プロローグ
夕暮れの訓練場は、橙色の光に沈んでいた。
魔物の糸で織られた戦闘服は、薄く、柔らかく、身体に沿う。
魔力を流せば鋼より強くなるが、普段はただの布のようにしなやかだ。
だからこそ、鍛えられた身体の線がはっきりと浮かぶ。
男は一人、剣を振っていた。
汗が首筋を伝い、布が肌に張り付く。呼吸は荒い。だが目は真剣だ。
「――すまないが」
背後から、凛とした声。
男は反射的に振り向く。
そこに立っていたのは勇者だった。
同じ素材の戦闘服。
腰から脚へと流れる線が、夕日に縁取られている。
視線が、ほんの一瞬だけ逸れる。
「パーティを抜けてくれないか?」
男の喉がひくりと鳴った。
「つ、追放ですか……? たしかに、俺はまだ未熟で……」
勇者は静かに首を振る。
「違う。お前はよくやっている」
一歩、近づく。
「見違えた」
距離が、近い。
「では、なぜ……」
勇者はわずかに視線を伏せる。
「このパーティの規則は覚えているか」
「恋愛禁止……ですよね」
「ああ」
沈黙。
夕日が沈み、空気が冷える。
勇者はゆっくりと顔を上げた。
「私を、女としてどう思う」
一瞬、風が止まったように感じた。
「……え」
「答えろ」
声は穏やかだが、命令だ。
男は目を逸らせない。
「尊敬しています。誰よりも強くて、真っ直ぐで……」
「異性としては?」
喉が鳴る。
「……綺麗だと、思います」
その瞬間。
勇者の指が、男の胸元に触れた。
薄布越しでもはっきり分かる体温。
「ここ」
ゆっくり押す。
「鼓動が速い」
男の背が後退る。
勇者はその分、前に出る。
追い詰める。
「追放と言ったのはな」
耳元に口を寄せる。
吐息がかかる。
「私が、規則を破りそうだからだ」
男の身体が強張る。
勇者の舌が、耳の縁をゆっくりなぞった。
直接。
ぬるりとした感触が残る。
「っ……!」
「動くな」
低く、静かに。
もう一度。
今度は耳の裏から、耳朶へ。
丁寧に、時間をかけて。
男の指が震える。
「強くなったな」
囁きが、湿る。
「身体も、魔力も……そして」
軽く耳を噛む。
「私を意識する心も」
男の呼吸が乱れる。
勇者の腕が腰に回る。
薄布越しに、体温が混ざる。
「この服はな、魔力に敏感だ」
指が腹部をなぞる。
「乱れればすぐ分かる」
魔力が微かに流し込まれる。
男の身体がびくりと跳ねる。
「制御しろ」
「勇者様のせいです……」
「ほう」
くすり、と笑う。
「私のせいにするのか」
勇者は正面に回り込み、顎を持ち上げた。
目と目が合う。
近い。
「なら証明しろ」
唇が、触れそうで触れない距離。
「私に触れたいと思わないほど、強くなれ」
挑発。
完全な余裕。
男の手が思わず勇者の腕を掴む。
ぴたり、と空気が止まる。
勇者はその手を見る。
そして、ゆっくりと微笑む。
「触れていいとは言っていない」
だが離れない。
むしろ、耳に再び舌を這わせる。
深くはしない。
焦らす。
「最強になれ」
吸うように、耳を甘く引く。
「その時は」
唇が、首筋に触れる寸前で止まる。
「私が決める」
すっと離れる。
熱が引く。
男は荒い呼吸のまま立ち尽くす。
勇者は背を向ける。
「追放はしない」
歩きながら、言う。
「逃がす気もない」
振り返らずに、静かに続ける。
「抜けたくなるまで、育ててやる」
月が昇る。
男の耳には、まだ湿った感触が残っている。
勇者は闇の中、小さく息を吐く。
理性は、まだ保っている。
だが。
「……時間の問題だな」
彼が強くなればなるほど。
自分が危うくなる。
それでも――
手放す気など、最初からなかった。




