない。安堵のせいなのか、疲労のせいか。なんだかわからない感覚のまましがみついている私の頭に、掌が置かれた。犬のように大きな指先ではなく、男の人の手。けれども、漆黒だった。
「……生きろよ」
グシャッと強めに撫でると、彼は信号を渡って行ってしまう。
こんなにも、重い言葉を言われたのは初めてだった。
生きなきゃだめだと無責任な言葉よりもずっと、ずっと、ずっと。生きる糧になるようなたった一言だった。
彼の顔を見て、思い知る。助けた私が死にたがり屋だって知って置き去りにしたのも、無理ない。異形な姿になってしまった彼は、現実の世界に戻っても、元の姿には戻れない。私は無事生き延びた上に、異形な姿に変えられてもいない幸運者。死ね、と吐き捨てて見殺しにしてしまうのも、理解できる。私でも、そうしてしまう。
生きたいと叫んだ私を助けてくれた。そして、取り消すような一言。
互いに名乗り合っていないのに、二度も助けてくれた彼は、消えてしまった。
黒い血に塗れていたはずなのに、何事もなかったかのように手も服もパンプスも汚れていない。連れ出す際に拾って持たせてくれた鞄には、携帯電話もある。時間を確認すれば、午後九時五十三分だったけれど、五十四分に変わった。
馴染みの街をぼんやりと眺めて、涙を拭って歩き出す。そして、一人暮らしの部屋に帰った。
日常に戻って、数日が過ぎる。激しい運動をしたから、筋肉痛を覚悟していたのに、それはなかった。精神的には疲れているから、少々放心状態だった。死にたい気持ちに襲われることもなく、ごくごく普通に仕事をこなして生活できた。
仕事帰りになんとなく、駅通りに足を運んでみた。スクランブル交差点を渡って、自転車のパーキングを過ぎて、歩道橋に辿り着くと、彼を見つける。歩道橋の上に凭れるように立っていた。
暗い灰色のパーカー。梅雨で蒸し暑いというのに、大きなフードを深く被っている。間違いなく、彼に違いない。
スキップするように階段を上がって彼の前に立つ。なんて声をかけるか決めてなくって、目が視えていないであろう彼の前でそわそわする。早く声をかけなくちゃ、失礼だ。
「こんにちは」
とりあえず、挨拶。
彼は顔を上げようとしない。だからフードの中が、真っ暗にしか見えなかった。
「私、先日助けてもらった……」
「わかってる。死にたがり屋の小娘だろ」
「はい、生き延びた小娘です」
覚えてくれていた。
「……なに笑っている?」
嬉しくって笑ってしまったことまで、彼にわかってしまうみたいだ。おかしくってにやけていれば、彼は首を傾げた。
スッとした高い鼻が、はみ出る。癖のついた漆黒の髪の毛もチョロっと見えた。
「考えたのですがね」
本当は今決めたけれど。隣に凭れて、私は決心を伝えることにした。
「一緒に戦いましょう」
「……は?」
「私って結構やるでしょ? 役に立てます。あなたは無愛想だし、その姿もありますから。私なんて可愛くて無害に見えますので、人助けもスムーズにいけるじゃないですか」
「……」
おちゃめに押し売りする。プロとは言わないけれど、接客業が仕事だから、彼より適任。
彼はしぶっているのか、または可愛い発言に引いているのかも。
視えてしないからわからないだろうけれど、私は美女よ? これ以上コンプレックスに苛まれないようにって、モデル並みにいい体型維持をしている。美女だから。
「こうのとり伝説は知っていますか?」
「……」
「こうのとりが赤ん坊を運ぶ、という方ではないですよ」
彼は、身を引いた。知らないって反応かな。
表情がわからないけれど、仕草と雰囲気で読み取ろう。
「この鴻巣ができた伝説です。神の木と崇められる木があって、人々がお供えをしなければ災いを起こす厄介な木。その木にこうのとりが巣を作ってたまごを産んだ。そのたまごを狙って、大蛇がきた。飲み込もうとした大蛇を、こうのとりが撃退。それから、災いが起きなくなって、ここは鴻巣になったのです」
サクッと説明した。
「関係があるかはわかりませんが、あの世界が市内にしかないのなら調べてみる価値はあるかと。黒ずんだ電車がどこから来たのか、わからないですが、私には大蛇に思えました。災いを運んできた大蛇」
彼は、なにも言わない。彼も電車がどこから来たのかは、知らないようだ。
「大蛇を撃退するこうのとりを見つけられたら、解決できるかもしれないですね」
今のところは冗談にしかならないので、私は笑う。
「……死にたいから、危険に飛び込みたいのか?」
彼が私を疑うから、目の前に立つ。さっきよりも近く。触れそうなほど、近くだ。
「いいえ! 私は自分を守るために戦うんです。あれは増えすぎると溢れてこっちにくるんですよね? ゾンビが現実世界に蔓延したら、生きられないじゃないですか。犬がいつ出てくるかヒヤヒヤしながら暮らすのも御免です。市内に住んでいるんですよ。寝室に寝てる間に来たら終わりじゃないですか。生きることが大前提です。こっちで安心して楽しんで生活するためです」
スラスラと今まとめた建前を喋った。
手摺りを掴んでいた彼の手に触れると、彼は微かに震える。
「一緒に謎をといて、元に戻しましょう」
笑いかけるけれど、私の笑顔は彼には視えない。それでも、声音でちゃんと伝わっているはずだ。
「それで、私の命の恩人さん。お名前はなんですか?」
「……」
ここでやっと名前を訊ねる。
けれども、彼は私の下から手を引き抜くと拒んだ。
「教える気はない」
そっぽを向いたけれど、私と謎ときをすることは拒まないみたいだ。
「私は来栖赤音です。赤い音色で、あかねです」
じっと待っていたら、諦めた様子で右手を差し出してきた。
「死んでも知らんぞ」
「絶対助けてくれるくせに」
「……」
真っ黒な手と握手をする。温もりに欠けていて、肌の間に煙が張り付いているようなふわっとした感触がする気がする。
平凡なこの街の闇で起きている謎を、この彼ととき明かす。死にたがり屋だった私が開き直って、楽しく生きていくために。
やがて私は、彼をナイトメアーと呼んだ。
先月私が見た悪夢が、音に反応するゾンビで、
何故か一人だけ意識のある赤と黒が蠢くような姿の男が一度だけ見逃すと言って助けてくれる夢でした。
そんな悪夢を元に、前々から物語に取り入れたかった「こうのとり伝説」を無理矢理に入れ、念願のゾンビもの書いてみました!
恐怖がゾクゾク迫り来るような描写ってなかなか難しいですね。
その後、ヒロインである来栖赤音は開き直って、ナイトメアーと呼ぶ彼にベタベタしながらゾンビ狩りをしつつ、
謎をときをしようとするのですが、機会があればまた続きを書いて更新してみたいです!
20160621




